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資源ゴミ置き場

あまり健全ではない文章を置いていく場所だと思います。

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風速150m(2)


 (まえがきのようなもの)

 この文章は、引き続き「くだらぬ妄想の」の文章となっております。
 主にこれの裏面エピソードのようなものです。主に15円の人視点。
 15円の人は相変わらず不安定だしかなり病んでいます。かざぐるま視点の分と一人称が違うのは仕様です。




 先程から、頭ががんがんと痛み、瞼がひりひりと痛み続けている。
 でも、この痛みの理由なら分かりきっている。頭と瞼が痛むのは何時間も泣き続けたせいだ。
 オレは考える。こんな自分の身に一体何があったのだろうと。
 何故こんなことを考えないといけないかというと、この一日の記憶が殆ど失われていたからだ。
 記憶喪失といえば自分が今までどのように生きてきたかとか、自分が何者かなどを全て忘れるものが有名だが、オレは決してそんなものではない。
 ただ、この一日の記憶が洪水で破壊された街か、炎に焼かれて更地と化した森のようにぽっかりと空いてしまっている。
 そこで、ふと幼い頃に読んだ不思議の国のアリスの絵本のことが頭をよぎった。
 あの物語では、うさぎの穴に落ちたアリスは大小の扉がいくつも並ぶ広間に迷い込む。
 そして、扉の中から女王の庭園に続く小さい扉を見つけて何とか通り抜けようと画策するのだがそれは全て失敗に終わってしまう。
 アリスは背丈が三メートル近くの大女になった際にとうとう泣き出し、何十リットルもの涙を流して広間を水浸しにしてしまう。
 その結果、海のように広い涙の池だけが残って広間も女王の庭に続く扉も消えてしまった。
 それから、あの物語の涙の池の章で大女になったアリスは泣きながら自分のことを叱り続ける。こんな大きななりで泣くなんて恥ずかしくないのかと。
 後から知ったことだが、あの物語中でアリスはまだ七才の幼子なのだという。
 その時は、まだ七才の少女が泣く自分を叱り続けることを何と残酷なのだろうと思ったものだ。
 現に、いい歳して記憶を失うほど泣いていた男がここにいる。それを思うと、アリスはあまりにも自分に厳しすぎるだろう。
 オレの記憶は、あの物語の広間と同じように涙と共に押し流されてしまったのだろうか。
 部屋を見回し、傍にあるくずかごに目をやると、乾きかけの丸めたティッシュがいくつも中に投げ込まれていた。
 オレはどうやらこの部屋で泣き続けていたようだ。こんなことをいちいち考えるのも馬鹿馬鹿しいのだが。
 次に、オレは壁に吊るされた時計とカレンダーに目をやった。時計の針は〇時二十三分を指している。それから、今日は七月十五日の日曜日だ。
 十五といえば十五をアラビア数字で書くと「15」になる。更にそれを分解したら「いちご」と読むこともできるだろう。
 そこで、オレはあの娘が食べていたいちご飴のことを思い出し、近くの神社で縁日が開催されていたことを思い出した。
 ――ああ、そうだった。オレはあの娘を縁日に誘ったのだ。
 記憶というものは不思議だ。何気なく目にしたものや聴いたものなどを引き金に先程まで忘却の海に沈んでいた記憶が浮き上がってくるのだから。
 そして、浮き上がってきた記憶はまた別の記憶も呼び起こしてくるのだから厄介だ。
 あの娘とは、前に入院していた病院で出会った。いや、「出会った」というのはおかしいだろう。
 あちらは覚えていない様子だったが、少なくともオレは昔のあの娘のことを知っていたのだから。
 幼い頃のあの娘は、とても活発で外を駆け回る、「風の子」という言葉が似合うような子供だった。
 そんなあの娘が、オレと同じ病棟に患者として入院してきたのだ。
 それを知ったのは、病室前の名札を見た時だった。その時はまさかあの娘がこんなところに来るわけない、きっと同じ名前の別人だと思っていたのだが。
 病棟内で再会したあの娘はガリガリに痩せ細っていて、幽霊と見紛うような風貌に成り果てていた。
 オレはそんなあの娘に近づいた。初対面のふりをして。
 病棟のルールを教えるだとか、ホールで会話するだとかそんなことをした。
 あの娘からは、理由の分からない食欲不振が原因で痩せすぎて何度も倒れるようになってしまったことや、主に身体の治療をするため入院することになったという話を聞かされた。
 それから程なくして、オレはあの病院を出ることになった。いや、主治医に頼み込んで半ば強引に退院したのだ。
 何故かというと、病んだあの娘の姿を見ることに耐えきれなくなったからだ。
 つまり、オレは逃げてしまったのだ。
 退院してからのオレは漸く決まったバイト先でも失敗だらけで友人もなく、煙草を吸うくらいしか楽しみがない灰色の日々を過ごしていた。それは今も同じだ。
 そんなある日、オレはあの娘と病棟で連絡先を交換していたことを思い出してメッセージを送ってしまった。
 どうしてそんなことをしたのかは今も分からない。眠剤を飲んで気が大きくなっていたからだろうか。それとも、寂しかったからだろうか。
 いずれにせよ、それをきっかけにあの娘はオレと会うようになった。退院していたあの娘はまだ痩せていたが、幾分か生気を取り戻していた。
 そして、今日は――いや、昨日の土曜日はあの娘と縁日に行っていたのだ。
 そうだ。思い出した。あの娘は髪を切ったようで、とても可愛らしくなっていた。
 そして、オレはそんなあの娘を前に気分が高揚してやたらと饒舌になってしまい、無神経な話もしてしまった。
 普段のオレは他人と上手く喋ることができない。だから、バイトの休憩時間など会話を避けたい時はついつい煙草を吸ってしまう。
 巷では「喫煙者同士は煙草を介したコミュニケーションを取りやすい」などと言うが、冗談じゃない。
 バイト先の喫煙室では、確かに同僚たちが煙草を吸いながら談笑しているのを目にする。
 でも、オレは談笑はおろか他人と目を合わせて話をすることすらできない。人と視線を合わせるのは怖い。咄嗟に雑談しようにも天気の話くらいしか思いつかない。
 オレはいつからこんな人間になってしまったのだろう。二十代の頃に職場で上司に虐められてからだろうか。いや、それ以前から人と上手く喋れないのは同じだったような気がする。
 オレはいつもそうだ。普段は視線を不自然に泳がせながら曖昧に笑うだけでろくに喋れないくせに、少し調子に乗れば相手のことも構わず思いついたことをべらべらと喋ってしまう。
 きっと、オレがこんな人間になったのも前の職場で上司に嫌われたのもひとえにオレがクズだからなのだろう。そう思っていれば楽だ。
 ――――こんなことを考えていたらまた涙が出てきた。瞼が切れてしまいそうなのでいい加減にしてほしい。
 ああ。また一つ思い出した。今日のオレはあの娘の前で泣いてしまったのだ。そして、あの娘の腕を掴んで傍にいてほしいと縋り付いてしまった。
 いい歳の男が、年端も行かない少女の前で無様に泣いて縋るなんて最悪だ。
 あの娘は、何も言わずこんなオレの傍にいてくれた。でも、今日のことで嫌われてしまった、と思う。
 いや、嫌うも何も最初から好かれてなんかないだろう。一体誰がオレのことを好きになる。
 第一、あの娘はこんな三十路の社会不適合者に貴重な時間を使うべきじゃない。だから、嫌ってくれたなら幸いだ。
 それなのに、オレは今日のことを悔やんでいる。卑怯にも、先程のように忘れたままでいたかったと思っている。
 オレは、こんな自分のことが大嫌いだ。死んでしまえばいいのに、と思う。
 そうだ。きっとオレはあの娘に一言背中を押されたなら潔く死ねるだろう。
 言葉のナイフで一思いに刺し殺してほしい。
 いや、こんなことを望んではいけない。こんな望みを抱くなんて身の程知らずだろう。
 もしオレが死んだら、あの娘は悲しんでくれるだろうかなんて考えてはいけない。
 悲しんでくれたとしたら、それだけでもこの存在が無価値でなかった証だから気持ちが救われるとか考えてはいけない。
 傷だらけになった体を憐れんでほしいとか、体以上に傷付けられて歪んだ心を慰めてほしいなんて考えてはいけない。
 むしろゴミを見るような目で蔑んでほしいとか、この鈍い頭を踏みにじってほしいなんて考えてはいけない。
 それなのに、考えることをやめられない。何かあればあの娘のことを考えてしまう。
 そう。オレはあの娘に依存している。そして、執着をしている。
 何を望んだとしても、それはエゴでしかない。
 ――――こんな自分を、オレは心底から浅ましいと思う。

