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資源ゴミ置き場

あまり健全ではない文章を置いていく場所だと思います。

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暇を持て余したメイジギルドの生徒とギルド長の遊び

 
 (まえがきのような何か)
 この文章の前半部分はレントンが講義を聞いてもらえない内容の話です。こちらはレントン視点。
 後半からはレヴラスさんがレントンで遊んでいるだけの内容です。レヴラスさんがすごくうるさい。
 読んでいてあまり気持ちのいい内容ではないと思います。
 

 
 その日の朝、その扉を目にした時、私は心臓が軋むような不快感を覚えた。
 私はどうしたことか、この扉の向こうにある大講義室が昔から苦手だった。
 いや、大講義室というよりは広場で大人数の視線を浴びながら喋ることが苦手なのだろう。
 それに加えて、私にはこの講義室をことに恐れる理由がもう一つある。
 それでも、今から私はこの扉の向こうで大人数の生徒を前に講義をしなければならなかった。どんなに苦痛でも逃げてはならない。
 先週は体調不良にかまけてこの講義室から逃げてしまったので、その代償としてという意味でも今日こそは逃げることなど許されないのだ。
 息を大きく吸い込んでは吐き出すのを幾度か繰り返すと、私はその重い鉄の扉をこじ開けた。
 その時だった。私が頭のてっぺんに重く冷たい衝撃を感じたのは。
 そして、それだけではない。
 私は、頭から大量の冷水を被っていた。遮られる視界の中で、鈍い銀色のバケツが床を転がっていく。
 顔に貼りつく濡れた前髪をかき上げて前方を見渡すと、着席したまま笑い声を上げる生徒たちの姿が見えた。
 ――ああ、またなのか。こんなことは一体何度目なのだろうか。
 二週間前に頭上から降ってきたものは白墨の粉にまみれた黒板消しだった。
 そして、今日に降ってきたものは水を入れられたバケツだった。
 これが、私の講義室を恐れるもう一つの理由だ。
 しかし、今回は恐れよりも怒りの方が先行した。なぜなら、前日に講義内容をまとめたノートも講義に使用する書物も全てが水に濡れてしまったからだ。
「一体誰なんだ、こんな子供じみた悪戯をするのは」
 教壇に上がりながら、私は声を荒げた。
 だが、その怒りを乗せた声は馬鹿に広いこの講義室内にただ虚しく響くだけだ。
 誰もがくすくすと笑うだけで、誰もが悪戯をしかけたと名乗り出ることはない。
「先生、早く授業を始めてください。先週は授業が休みだったから私たちの勉強も遅れているんですよ」
 生徒の一人がわざとらしく声を上げる。それに続いて、他の生徒たちも騒ぎ始める。
 そうだ、私は生徒たちを怒るためにこんな場所に来ているのではない。
 こうして怒れば生徒たちの思うつぼではないか。
 今は、感情を押し殺しながら指導者として振る舞わなければならない時間だ。
 たとえ、金属製バケツをまともに当てられた頭が痛んでいたとしても、肌着まで水に濡れて大変に不愉快で仕方ないとしても。
「……もういい。今から講義を始める。くれぐれも私語は慎むように」
 形式的に、私は生徒へ向けて叫んだ。
 もちろん生徒たちがそれに従うことはなく、講義中に何度も繰り返す私の呼びかけはざわめきの中に虚しく消えて行くばかりだった。
 講義内容をまとめたノートの潰れた文字に目をやるたびに息が詰まるような心地がしたが、それでも講義を最後まで続けなければいけないという思いだけが私を支えていた。
 
 
 研究室に戻り、水でふやけたノートや書物を机の上に叩きつける。
 椅子に座った私は、抱え込んだ頭に両手の爪を食いこませ、歯ぎしりをした。
 一体どうして私は生徒たちにかくも悪質な悪戯を仕掛けられるようになってしまったのだろうか。
 生徒たちが私へ悪戯を仕掛けるようになった理由は何かあるはずなのだろう。
 だが、一体何が引き金になってしまったのかが分からないのだ。