 *おしまい*
 


 (おまけの与太話)
 15円の人周りのイベントは何だかかざぐるまに対する執着心のようなものを感じて心底からやばいなと思いました。
 かざぐるまは退院しても「治ってはいない」と筆者は考えているのですが、かざぐるま編のTrue endで待っている彼はもしかしたら病みながら病院の外で生きている人のロールモデルの一人になるのかもしれないとかそんなことを考えていました。
 でも、彼の姿はかざぐるま本人にとって理想とは言えなさそうです。

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風速150m


 (まえがきのようなもの)
 この文章は、ゆめにっきファンゲーム「くだらぬ妄想の」のかざぐるまと神社にいるあの人(通称15円の人・15円おじさん)のお話です。
 これといった致命的なネタバレはしていないものの該当作品をプレイしてからの閲覧を*強く*お勧めします。
 かざぐるまと15円の人の境遇などの大半が捏造なのでご注意ください。二人共かなり病んでいます。


 

 
 あの人と最初に出会ったのはいつだったのか。どこで出会ったのか。それは今となっては思い出せない。
 ただ、「気が付いた時にはいた」としか言いようがない。
 ああ、そうだ。前に入院していた病院でたまたま会ったのが初めてだったかな。
 ぼくも、あの人も、患者として入院していた。
 あの人は、一ヶ月ほど入院していたと言っていたっけ。確か、前の職場で倒れたとか言っていたような気がする。
 薬の飲みすぎだったと言っていたっけ。それとも、お酒の飲みすぎだと言っていたっけ。それは忘れた。
 あの人の腕は赤い切り傷だらけで東北の辺りで生産されているらしい赤筋の大根みたいだった。
 ぼくは、リストカットなんてする人の気持ちが理解できない。腕を切っても何かが変わるわけじゃないし、大体腕に傷跡が残って汚くなってしまう。
 汚い腕じゃ可愛い服だって浴衣だって着れなくなってしまうし。
 クラスの女の子にも何人かリストカットをしている子はいたけど、体育の日は暑くてもジャージを着なくちゃいけないし夏服でもカーディガンが手放せないみたいだった。
 そんな面倒くさいことになるのに、どうして手首なんか切っちゃうんだろうね? 分からないや。
 ぼくの方はといえば、正直自分がどうして入院していたのかはっきり分からない。
 確かに、学校に行くのが嫌になったり理由もなく憂鬱な気分だったりしたことはあった。
 漢字のテストで思ったよりいい点が取れなかったとか、英語の小テストの範囲を自分だけ間違えて覚えていたとか、そんな些細なことで気分が悪くて立ち上がれなくなるほど落ち込んだこともあった。
 でも、それだけで病気なんてわけがない。そんなの、みんなにもあることでしょう?
 あとはそうだ。何となくみんなと同じ食事をするのが嫌になってバカみたいに痩せたことならあった。
 別に自分がおデブさんだと思ったわけじゃないしダイエットがしたかったわけでもないんだけど。
 何となく少しの野菜と果物(これは何故か普通に食べられた)だけで一日の食事を済ませるのを続けていたら学校で何度も倒れるようになっちゃったんだったな。
 確か、そのせいで栄養状態が大変なことになっていたんだっけ。そのせいで心臓が止まってしまうかもしれなかったとか。ぼくが知っているのはこれだけ。
 入院してからは毎日点滴を入れられて、体重が40キロを超えるまで退院はできないとか言われていた。
 あと、食事を吐いていないかチェックされた。ぼくがそんなバカなことするわけないのに。
 でも、あまりにそう言われたら吐いてみたくなって一回だけトイレで吐こうとしてみたけど無理だった。やっぱり食べたものをわざわざ吐く人の気持ちは分からないや。
 吐くくらいなら最初から食べなければいいんだ。だからぼくは食べなかった。
 それから、病院はやっぱり退屈でやたら歩き回った。そうしたら安静にしていなさいと叱られちゃったんだけど。
 一度、看護師さんの反応を見てみたくて点滴の針を抜いたら烈火のごとく怒られた。だから、それ以降は大人しくすることにした。
 心電図まで付けられて、仰々しいなあと思っていたんだけどお姉ちゃんがとても悲しそうだったのを忘れられない。
 そうこうして過ごすうちにぼくの体重はどんどん増え続けて軽く40キロを超えた。
 ぼくはせっかく減った体重が元に戻っていくのが少し残念だったんだけどそれでもまだ痩せすぎているらしい。
 でも、人がどんな体重だろうと勝手でしょうとぼくは思う。おデブさんだろうと、ガリガリだろうと、人に迷惑がかからなければいいんじゃないのと。
 あと、体重が40キロを超えてからは暫く止まっていた生理が来るようになった。生理が止まっていたのは便利だと思って気にしていなかったんだけどやっぱり生理が止まるのも良くないことだったとお医者さんから言われてしまった。
 でも、体重が元に戻って生理が来るようになったおかげで退院の許可が下りたからいいか。
 そうそう。ぼくのことはここまでにして話を戻そうか。
 
 あの人は、ぼくが看護師さんやお医者さんとくだらぬバトルを繰り広げている間に病院からいなくなっていた。
 もう二度と会うことはないだろうなあと思っていたのだけどそれはとんだ間違いだったらしい。
 あの人ことおじさんは、いつの間にかぼくの近くにいた。そうとしか言えない。
 そして、今のぼくはおじさんと縁日で露店を歩いている。
 その時になってこの人が36才になることとか初めて知った。最初は23才くらいかなと思っていたから驚いたな。
 何でこんなに若見えするんだろう。外見の年を取らない呪いか成長が止まる呪いでもかけられているとしか思えない。
「ビールかあ。いいねえ。でもね、僕はうつ病の薬を飲んでいるからお酒は止められているんだ。薬とお酒を一緒に飲むと心臓が止まってしまうかもしれないって散々言われていてさ。そういえば、かざちゃんも未成年だからお酒は飲めないね」
 おじさんは露店をきょろきょろ見ながらぺらぺらと聞いてもないことを喋り続けている。
 どこかくたびれた感じとか、へらへらしているくせに目が全然笑っていないところとか、どこか病んだ感じなのは病院で会った時と全然変わっていないんだけど、それってつまりまだ治っていないってことだよね?
 ぼくも、病院にいた頃と変わっていない風に見られていたら嫌だなあ。これでもぼくは治っているつもりだ。
 その時、りんご飴やいちご飴を売っている店が目に留まった。
 ぼくはすかさず店の前に駆け寄り、店番のおばさんの前で200円のいちご飴を指差す。
 りんご飴を選ばなかったのは大きすぎて飴の欠片を落としそうだからだ。
 おばさんに200円を渡して受け取ったいちご飴にぼくは歯を立てた。
 おじさんはそんなぼくを嬉しそうに眺めている。別にそんなに嬉しそうに見なくてもいいのに。
 ぼくがいちご飴を食べ終わるや否や、おじさんが喋り始める。
「ねえねえ、知っているかい? 『苺』って漢字で書くとくさかんむりに『母』と書くけれど、あれって苺の形が女性の乳首に似ているからなんだよ」
 と。
 それを聞いた時、ぼくは凍りついた。これって一歩間違えたらセクハラだ。
 でも、おじさんはあくまでそんなことを気にしていない様子だ。それか、本当に気付いていないのかもしれない。
「……へえ、そうなんだ。おじさんって物知りなんだね……」
 ぼくは口元が引きつりそうなのを抑えて笑顔を作った。
「いやあ。嬉しいなあ。昔から勉強をすることだけは好きだったんだ。でも、数学は苦手でね。かざちゃんは何か好きな科目あるの?」
「……うーん、別にないや。でも、理科の実験は少し面白いと思うかな。あとは美術か」
 ぼくは別に勉強が好きなわけじゃない。数学も英語もからっきしだ。現代国語だけならあまり勉強しなくてもそこそこいい点が取れるくらいで、古典になるとこれが同じ日本語なのか?と疑いたくなる。
「へえ、美術かあ。かざちゃんの絵、見てみたいなあ」
「見せないよ。ちょっと面白いと思うくらいで下手くそだし」
「ええ、ひどいなあ」
 おじさんは相変わらずへらへらとした笑みを浮かべている。
 そういえば、さっきから気になっていたんだけどおじさんが近くにいると何だか臭い。
 臭いとは言っても、不潔な臭いではない。
 では、何なのかというと煙草くさいのだ。それに加え、洗剤か柔軟剤の臭いが混じっている。
 そういえば、病院にいた時もおじさんはよく喫煙室で煙草を吸っていたっけ。
 おじさんの傍で息を吸うと、煙草と洗剤か柔軟剤の混じった臭いが鼻腔内に充満して不愉快だ。
 でも、率直に「臭い」と言うのはデリカシーがない。だけど、敢えてその言葉を口にしてみたくなってしまったのだ。
 さっき、いちご飴の時にセクハラ紛いのことを言われているんだからそれくらい許されるよね?
「そういえば、おじさん」
「ん? どうしたんだい?」
「おじさんって煙草とかよく吸うの? おじさんの近くにいたら煙草くさいんだけど」 
 僕が尋ねると、おじさんは白いTシャツの袖に鼻を埋めてすんすんと息を吸った。
「煙草は吸うけどそんなに臭うかなあ?」
「すごく臭い。おじさんの鼻、バカになってない?」
「ひどいなあ。これでも毎日お風呂には入っているし、洗濯だって毎日してるんだよ? 洗剤や柔軟剤もたっぷり使ってさぁ」
 洗剤の臭いが鼻につくのはどうやらそのせいらしい。毎回洗濯のたびにどれだけ洗剤と柔軟剤使っているんだよ。
「おじさん、ちゃんと洗剤の分量とか計ってる? 洗剤の臭いもひどいよ」
「いやあ、計ってないよ。たくさん入れるほどよく汚れが落ちる気がして。それに、計算ごとは苦手でね」
「おじさんの横にいたら臭いから嫌!」
 ぼくは無性に腹が立ち、目の前の社に続く階段をずんずんと上り始めた。
「ああっ、かざちゃん。待ってよお。機嫌直してってば」
 おじさんが後から付いてくるけれど構うものか。
 そうはいっても、ぼくもこの階段は少しきつい。いや、少しどころじゃなくかなりきつい。
 心臓がどくどくと毒々しい音を立て、息が切れる。昔はこんな階段、軽く上れたはずなのにおかしいなあ。
 やっぱり、バカみたいに痩せたのが悪かったのかな。それとも、退院した後も肉をあまり食べないのが悪かったのかな。
 そういえば、ホセくんとかお姉ちゃんと焼き肉に行ったってぼくは肉を2、3枚ほど食べただけで後はフルーツばかり食べていた。
 何とか階段を上りきった頃には頭がガンガンと痛んでへたり込んでしまった。
 そんなぼくの傍で、おじさんもぜえぜえと息をしながらへたり込んでいた。
「……かざちゃん。小さい頃はこんな階段なんてひとっ飛びとでもいうくらい軽く上っていたのにね、昔はとても明るくて元気な子だったじゃないか…………」
「……え? 小さい頃って何? ぼくには覚えがないんだけど」
 ぼくは、この人の言っていることが理解できなかった。小さい頃って何? おじさんはぼくを昔から知っていたってこと?
「……そうか。かざちゃんは覚えていないんだね。昔はよく一緒に遊んでいたのにね。僕がまだこんなクズじゃなかった頃のことも忘れちゃったんだよね」
 おじさんは大きく咳き込むと、そのまま俯いてしまった。
 忘れたことがそんなにこの人を傷付けたのというのかな。でも、記憶にないのだからどうしようもない。
 そんなことを考えている間にも、おじさんは咳き込んでは苦しそうに呼吸を繰り返している。
「…………こんな階段、僕にはもう無理だ。煙草なんか吸っていたらすぐに息が切れてしまう。きっと、こんな身体じゃあまり長く生きられない」
 この人はどうやらかなり煙草を吸っているらしい。そんなに苦しいなら煙草なんてやめたらいいのに。煙草を買うのも、たばこ税とかでかなりお金を使うんでしょう?
 肺を傷付けて、金銭的な負担をかけてまでして吸わなければいけないものなんだろうか?
「それじゃあ、煙草やめたらいいじゃん。やめたらちょっとは体調も良くなるんじゃない?」
「いや、煙草をやめる気はないよ。僕はね。こんな人生、煙草くらいしか楽しみがないんだ。何を食べても美味しくないし、仕事は失敗ばかりで長続きしないし、お酒は医者に止められちゃっているし。それに、こんなクズな自分は大嫌いだし、こんな人生に願うことなんか何一つない」
 そんなことを言いながら、おじさんは力なく笑った。
「あのね。かざちゃんと病院でまた会えた時、少し嬉しかったけどそれよりもずっと悲しかった。かざちゃんも『こちら側』の人間になっちゃったんだと思って。一度心を病むとね、その先の人生はとても苦しいものになるんだ。今もそういう人への偏見は根深いからね。友達も恋人も離れていくし、家族からも白い目で見られる。僕はね、そんな風にして周囲の人間と病気に追い詰められて自ら命を絶つ人を何人も見てきた」
 おじさんは、まるで呪文でも唱えるように喋り続ける。
 ちょっと待ってほしい。この人は一体何を言っているんだろう?。
 こちら側? こちら側って何? ぼくには何のことだかよく分からない。
「そんなこと言われても、お姉ちゃんは相変わらず優しいしホセくんは相変わらず友達でいてくれているよ? ……確かに、友達は少ないけどさ」
「……そうか。かざちゃんは幸福者だ。たとえ気を遣われているだけだとしても、そういう人がいるだけ恵まれている」
 おじさんはそう呟くと、また俯いてしまった。そして、頻りに鼻をすすり続けている。
 そして、おじさんの座り込んでいる石畳にはぽつぽつと斑のような暗い影が落ちていく。
 この人は泣いている。それを理解するのに時間は要さなかった。
「何も願うことなんかないなんて嘘だ。本当はね、僕だって『普通』に生きたかった。普通に学校を出て、普通に就職をして、普通に結婚をして、普通に子供を可愛がって…………どうして僕はそれができないのだろう。ねえ、僕は一体どこで足を踏み外してしまったのかなあ。こんな気持ち、かざちゃんには分からないよね? いや、ずっと分からなくていい」
 さっきまでへらへらと笑っていた人が今はぐずぐずと泣きじゃくっている。
 人の感情というのはこんなにも目まぐるしく移ろうものなんだろうか。
 これではまるで、吹く方向が定まらない風のようだ。
 泣いているおじさんの瞼や鼻は、元々色白なせいで赤く腫れているのが嫌に目立っている。そして、流れた涙は鼻先からも滴り落ちている。
 人の泣いた顔ってこんなにも不細工なものなのか。
 正直に言えば、この人はそこそこきれいな顔をしている。それが、泣いてみればこのひどい有り様だ。
 ぼくは、目の前で泣きじゃくるこの男が得体の知れない不気味な生き物に思えて仕方なかった。
「かざちゃん」
 不意に、おじさんがぼくを呼んだ。
 そして、気が付くとおじさんはぼくの左手首を掴んでいたのだ。
「ちょっと、おじさん。痛い、ちょっとやめてってば」
 おじさんは病気とはいえ、結構な握力があるらしい。手を振りほどこうとしたが、それは無理だった。
「ねえ、お願いがあるんだ…………しばらく、傍にいてほしい。逃げないでほしい。どこにも行かないで」
 おじさんの手に目をやると、Tシャツの袖口から平行に並んだ新しい傷が覗いている。
 その赤線を認めると、背筋が凍るほどの憐憫の感情が押し寄せた。
 そして、逃げようとしていたぼくはおじさんの右隣に腰を下ろしていた。
「かざちゃんは、とても優しいね。本当にごめんね」
 おじさんはぼくの手首を掴んだまま、呟いた。
 その時、風が吹いてあの煙草と洗剤の入り混じる臭いが鼻を掠めた。