 私の教え方が悪いのだろうか。それならさらに努力をしなければいけない。
 他に問題があるならさらに努力をするまでのことだ。問題が分からないのなら問題を探す努力をすればいい。
 それなのに、どうして私はそれができないのだろうか。どうして私は教壇に立つことに怯えるのだろうか。
 生徒を満足に指導できないのではそれこそ指導者失格だ。
 ふと気が付くと、髪から落ちた水滴が机の上にまだら模様を作っていた。
 そうだ、水を浴びてから着替えるのを忘れていたのだ。早く着替えないと風邪を引いてしまうだろう。
 椅子から立ち上がり、濡れたローブの腰紐を解こうとした時のことだった。
 ――いっそ、風邪を引いてしまえばいい。そうすれば、あの嫌な講義を休む理由ができるじゃないか。
 何かが、耳の奥からそんな言葉を囁いた。
 その声に、私は腰紐へかけられた手を離して目を見開いた。
 そうだ。風邪を引けば確かに休む理由が作れる。それでもわざと風邪を引くことなど許されるべきではないはずだ。
 ――お前はどうして頑なに努力をしようとするのだ。もういいではないか。休んでしまえよ。
 声の主はいやにやさしい声で喋り続けるが、そのやさしさは私へひどく不愉快な脱力感をもたらした。
 声にうち負かされた私は頭を抱えながら椅子に座り込む。
 やがて、身体が寒さのあまり震え出し、食いしばる歯ががちがちと音を立て始めた。
 このままでは本当に風邪を引いてしまう。だから早く着替えなければいけない。
 それなのに、何故なのか立ち上がる気力が湧いてこない。身体は動いてくれない。
 そうするうちにも、水に濡れて肌に貼りつくローブは着実に私から体温を奪っていく。
 身体の震えは椅子の足が小刻みに音を立てるほどになっているが、それでも動こうという気力は湧いてこない。
 抗いがたい無気力感から私が解放されたのは、それから小一時間後のことだった。
 
 
 翌日、私は耐え難い喉の痛みで目を覚ました。
 喉に加えて鼻の奥もがひりひりと痛み、頭が重い。
 案の定、私は風邪を引いてしまったのだ。
 寝床から這い出して足元のスリッパを履こうとすると、立て続けにくしゃみが出るせいで私は平衡感覚を失い、床に膝をついた。
 昨日、辛うじて着替えた時から感じていた背中の寒気は今も続いているらしい。
 この寒気と全身の倦怠感が熱のせいであることに私が気付いたのは、その時だった。
 それでも、私は熱を無視し、身だしなみを整えてギルドへ向かう準備を始めていた。
 それは洗面所に立っている時のことだった。
 歯を磨いていると、突然に鼻の奥ががむずむずとし出して口元が引き攣った。
 私はそれがくしゃみの前触れであることに気付いてすぐ口元を押さえようとしたが間に合わず、くしゃみと共に飛び散った唾液は目の前の鏡を容赦なく汚した。
 その鏡に映る私は、鏡のまだら模様と同じように白く泡立つ唾液を口元からだらだらとこぼしている。
 その姿はあまりに情けなく、笑うしかなかった。
 私は馬鹿だ。本当に馬鹿でしかない。
 どうして昨日の私は講義を終えた後すぐに着替えなかったのだろうか。
 今日もギルドには行かなくてはいけない。それなのに風邪を引いていてはどうしようもない。
 とてもギルドに向かう気にはなれなかったが、それでも私はギルドへと辿りついていた。
 だが、この日は立て続けに出るくしゃみでとてもギルドの業務を行えるような有様ではなかった。
 その翌日も、またその翌日もそれは同じだったが、それに加えて鼻水が作業を妨げることとなったのだった。
 
 
 その日、レヴラスは隅々まで綺麗に掃除されたギルド長室で来訪者を待っていた。
 懐から取り出した時計の針は自分の指定した時間を指し示そうとしているが、相手はまだ来る気配がない。
 レヴラスは普段から潔癖症のような気質なのだが、他人と顔を合わせる前となるとその気質は彼へますます神経を遣わせることとなる。
 そして、その潔癖症は時間に対しても同じだった。
  彼は不潔を嫌い、身だしなみの乱れを嫌い、時間をきっちり守らない人もまた嫌う。