 *おしまい*



 (おまけのような文章)
 筆者はかざぐるまの病気を心の病だったのかもしれないと考えています。
 15円の人のイベント後にかざぐるまの部屋が緑色に染まる演出は嗅覚に訴えかけるものを感じました。煙草と洗剤は筆者の完全なイメージ。
 彼は最初に姿を見た時にあまり健康的な印象がなかったのとjose編で会える場所が場所だけにもしかしたら患者だったのかもしれないという可能性を思い描いてしまいました。
 あと、彼が感情を剥き出しにした姿はかざぐるまにとって醜悪に映ったのかもしれません。


解離。

 この文章はUBOK.のEric.さんのねつ造っぽい話です。
 例によってやや不味い表現を含むのでご注意ください。例えば飲血とか。
 夢を。との永付きさんとの関係とかはあくまで私個人の印象に基づいた解釈に過ぎないので話半分以下として捉えていただけたらこれ幸い至極です。
 どうでもいいですが、牛乳って味の濁り方が血液に似ているような気がします。
 というか乳って元々血液だから当たり前ですね…。
 
 (2014年5月19日追記)
 ところどころを加筆しました。整いません。
 

  
 
 
 それは二限目の講義のため大教室へ向かっていた時のことだった。
 「ねえねえ、『  』君だよね?」
 背後から女の黄色い声が聞こえてくる。それは聞き覚えのある声だ。
 声に振り返ると、明るい茶色のボブヘアーに淡い色のワンピースの女が立っていた。
 その時、僕はいささかげんなりした気持ちになった。「また」だろうか。
「何?」
 だが、それを顔に出さないように表情を作りながら応える。
 それに対して、女は甘えるような声で言った。
「あのね。次の授業、サークルの大事な用事で出られないから代返しておいてくれないかなぁ」
 やはり「また」だ。これで一体何度目なんだろうか。
「またなの? 大学に来ているんだから授業に出られないの?」
 断りたい。だが、はっきりと断ることができない。
「今日は大事な用事なの、本当にお願い!」
 彼女のその口ぶりに、僕の心はいともたやすく折れてしまう。
「別にいいけれど……」
 口が勝手に動く。本当は「嫌だ」と言いたいのだが、それができない。
 彼女と知り合ったのは、確か一年生の頃にしていたサークル活動だったはずだ。
 何がきっかけになったのかは分からないが、僕はいつの間にか彼女をはじめとする級友に都合のいい人間として扱われるようになっていた。
 彼らは自分たちにとって都合のいい時にだけ「友達なのだからいいだろう」という言葉を振りかざしてくるが、それが社交辞令のような言葉だということを分かっていても僕は「嫌」が言えない。
 僕は彼らに優柔不断である面を見抜かれて利用されているのだろうか。
 ――うそばっかり。
 彼女の背中に向けて、僕は「嫌だ」と口にする代わりに心の中で悪態を吐く。
 僕は知っている。彼女は別に授業に出ることができないほどに忙しいわけでなくただ単に授業が面倒くさいだけだということを。
 僕は知っている。次の週には彼女がノートを貸してくれと頼んでくるだろうということを。
 そして、僕はそんな彼女の頼みを断ることができないだろう。
 僕は級友の扱いに理不尽を感じているが、それよりも断れない自分が腹立たしくて仕方ない。
 大教室に着くと、僕は机に突っ伏した。
 授業開始を知らせるベルが鳴り響いたのはそれから暫く経ってからのことだった。
 
 
 それは次の週の朝だった。
 寝床から起きようとすると、身体が何となくだるい。風邪でも引いてしまったのだろうか。
 そんなことを思いながら枕元の携帯電話に目をやると一通のメールが届いていた。
 ――ごめん、今日は四限の授業に出られないの。代返しといて!
 またか。よりによってどうして僕なのか。
 液晶画面に浮かぶ無機質な文字を見ると、僕はまたしてもげんなりとさせられた。
 メールの送り主が誰かなどどうでもよかった。ただ、僕はうんざりしていた。
 それなのに、右手は自分の本心に反する言葉を綴っていた。
 ――わかった、いいよ。と。
 言葉で約束した以上はそれを果たさなければならない。そのためにも僕はすぐに大学へ向かう準備をしなければならない。
 僕は大学へ向かう準備を終えると、鞄を片手に重たい足取りで玄関の扉を開けた。
 だが、その日はやはり体調が悪いせいか講義の内容も頭に入ってこなかった。
 頭が重苦しく、壇上に立って喋る教授の言葉がまるで外国語のように聞こえる。
 教授は確かに僕の理解できる言語で喋っているはずだ。それなのにそれがただの音に聞こえて気持ち悪い。
 ノートには板書を書き写していくが、それもまたただの線の塊のように見えた。
 やはり今日の僕はとても体調が悪いのではないか。これなら休んだ方がよかったのではないか。
 僕は、ただ級友の代返をするためだけに身体を引きずって大学に出てきた自分が至極情けない人間に思えて仕方なかった。
 自分の出席カードに文字を書くのも辛いのに、他人の出席カードなんて文字を書いていられない。
 結局その日の僕は、級友の出席カードを白紙のまま提出してしまったのだった。
 ――うそばっかり。
 授業を終えて教室を出たその時、どこからか誰かの声が聞こえた気がした。
 
 
 その日の帰り道、僕は横断歩道で信号が青に変わるのを待っていた。
 空を見上げると、淡い紫色やオレンジ色に染まった雲が風に流されていくのが見えた。
 どこからか、風に乗って青草の匂いが漂ってくる。僕の目の前では小さな黒い羽虫が舞っている。
 この青草の匂いはいつの日か空き地から漂ってきた匂いと同じだ。そして、僕の周りを黒く小さな羽虫が舞っているのもその時と同じだ。
 あの日の僕は泣きじゃくりながら通学路を歩いていた。その時、僕はまだ七歳くらいだったと思う。
 何をしたのか覚えていないが、あの日の僕は学校で担任の教師に怒られ叩かれたのだ。
 ――なんて強情な子なんだ。
 ――うそばっかり。
 担任だった女教師の金切り声が耳の奥から聞こえてくる。
 毎日毎日、女教師は何かにつけて僕を怒鳴った。だけど、僕は教師が何故僕を怒るのか分からなかった。
 泣き腫らしたせいで目がうまく開かない。僕の周りで飛び交う虫の羽音がやけにうるさい。
 目の前に横断歩道が見える。信号はまだ赤だ。
 学校では散々「信号が赤の時は道路に飛び出してはいけない」と言われる。
 あの女教師も教室でそうしたことを何度も何度も子どもたちに言い聞かせていた。
 どうして赤信号の時に道路に飛び出してはいけないかといえば、それは車に轢かれてしまうからだ。
 車に轢かれてしまえば僕は一体どうなるのだろうか。
 僕は信号が変わらない横断歩道に向かって歩いていく。いっそこのまま飛び出してしまえば――――。
 その時、カッコウの鳴き声を模した信号音が響いた。信号を見ると、ちょうど青に変わったところだった。
 ああ、そうだ。僕は信号が変わるのを待っていたのだ。
 信号を待っていた人たちは呆然と立ち尽くす僕を置き去りにしてどんどん歩みを進めていく。
 僕も彼らに続こうとするが、やけに両足が小刻みに震えて心臓の音が耳に響き、一歩が踏み出せなかった。
 僕は、車道へ足を踏み入れることに対して恐怖を抱いていたのだ。
 まさか、先程の僕は信号が変わらないうちに車道へ飛び込もうと思っていたのだろうか。
 いや、そんな馬鹿なことがあるはずない。どうしてそんなことを考える必要があるのだろう。
 それなのに、僕は確かに信号が変わらないままの車道へと歩き出そうとしていた。
 その時、僕にとって口にすることすら厭わしい一つの言葉が脳裏をかすめた。
 それは人としてやってはいけないとされることだ。それを「いけない」と決めるものは宗教だったり倫理だったり、あるいは世間体と言われるものだったりする。
 どうして僕は信号が赤の時に車道に飛び出してはいけないのだろう。
 ――それは、走る車に轢かれてしまうからだ。自ら車に轢かれようと車道に飛び出すことはまさに僕が言葉にすることすら拒むそれではないか。
 いや、そんなことを考えている場合ではない、今は早く横断歩道を渡らなければいけない。信号が赤になってしまえば再び待たされることになってしまうから。
 今は車道に飛び出しても構わないのだ。信号が変わる前に急いで横断歩道を渡らなければ。
 僕は駆け足で信号が点滅を始めた横断歩道へ飛び出した。
 
 
 その日の夜、入浴を終えた僕は自室へ戻っていた。
 本当に、今日の夕方はとてもくだらないことを考えていたものだ。
 窓の外から換気扇が回る音が聞こえてくる。窓の向こうにはひたすら暗闇とまだらな白い光が広がっている。
 ガラス窓の前に立つと、亡霊のような僕の姿が見えた。その向こうにはベランダの柵だ。
 この部屋には鏡がない。だから自分の姿を映すのはガラス窓とテレビの画面くらいだ。
 何気なくガラス窓の亡霊と目を合わせてみる。伸びた前髪越しに僕を見るのは何も映さない夜みたいな色の目だ。
 窓に映る彼は紛れもなく僕だ。それなのに彼をまじまじと見つめるうち、彼がまるで他人のように思えてくる。
 人は鏡を見る時、大体の場合において鏡の中に映る人間を自分自身だと認識する。
 だが、そんな確信は一体どこから生まれてくるのだろうか。
 この世の中には気が遠くなるほどたくさんの人間がいる。その中には鏡の前に立つ時、そこに映る人間が自分自身だという確信を持てない人間がいてもおかしくないだろう。
 そんな人間は僕かもしれない。あるいは、この世で生きている僕以外の誰かかもしれない。
 果たして、このガラス窓に映る、夜みたいな目をした茶髪の男は本当に僕なのだろうか。
 この部屋でガラス窓の前に立っている人間は僕しかいない。だから彼は紛れもなく僕なのだろう。
 鏡に映る男を見るうち、僕はえも言われぬ不安と恐怖を感じ始めた。
 彼はいつも僕の後ろの辺り、少し遠い距離のところから僕を見続けているような気がする。
 今日、大学の授業が終わった時に聞こえてきた声は彼なのだろうか。
 逆に、僕が彼と入れ替わって彼の背後から彼を見続けていることもあるような気がする。
 もし、僕が知らないうちに鏡の向こうにいる彼と僕が入れ替わっていたとすれば――。
 そこまで考えたところで、僕はガラス窓から目を背けて呻き声をあげた。
 カーテンを閉めて窓から背を向け、その場にへたり込む。
 呼吸をすることも忘れていたのだろうか。喉からは笛のような甲高い呼吸音が何度も漏れた。
 後ろから彼が僕を見ている。この部屋に一人でいるのが怖くて仕方ない。どうすればいいのだろうか。
 そうするうち、息が苦しくなり出した。酸素が足らないからだと思って息を吸うが、息を上手く吐き出すことができない。
 落ち着かねば。どうにかして落ち着かねば。
 誰かに電話をかけようかと思うが、それはきっと迷惑だからやめた方がいい。
 こんな気分に陥るのはきっと疲れているからなのだろう。
 僕は体内で暴れ出す不安をどうにかなだめようと、呼吸を整える。
 そうだ。今日はそもそも体調が悪かったんだ。だから今日は早く眠ろう。
 今すぐ寝なければ、僕はとんでもないことをしでかしてしまう気がする。
 それが何かは分からないが、とにかく急いで眠らなければいけない。
 僕は震える体でベッドに潜り込むと部屋を真っ暗にし、そのまま目を固く閉ざした。
 
 
 気が付くと、僕は映画館の前にいた。
 僕は夢を見ているんだ。何故かそれを理解することができた。
 目の前には茶髪の青年と黒髪の幼い顔をした青年がいる。
 茶髪の青年は紛れもなく僕だ。そしてその傍にいる青い服の青年は――――。
 この時、僕は心臓を握り潰されるかのような苦痛を覚えた。
 嫌だ。嫌だ。この夢はこれ以上見たくない。どうか今すぐ醒めてほしい。
 自分の頬を強くつねったり強く叩いたりするが醒めることができない。
 やがて、目の前にいる二人の会話が聞こえ始めた。
 青い服を着た青年の顔はまるで黒いベールに覆われているかのようでよく分からない。だが、それでも嫌な顔をしていることは分かった。
「ねえ、『  』っていつもどうしてそんなに僕に対して良くしてくれるのかな」
 青い服の青年が口を開く。茶髪の青年はそれに対してきょとんとしたような顔をした。
「急にどうしたの?」
 目の前の「僕」はおどけたような顔をしているが、本当は青年のやけにうんざりしたような物言いに不安を感じていたのだろう。
 そんな「僕」に青い服の青年はその物言いと同じようにうんざりとしたような顔を見せた。
「君は僕を映画に誘ったり色々としてくれるけれど、こんなことはもう止めにしよう。僕もそろそろ復学のために頑張らなくちゃいけないんだ」
 青い服の彼はどうやら高校で同級生からいじめを受けていたらしい。
 そのことから彼は学校に行くことができなくなり、家にこもりがちになってしまっていた。僕はそんな彼へ手を差し伸べようとしたのだ。
 彼を映画に連れて行ったり、喫茶店で話を聞いたり、勉強を教えてやったりと、この時の僕はまるで彼の兄かのように振る舞っていた。
 だが、僕は彼を支える顔をしながらも、逆に彼に支えられようとしていたのでないか。
 確かにこの時の彼は誰かの支えが必要な状態だったことは間違いない。だけど、この時の僕こそ誰かの支えを欲しがっていたのだろう。
 僕は、毎日ひどい爪噛みに悩んで指先をいつも血だらけにしていた彼と、かつて学校で鬱屈して右手を傷だらけにしていた自分を重ね合わせていた。
「君に頼りっきりになるのがもう嫌なんだ。それとも、僕のことが好きだから一緒にいたいっていうの? それなら気持ち悪いよ。僕しか友達がいないわけじゃないんでしょう? だったら、僕にばかりべたべたくっ付いてこないで。はっきり言って、迷惑なんだよ」
 青い服の青年の言葉は僕に追い打ちをかける。
 ――気持ち悪い。迷惑だ。
 僕はその言葉が一番悲しかった。僕は確かに青い服が似合う彼へある種の好意を抱いていて、その上で彼を支えたいと思っていたのも事実だ。
 だけど、それは彼にとって邪魔でしかなかったのだ。
 もうやめてほしい。早く醒めてほしいと思っているのにどうして醒めてくれないのだろうか。
 僕は歯を食いしばりながら自分の頬に思い切り爪を立てた。
 暗くなっていく視界の中、仮面が貼りついたような笑顔の「僕」が見えた。
「そうか。ごめんね」
 最後に、「僕」はそう言って笑った。
 うそばっかり。本当はとても悲しかったくせに。君はどうしてそんな風に笑っていられるのだろう。
 僕は笑顔の仮面を被る「僕」に対して毒づいた。
 確か、あの後の一人になった僕は全てから逃げるようにバスへ飛び乗って自宅へ向かった記憶がある。
 そして、帰宅した僕は自室に置いてある、青い青年のために作ってあった勉強用のノートをビリビリに破り捨ててしまったのだった。
 