 髪は綺麗に梳かし、服についた埃も全部始末した。それから、ギルド長の証である金属製の首飾りも忘れず首にかけた。この部屋も、人を入れるのだから念入りに掃除をしてある。
 自分にできることは全て済ませた以上、あとは来訪者を待つだけだったが、それが他人である以上は自分の思うようにはいかない。
 レヴラスは自分が爪を噛もうとしていることに気付くと、爪を隠すように拳を握った。
 ――私としたことが、相手が自分の思う時間に来ないだけで苛立つなんて。他人は自分の手で思い通りに操れる存在ではない。だから苛立つだけ無駄だろう。それにしても、これだから「人」というものは苦手だ。
 その「来訪者」はレヴラスにとって決して好意を寄せられる存在ではない。ギルド内の人間でなければ関わりたいと思うことすらなかっただろう。
 だが、その存在はレヴラスの抱えるある種の好奇心をそそるに十分な屈折した魅力をもつことも確かだった。
 時計を覗く回数が十を超えた頃だった。
 扉を叩く音が三度響くと、「来訪者」が開いた扉から顔を出した。
 部屋に入る男の足取りはどこかおぼつかなく、体調を崩していることが窺えた。
「レントン、ずいぶん待ちましたよ。どうしたのですか」
 レヴラスは来訪者の男を前に、優しい笑顔と声を作った。
 ずいぶん待ったとはいってもせいぜい五分程度だろう。レヴラスは敢えてそのような皮肉を言わずにいられない性分だ。
「ああ、遅くなってすまない」
 レントンはレヴラスの言葉に申し訳ないという表情を浮かべる。
 このように自分の行動や言葉が相手に何らかの影響を与えることを知るたび、ひそかにレヴラスは仄暗い満足を感じていた。
 彼は、自分がこれ見よがしに首飾りの紋章を布で拭く姿を見たギルド員が心をかき乱されることを知っている。自分が相手の感情を操る力をもっていることを知っている。
「質問に答えていませんね。まあ、遅れたとはいってもせいぜい五分程度ですから別にいいでしょう。とりあえずこちらの椅子におかけください」
 レヴラスは自分の椅子に座り、向かいの椅子を勧めながら敢えて嫌味っぽく言葉を続けた。
 レントンはギルド長が嫌味を言わずにいられない性分であることまでは理解していたが、それでもいささか不愉快な感情を抱かずにはいられなかった。
「それで……要件というのは一体何だろうか」
 レヴラスに勧められるまま椅子に座ったレントンはかすれた声で尋ねると、口元を手で押さえながらげほげほと咳き込んだ。
「レントン、風邪を引かれたのですか。お願いですから移さないでください。要件というのはその風邪のことです」
「私の風邪が一体どうしたというのか、私には分かりかねる」
 レントンは困ったような顔で鼻をすすると、再び尋ねた。
 レヴラスはわざとらしくため息をつきながら立ち上がると、すぐ傍の棚に置いてあるポットの茶をコップに注ぎ始めた。
「あなたは相変わらず鈍感なのですね。あれは三日ほど前でしょうか。ずぶ濡れになったあなたが廊下をふらふら歩いている姿を複数のギルド員が目撃しているのです。その風邪はそれが原因なのではありませんか。一体何があったのですかね」
「それは……転んで手洗い場に突っ込んでしまったんだ。話すのも馬鹿馬鹿しいことだ」
 レントンは突き放すように答えると、顔を隠すように俯いた。
 だが、レヴラスはレントンがこの問いに対して僅かに顔を歪めたことを見逃さなかった。
「そうですか。手洗い場でどんな転び方をすれば頭からそのローブの裾まで水に濡れるのでしょう」
 くすくすと笑うギルド長を前に、レントンは眉間にしわを寄せた。
「何がそんなにおかしい」
「すみません。あなたがそんな間抜けなことをするなんて想像できなかったので。でも、あなたがそう仰るのならそうなのでしょうね。それはそうと、相当喉の具合が悪そうですからこの茶をどうぞ。喉によく効く薬草が入っているのです」
 レヴラスは笑うのをやめると、再び椅子に座りながら一杯の茶をテーブルの上に置いた。
「ああ、気を遣わせてすまない。ありがたく頂戴しよう」