 目を覚ますと、時計の針は午前十時を指していた。
 ――しまった。しくじった。
 今日は金曜日だ。今日は一限に授業があったのだ。今から支度をしても間に合わないだろう。
 例の授業は別に出席を取るわけではない。だが、板書やレジュメを貰い損ねることはとても痛い。
 知人たちが僕にノートやレジュメをコピーしてほしいと頼んでくるのはこんな時なのだろう。
 果たして、僕が助けを求めたとすれば、彼らは僕に手を差し伸べてくれるのだろうか。
 いや、手を差し伸べてはくれないだろう。思えば、僕は彼らの名前と顔をどういうわけか覚えていない。
 だから、そもそも助けの求めようがないのだ。
 彼らは僕にとっておぼろげな人影のような存在にすぎない。人影たちはみんな人の形をしていないか、人の形をしていても顔がない。
 僕は自分の中の人影たちをちゃんとした人間として留めておくことができない。
 いつから僕はこんな風になってしまったのだろうか。
 それは青い服が似合うあの子と決別してからだろうか。それとも、中学で孤立していた頃からだろうか。
 あるいは、小学校で女教師に怒られ叩かれていた頃からか、それよりもずっと前からだろうか。それは分からない。
 それどころか、僕にとって自分自身までもがおぼろげな人影に過ぎないのではないだろうか。
 ――自分がどんな顔をしているか答えよ。
 ふと、自分自身に問題を出してみる。これは至って簡単なはずだ。自分は生まれてこの方ずっと付き合ってきたただ一人の人間なのだから。
 それなのに、僕は自分の顔を脳裏に描くことができなかった。どうしてだろうか。
 ――頭は茶髪。腕にはリストバンド。今着ているのは藍色のジーンズに白いシャツ。その上にチャコールグレーのパーカー。
 それが、僕が脳裏に描いた自分自身の姿だ。だが、いくら頑張っても顔だけが空白だ。どうしても顔を思い描くことができない。
 鏡に映る顔を見れば、確かに自分だと認めることはできる。だが、鏡から離れた瞬間にその顔は消えてなくなってしまう。
 左手の指で自分の顔をなぞってみる。すると、その指の腹が皮膚と肉越しに頭蓋骨へと触れた。
 人の顔は人それぞれ違うものだという。だが、その皮膚の下に頭蓋骨があることはみんな同じだ。
 僕はどういうわけか、図書館で人体の解剖図の本を読むのが好きだ。特に骨格のページに惹かれてしまう。
 大学で出会う人たちも、たまに行く銭湯で出会う人たちも、青い服が似合うあの子もみんな顔の下に白い頭蓋骨を隠しているのだ。
 頭蓋骨に限らず、僕たちはみんな同じように身体の下に骨を隠しながら生きている。
 人は言う。人はみんなそれぞれ個性というものを持っていると。
 でも、その個性こそが人と人との不平等となったり、迫害を生んだりする。
 人はみんな一様に皮膚一枚剥がせば骨の集合体に過ぎないことを思えばそんなことはとてもくだらない。
 人はいつか最後にはみんな平等に死んで骨になる。
 そんなことを考えるうちに、時計は十二時を指していた。
 
 
 その日の夜、机に向かってノートやレジュメの整理をしていた時のことだ。
 レジュメの整理をしていた時、僕はどことなく不快な気分に襲われ始めた。どちらかといえば、ずっと無視していた不快感に気付いたと言う方が正しい。
 別に身体のどこかが痛いわけでもない。別に何か特別嫌なことがあったわけでもない。
 それなのに、どうしたことか漠然と泣き出したいような何かを吐き戻したいような気分なのだ。多分それは昼頃から続いている。
 この緩やかな吐き気に似た感覚は何なのだろうか。だが、別に胃が気持ち悪いわけではないので吐き気とは違うだろう。
 泣き出したいといっても別に涙が出てくるわけではない。目の奥は至って冷え切ったままだ。
 そして、僕は両手の指先から手首にかけてが軽く痺れていることに気付いた。
 一体これは何なのだろうか。この痺れを感じるのは今回が初めてではないのだが、それはまるで両手の皮膚が骨から剥離していくような耐え難い気持ち悪さを帯びていて慣れることができない。
 やがて、その不愉快な感覚は僕を苛立たせた。
 苛立ちを自覚すると同時に、胸の辺りのむかつきがいっそう強くなり始めた。
 ――本当に一体何なのだろう。
 再び僕は何かに向けて問いかけるが、一体何を何に向けて問えばいいのかすら分からない。
 ただ、「どうして僕がこんな目に遭わなくてはいけないのだろうか」という怒りが渦巻いていることだけは理解できた。
 理由は分からないが、何かが無性に惨めで腹立たしくて仕方ない。
 いっそ、この両手の骨を机の角に叩きつけて砕いてやろうか。
 それとも、この両手の皮膚を骨に届くほどの深さまで切り刻んでやろうか。
 そんな暴力的な思いが心の底から湧き出したところで、ふと僕は我に返った。
 僕は何を考えているのだろうか。そして、一体何に対してそんなに怒っているのだろうか。こんな自分がとても恐ろしい。
 それにしても、だからといってどうして僕はまた自分の身体を傷めつけようなんて考え始めたのだろう。
 右手のリストバンドを左手でそっと外す。すると、傷跡だらけになった僕の右手首が露わになった。
 僕はこの過去の行いを別に後悔しているわけでない。それでもこの傷跡を見るのは嫌だった。
 手首の内側で重なり合う線のような傷跡は白く目立たなくなっている。だが、それは確かに存在する。
 ここには傷付けられた僕がいる。彼は今も僕を亡霊のように監視しているのだ。
 ――うそばっかり。
 また遠くから声が聞こえた。いや、これは僕の声だ。僕が確かにこの喉から出した声だ。
 喉を指で強く絞めつけると、手が首の骨に触れるのが分かった。
「うそばっかり……」
 僕は圧迫される喉から声を絞り出した。その声はやけに悲痛で、怒りの調子を帯びている。
 この言葉は紛れもなく、僕の呪詛だ。それは誰にも向けられることがない。誰にも向けてはいけない。
 その代わり、行き場を失った呪詛は僕自身へと返ってくる。
 ――うるさい。うるさい。お願いだから黙ってくれないか。黙ってくれ。黙れ。
 気が付けば、僕は空中に向けて声を荒げていた。傍から見ればそんな僕の姿は見えないものを相手に怒鳴り散らす危ない人間のようだろう。
 いや、僕はもう既に「危ない」人間になっているのかもしれない。
 そして、僕は半ば無意識にペン立てへと手を伸ばしていた。
 
 
 目を覚ますと、まだ真夜中だった。窓の外からは街灯と月の光が差し込んでくる。
 捲れ上がった寝巻の袖に目をやると、右手に黒い線が見えた。僕はまた「やらかした」のだ。
 目を閉じると、数時間前の光景が目に浮かんでくる。
 刃が汚れた銀色のカッターナイフ。血で汚れたノートのページ。その隅には「もうつかれた」という言葉が殴り書かれている。
 そして、椅子に座る僕は口の中を血だらけにしながら痛む右手を眺めていた。
 その時の僕はどんな顔をしていただろう。笑っていただろうか。泣いていただろうか。
 僕は何枚ものティッシュで血液以外の何かを何度も拭っていたような気がする。
 それは血液を拭っている最中だったか、あるいは机や指を汚す血液を全て拭い去った後だったか。それは思い出せない。
 浴室で衣服を脱ぎ、鏡の前に立つと右手の傷はひどく目立った。シャワーを浴びると、右手にはひりひりとした痛みが纏わりついた。
 こんな身体では当分銭湯には行けそうにない。暫くは自宅でシャワーを済ませなければいけないだろう。
 そういえば、いつも僕に代返を頼んでくるあの同級生は近々ノートを貸してくるよう頼んでくるはずだ。
 だが、そのノートは血で汚れている。どう考えてもそんなものを人に貸せはしない。
 同級生たちの前で見せている「お人好しな僕」を演じるのはもうこれ以上無理だ。
 もし相手の頼みを理由も説明せず断ればおそらく「人でなし」とでも見られてしまうことだろう。
 その一方、相手に血で汚れたノートを貸したとしてもこれまた白い目で見られるに違いない。
 それでも、もうそれで構わないのかもしれない。どの道離れていく人間なら最初から繋ぎ止めるなんて無理なのだ。
 青い服が似合うあの子との決別も確かに悲しかったが、それも仕方なかったことに違いない。
 そんなことよりも右腕の傷を隠しきれるかということが気がかりだった。傷の範囲が広すぎればリストバンドでは隠しきれない。
 思えば、僕は何のためにリストバンドで腕を隠し続けているのだろうか。
 他人に自傷を繰り返す人間であることを知られたくないからだろうか。
 もっと言及すれば、傷を見られることで変な人間だと思われるのが嫌だからだろうか。
 結局、僕はひたすら他人の目に雁字搦めにされて怯えているような人間なのだ。
 そうするうちに、僕は少しずつ「僕」を失っていく。死体が朽ちて肉を失い、骨になっていくかのように。
 果たして、僕は本当に生きているのだろうか。
 確かに自分の身体から流れる血を見てみれば、少なくとも身体は生きているということは明らかだ。
 だが、精神の方はというと緩慢に色々なものを失い続けて今やすっかり痩せ細ってしまっているのではないか。
 今まで、僕は自分が痩せて骨だけになりつつあることに気付けなかった。
 心が痩せ果てた今の僕に残っているのは「うそばっかり」な自分だ。
 この自分はかろうじて残っている僕自身の骨とは噛み合わない。だから、いともたやすく骨から剥離していこうとするのだ。
 僕がことあるごと、痛みに訴えかけるのはこの剥離を止めようとする試みなのだろうか。
 それでも、それは小手先の手段に過ぎないからほぼ意味がないと言っていい。
 いつまで僕はこんな意味のないことを繰り返すのだろうか。それを終わらせる方法は「死」しかないのだろうか。
 もし考えるのと同じだけ簡単に死ぬことができるのなら僕には悩む必要なんてない。
 その時になって、僕は自分の中に横たわる死への願望を明確に意識することになった。
 だが、僕はあくまでそれに気付きたくなかったのだ。だから、何も気付かなかったふりをしよう。
 ああ。そうだ。そういえば、喉がひどく渇いている。だが、冷蔵庫の飲み物は切れていたはずだ。
 時計に目をやると、その針は二時を指していた。こんな時間でもコンビニなら開いているだろう。
 血みたいに薄く濁った味の飲み物が飲みたい。そんな飲み物があるかは分からないが。
 それよりも、今の僕は無性に誰かと言葉を交わしたいのだ。たとえそれが営業上での本心が伴わない言葉であっても構わない。
 今なら、いつもコンビニのレジに立っているアルバイト店員の心がこもらない無愛想な挨拶ですら恋しくて仕方ない。
 そんなことを思いながら、僕は壁にかけてある暗い灰色のパーカーに袖を通した。
 
 *おしまい*
 


家路。

 この文章は嘔吐と繋がっているような繋がっていないような夢を。の永付きさんとUBOK.のEric.さんの話です。
 例によって少し流血表現を含んでいたりゲーム本編からかけ離れた表現を含むのでそれを留意していただけたら幸いです。
 あと、この文章に書いてあることが必ずしも正解というわけではありません。答えはケースバイケースです。
 

 
 思いもよらぬ人が思いもよらぬ隠し事をしている。こんな事実に直面した時、人はそれを容易く受け入れられるだろうか。
 そして、それが自分から知ろうとした結果の事ならば大抵の人はどうするだろう。
 自分の行いを責めるのだろうか。それとも、隠し事をした相手を責めるのだろうか。
 僕は自分がどうするべきか分からなかった。ただ、事実を否定する事しかできなかった。
 