 レントンは手に取った茶を一口喉に流し、いささか渋い顔をした。
「……随分と苦い茶だな、薬草というだけある」
「その薬草は喉の緊張をほぐすそうですよ。魔法の詠唱も滑らかになるでしょうね」
「そうなのか、それはとてもありがたい話だ」
 レヴラスは、レントンが茶を飲み干すのを見届けると僅かに笑みを浮かべた。
 それから暫くの時間が経った。
 レントンはギルド長に他愛のない話を振られ続けるうち、全身がだるく重くなっていくような感覚に襲われ始めた。そして、瞼も重く目を開けていられなくなった。
「レントン、どうやら昨夜もあまり眠れていなかったようですね。咳で中々寝付けなかったのではありませんか」
 レヴラスは正面に座るレントンに向かって身を乗り出すと、その額に手を当てた。
「しかも熱まで出ているではありませんか、あなたは自分の体調管理もできないのですか」
「ぎ……ギルド長、あなたは茶に一体何を入れたんだ」
 レントンは重い瞼を開くと、レヴラスを睨んだ。
「いいえ、私は何も変なものなんて入れません。ただ、この茶には喉だけでなく全身の緊張をほぐす効果があるのです。あなたは急に具合が悪くなったように感じているのでしょうけれど、それはただ単に緊張で誤魔化していたせいで体調不良に気付けなかっただけです」
 レヴラスは頭がぐらつくレントンの目を見つめながら言葉を続けた。
「私は知っていますよ。三日前にあなたが濡れねずみになっていたのは生徒がしたことなのでしょう。ずぶ濡れにされながら着替えもできないままで講義を続けたのですね? その結果としてこの風邪を引いた……と。それにしても、生徒は何故あなたにそんな悪戯をするのでしょう。そんなにあなたの講義がつまらないのでしょうかね」
「……そうだな。きっと私の技量や努力が足りないのだろう。私が悪いのだ、全て私が……」
 レントンは、レヴラスの指摘に言い返すことなどできなかった。
 レヴラスの問いは、常日頃から生徒に講義内容が分かりやすいよう努力を注いでいたレントンにとって残酷なはずだ。
 だが、レヴラスはレントンの努力を知らないわけではなく、それを無視して敢えて彼の感情を害するであろう言葉を選んだのだった。
 傷を受けた者の多くは痛みに声を上げる。あるいはこれ以上傷を増やすまいと抵抗するだろう。
 目の前にいる男も心抉る言葉を受ければ多くの者と同じように声を上げるはずだ。
 レヴラスはそんな期待に心を躍らせていたが、その期待は裏切られた。
 ――どうしてこの男は自分の尊厳を損なう言葉を受けてもなおそんな冷たい目でいられるのだろう。刃物で刺されても血を流さず笑っている人間を見ているようでただひたすら気味が悪い。
 淡々と何の感情もこもらない声で呟くレントンの、その声と同じように凍りついたような目を見つめながら、レヴラスはある種の薄気味悪さを覚えずにいられなかった。
 そして、レントンの呟いた「私が悪い」という言葉もまたレヴラスを不愉快にするものだった。
「なるほど、つまり全てあなたの責任だということですか。あなたは本当にそう思っているのでしょうか? もし本当にそう思っているのだとすればそれは傲慢でしかないと思います」
「それは、一体どういう意味なんだ……?」
 レントンはまるで不意打ちを食らったかのように目を開きながら尋ねた。
 僅かに驚きや困惑の入り混じる目をしたレントンを前に、レヴラスはある種の胸の高鳴りを覚えた。
 そして、その上で相手の心を深く抉る言葉を選び出そうとする彼はちょうど蟻の巣を木の枝でほじくり返す子供のような無邪気さを湛えている。
「あなたなら分かると期待していましたが、それは的外れだったようですね。はっきり言います。あなたは自分さえ努力すれば生徒たちを変えられるとでも思っているのでしょうか。そういうところが傲慢だと私は言いたいのですよ。ええ、あなたの努力は認めます。ですが、私は努力さえすれば全ては思い通りになると考えているような傲慢な人間が嫌いなのです」
「そんな、私は……」
「私は一体何でしょう? あくまで自分は謙虚な人間だとでも言いたいのでしょうか。私にはそこまで傲慢になれる心性が理解できません。ああ、そうです。先程あなたは全て自分が悪いと言いましたが、それもまた欺瞞に満ちているように見えます。自分だけを責めていればさぞかし楽でしょうね。その裏に隠れている他者への憤りをなかったことにできるのですから。そうした意味でその自責の姿勢は怠惰に他ならないと思うのですが、違いますか?」
「あ……」
「自分さえ努力すれば他人を変えられるという考え方は、裏を返せば他人は自分の手でどうにでもなる取るに足らない存在だと見下しているようにも取れます。本当にその上で全て自分が悪いという結論に至ったのでしたら、それは独善に他ならないのではないでしょうか」
「わ……私は…………」
 レントンはうわごとのように呟いたところで言葉を詰まらせ、視線をぐらつかせた。
 そんな彼を前にしても、レヴラスは容赦することなく、更にたたみかけた。
「口を開いたと思ったらまた『私』ですか。何か言い訳でもするつもりなのでしょうか。いいでしょう、言い訳なら聞きますよ。時間ならまだたくさんあるので」
 レヴラスは敢えて相手の言い分を聞くという旨の言葉を吐くが、今やレントンは自分の言い分など分からなくなっていた。
 だが、混乱の中でレントンは自分が今の状況に理不尽を覚えていることを理解した。
 ――私は一体何が言いたかったのだろうか。そんなことは今や分からない。だが、そもそもどうしてここまで言われなければいけないのだろうか。それが悔しくて仕方ない。
 部屋に、がつんと鈍い音が響いた。
「一体、私はどうすれば良かったんだ……どうしてあなたにそこまで言われなくてはいけない」
 レントンは向かいに座る男を睨み、テーブルの上に振り下ろした拳を震えさせる。その目は先程の凍りつくような冷淡さを完全に失い、水のようにぐらぐらと不安定に揺らいでいた。
「一体どうしてなんだ。どうしてだ。どうして、どうして……」
 レントンの混乱を映し出すこの言葉は、今や叫びに近いものだった。
 彼の悲痛な叫びを前にしてもなお、レヴラスは意地悪に微笑んだ。
「『どうして』ですか。そうですね、そんなことは私にも分かりません。あなたがどうすればいいか、それもまた私の知ったことではありません。あなたも頭が悪いわけではないでしょう。自分で考えてください」
 ギルド長の突き放すような言葉に、レントンは突然顔を逸らした。
 今の彼が頻りに鼻をすするのは風邪を引いているからだけではない。
 その長く伸びた髪は赤い両目を隠すが、既に流れ落ちた涙までは隠さなかった。
 手の甲で必死に涙を拭うレントンを見つめながら、レヴラスは再びにやりと笑った。
「あなたも泣くのですね。それが分かって安心しました。先程のあなたはまるで感情なんて捨て去りましたとでもいうような冷たい目をしていたので少し心配になったのです」
「やめろ、泣いてなどいない……あなたは一体何がしたいんだ……」
「泣いていない? 嘘はやめてください。生徒が言っていました。あなたは人を寄せ付けない冷たい目をしているから怖いと。あなたのことですから、講義中も終始氷の仮面を被ったような顔をしているのでしょう。そして、それは私の前でも同じ……なので、一度その仮面を壊してみたかったのです。あなたが被った氷の仮面は溶かして何度も叩かないと壊れないので厄介でしたよ」
「あなたはそんなことのために……っ。こんな顔をじろじろ見るのはやめろ、お願いだからやめてくれ」
「どうして見るのをやめなけれはいけないのです、今のあなたの顔、最高ですよ。普段よりずっと魅力的ではありませんか。そうやって顔を隠そうとするところもいじらしいと思います」
「黙れ……げほっ……うげええっ、げほっ……げえっ」
 レントンは、楽しそうに笑うレヴラスを睨みながらひどく咳き込んだ。その咳き込み方は嘔吐にも似ていて、見るからに苦しそうだ。
 その時になって、レヴラスは相手が病人であることを思い出した。
 それでも、彼には今更容赦する気など微塵もなかった。
「すみません、あなたの具合が悪いことを忘れていました。ただでさえ風邪を引いているというのに、涙で鼻と喉を塞がれてはさぞ苦しいことでしょう。ああ、そこに鼻を拭く紙ならたくさんあるので衣服の袖を使うなんて真似はやめてください。衣服の袖を汚い水で汚してよいのは小便くさい子供くらいです。生徒たちが今のあなたを見たらどう言うでしょうね。もしかしたら、生徒たちはあなたのその顔が見たいのかもしれませんよ」
「うるさい、お前は一体何なんだ。先程から人の神経を逆撫ですることばかり言って何が楽しい。どうしてこんなふざけたことに付き合わされなければならないんだ!! 何をされても、狂いそうになってもなお感情を殺して耐えなければいけない人間の気持ちが分かるか。この蛆虫が!!」
 レントンは拳を振り上げ、堰を切ったように叫んだ。その充血した目には激しい怒りが渦巻いている。
 だが、レヴラスは狼狽することもなくあくまで冷静にレントンの拳を片手で制した。
 手首を掴まれ、レントンは自分がギルド長を殴ろうとしたということに気付くと怯えるように顔を引き攣らせた。
「あなたも怒るのですね。もっとも、私が怒らせたのですが。私を殴りたくなる気持ちは分かりますが、蛆虫扱いは感心しませんね。私は蛆虫が大嫌いなのですよ。あの腐肉や汚物に群れて貪りつくあさましい姿……自分の死体が蠢くあれに貪られる姿を想像したら背筋がぞくぞくして堪りません。あなたは……どうですか?」
 レヴラスはレントンの手首を放すと、彼の耳元で囁いた。
 レヴラスの問いに、レントンは無数の蛆虫が背中の上を這い回るような心地を覚えて震え上がった。
「ぞくぞくするでしょう。ですが、あなたのその寒気は蛆虫のせいではなさそうです。熱が上がってきているのでしょうね。今日はもうお休みになられるべきかと」
「そうか。では、ここで失礼させてもらおう。あなたを殴ろうとしたうえ、罵ってすまない」
 レントンはレヴラスの「休め」という言葉をこの場からの解放だと受け止めて安堵を覚えた。
 ところが、彼は椅子から立ち上がったところで自身の身体の異変に気付いた。
 逃げるように扉に向かって歩こうとするが、まるで足元が浮遊しているかのようでまっすぐ歩くことができない。
 そして、頭と肩に鉛を背負っているかのようで前を見据えることもできない。
 そのまま倒れ込んだレントンは、床に膝をつきながらぜえぜえと喘いだ。
「レントン、大丈夫ですか。ああ、これはひどい熱です。無理に部屋を出る必要はありませんから私の部屋でお休みになってください。もっとも、私の部屋であなたを寝かせられるのは解剖台くらいなのですが」
 レヴラスはレントンの額に触れ、その肩を支えた。
「すまない、私は大丈夫だからいい。解剖台で寝るくらいなら自室に戻る」
「そんなことを言っていられる体調ですか。まずはこの熱をどうにかしなければいけませんね。早く解熱するならば、坐薬が一番効きます。坐薬を入れて一晩眠ればあなたの体調も回復するでしょう」
 ――坐薬。この言葉を耳にしたその時、レントンは心の底から嫌悪感を覚えた。
 他人に自分の尻を晒すなど勘弁だ。それに加え、相手はレヴラスなのだ。
 レヴラスには「常日頃から魔術実験のために魔物の解剖を繰り返している」だとか「長らく禁忌とされてきた死霊術にまで手を出そうとしている」という噂がある。
 他人に尻を晒すことが恥ずかしいのは言うまでもないが、そんなギルド長に自分の身体を委ねるなど空恐ろしくて仕方ない。
 どうにかしてレヴラスの手を振り払いたいが、身体はもう言うことを聞かない。
 ここに来る前は暗示をかけて体調不良に抗うだけの気力があったはずだが、暗示が解かれた今はもう抗うだけの気力がない。
「解剖台でもシーツを敷けば寝心地も少しはましになります。さあ、行きましょう」
 レヴラスの手で身体を担ぎ上げられながら、レントンは遠くなる扉に向けて救いを求めるように手を伸ばした。
 だが、ギルド内にはそれに気付く者は誰一人としていなかった。
 
 *おしまい?*
 

 
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