 この日は「彼」が僕の部屋に遊びに来ていた。どちらかというと僕が「彼」を誘ったのだが。
 九月なのに真夏かと思うほどに暑く、二人で学校の図書館から帰る途中に僕の部屋で涼んでいかないかと「彼」を誘ったのだ。
 そういうわけで、僕たちは部屋で他愛のない話をしながらゲーム機を触ったり本棚の漫画を読んだりして過ごしていた。
 それはDVDの映画を見ていた時だ。その時見ていた映画は、探偵物だった。
 映画が終わり、音楽と共にスタッフロールが流れ始めたところで僕は左肩に重みを感じた。僕の左に座っているのは「彼」だ。
 「彼」が座っている方へ目をやると「彼」は眠っていた。そして、その身体は右側へ倒れかかろうとしていた。その様子からしてずっと前から寝ていたのだろう。
「面白い映画だったのに。普通、途中で寝ちゃうかなぁ……」
 僕は呆れながらひとり呟いた。だが、本人は夢の中なので聞こえるはずがない。
 そこでふと、先程二人でゲーム機を触っていた時に「彼」が最近は学校の課題に追われて忙しかったと話していた事を思い出す。
 そういえば「彼」はやや睡眠不足だったのか目に隈を作っていた。
 僕と「彼」は同じ学校とは言っても学部が違うため、「彼」がどんな授業を受けているのかはあまりよく知らない。
 疲れていたのなら、眠ってしまうのも仕方ないだろうか。
 そんな事を考えていると、不意に「彼」が右手で僕の左手首を引き寄せるかのように掴んだ。「彼」は依然眠ったままだ。
 やれやれ。いったいどんな夢を見ているというのだろうか。時折、僕は「彼」がよく分からなくなる事がある。
 寝息を立てる「彼」の右手に何気なく目をやってみる。頻繁に指を深爪にしてしまう僕と違って綺麗な形の爪をした細く長い指だ。
 この細い指で「彼」はいつもパソコンのキーボードをまるでピアノでも弾くような手付きで叩いている。
 そんな「彼」は左利きのようで、「学校のパソコンはテンキーもマウスも右側だからやりづらいよ」と苦笑いしつつ語っていた。
 後は、文字を書く時も右利きが有利にできているからやりづらいと言っていた。もっとも、そう言いつつも右手で文字を書くのも慣れたような手つきではあったが。
 その時、その右手首に着けられたリストバンドが目に留まった。
 リストバンドと言えばスポーツをしている人が着けているイメージが強い。テレビなどでスポーツをする人を見ていると、お洒落なリストバンドもあるのだなと感心する事が多いものだ。
 そういえば、「彼」はどういうわけかいつも右手にリストバンドを着けている事が多い。お洒落の一環なのだろうか。
 そして、それ以外の時は大抵長袖の服装だ。思えば、僕は「彼」が腕を露出する服装をしている姿を殆ど見た事がない。
 僕もまた長袖の服装をしている事が多いが、元々肌が日光に弱いせいで日焼けするとすぐに肌が赤くなってしまうので止むを得ずの事だ。
 「彼」の場合は少ないながらもたまに半袖の服装をしている事もあるので別に肌が日光に弱いというわけでもないのだろう。
 まさか、腕に刺青でも入れていてそれを隠しているなんて事があるまい。確か刺青を入れた人は銭湯に入る事が出来ないのだっけ。
 そんな冗談めいた事を思い、僕は好奇心から「彼」の右手のリストバンドをそっと外した。
 そして、露わになった「彼」の細い右手首を見た僕ははっとした。
 「彼」が着けたリストバンドの下にあったものは傷跡だった。それも、何本にもわたって重なり合う線のような傷跡だ。
 これはどういう事なのだろうか。数秒間ほどは思考が止まり、自分が目にしたものの意味を理解できなかった。
 見てはいけないものを見てしまった。
 思考が動き始めたところで咄嗟に僕は「彼」の右手にリストバンドを着け直した。
 手首の上、不慮の事故によるものだと言うにはあまりに不自然に重なる切り傷の跡。それが意味する事は大体の予想が付いた。
 それでも、それがどうか思い違いであってほしいという念を拭う事が出来なかった。
 暫く茫然としていると「彼」が小さくうなり声を上げながら目を開いた。
 そして、「彼」は寝ぼけた声で言った。
「ああ……僕、寝ちゃってた? 犯人誰だった?」
 僕はその一言に呆れずにいられなかった。
 ずっと寝ていた人へどうやって映画の展開を説明すればいいというのだろうか。
「犯人は誰って、ずっと寝ていたでしょ。どこからどう説明したらいいっていうの」
「いや、主人公が犯人を絞り込むところまでは起きていたんだよ。でもそこで寝ちゃったんだ」
 そう言う「彼」は慌てた顔だ。
 いつも落ち着いた表情をしている事が多い「彼」が慌てる様子はどこか面白おかしい。
「そこまで見ていたのならもう少しで推理シーンだったのに、普通そこで寝るかな?」
 僕はそう言いながら腹を抱えて笑い転げた。そして、「彼」もあははと笑った。
 それから程なくして、「彼」はこの後も用事があるというので帰る事になった。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
 玄関の前で「彼」はそう言いながら笑顔で手を振った。
 
 「彼」を見送った僕は自室に戻った。
 今、この部屋はとても静かで先程まで「彼」と一緒にいた事が嘘のようだ。
 誰かと一緒にいて、別れた後に押し寄せる妙な孤独感には中々慣れる事が出来ない。
 僕は一人、部屋の後片付けを始めた。
 片付けが終わったところでベッドの脇に目をやると綺麗に畳まれた灰色のパーカーが置いてあった。「彼」が忘れたのだろう。
 僕はベッドの脇に座るとパーカーを手に取り、その袖の手首をぎゅっと掴んだ。
 やはり僕が見たあの傷跡は自分で付けたものなのだろうか。
 この事には触れるべきなのだろうか。それとも相手が何も言わないのなら触れずにおくべきなのだろうか。
 でも、何も知らないふりをし続けるのは多分無理だ。
 もし「彼」が本当に自分を傷付けていたとすれば、何かに悩み苦しんでの事だったのだろうか。
 そういえば、自傷は度が過ぎると最悪の場合は死に至る場合もあると聞いた事がある。
 まさか「死にたい」と思った事が「彼」にもあったのだろうか。いや、今も思っているのだろうか。
 そんな物騒な事が頭をよぎり、僕は無意識に頭を横に振っていた。
 その時、玄関を出る前に見せた「彼」の笑顔が頭をよぎった。
 「彼」はあんな風に普通に笑う事が出来る。そんな人が自分を傷付けているなんて思えない。
 僕は、先程見た「彼」の手の事を何かの間違いだと思おうとしていた。傷を「なかった事」にしようとしていたのだ。
 
 
 その次の日の夜、夢を見た。
 いつの間にか、僕は「彼」の部屋にいた。生活感がほとんど感じられない灰色の殺風景な部屋だ。そして、部屋はベランダの窓が開きっぱなしだった。
 「彼」は椅子に座ってこちらに背を向けている。その様子は、ベランダの窓を凝視しているようにも見えた。窓の向こうにはただ暗闇が広がっている。
 「彼」はベランダの窓の向こうに一体何を見ているのだろうか。
「ねえ、どうしたの?」
 そう声をかけても「彼」は背中を向けたまま何も答えない。
 窓からは嫌に湿った風が吹き込んでくる。机越しに見えるその背中からは、何故だか妙に不穏な空気を感じた。
 今は一人にしておくべきなのだろうか。そう考えた僕は部屋を出る事にした。
 どうして「彼」は黙り込んだままだったのだろうか。もしかして、怒っていたのだろうか。
 そうだとしても、振り向きもせず無視するなんてあんまりだ。
 その時、どこからか「どすん」という音が響いた。
 何かが高い所から落下したような、叩きつけられたような音だ。そして、それはドアの向こうから聞こえたような気がする。
 ドアを開け、再び「彼」の部屋に入るとそこに「彼」の姿はなかった。
 机の上には一枚の紙切れが置かれ、開きっぱなしになったベランダの窓からはひゅうひゅうと風が吹き込んでいる。
 ベランダに出ると、そこには階段状になった踏み台があった。その上には一足の黒い靴が綺麗に揃えられている。
 僕は、この踏み台をどこかで見た記憶がある。この階段状の踏み台から身を投げた少女の話を聞いた事がある。
 まさか。そんな事が。心臓の音が大きくなり出し、額に冷や汗が滲み出すのが分かった。
 ベランダから地上を見下ろしても暗闇が広がるばかりで何も見えない。
 僕は部屋を飛び出し、アパートの階段を駆け降りていた。
 アパートを出ると、入口のタイルの上に「彼」はうつ伏せで倒れていた。左こめかみから流れる血が灰色のタイルの上に滲んで広がっていく。
 「彼」の傍に座り込み、その右手を取る。その手にはもう脈はなかった。
 そして、薄く開かれたままの目にはもう何も映らない。
 どうしてこんな事になってしまったのか。おそらく、僕が部屋を出ていったのが間違いだったのだろう。
 まず、どうして僕はベランダの踏み台に気付かなかったのだろうか。
 気付かなかったというのは間違いだ。ただ単に都合が悪いから見えないふりをしていたのではないだろうか。
 吐き気と頭がぐらぐら揺れるような眩暈と共に気が遠くなっていく。
 最後に「彼」の手が体温を失って冷たくなっていくのが分かった。
 地面に流れる血はタイルの隙間に沿って赤い脈を描きながら広がっていく。
 そこで、僕の意識は途絶えた。
 
 
 目が覚めると、外はまだ真っ暗だった。
 今まで見ていたものは夢だ。それなのに、冷たくなっていく「彼」の手の感触が僕の手に残っている気がする。
 まだ寝直せるはずの時間なのだろうが、再び眠ろうという気にはなれなかった。
 ベッドの脇には「彼」のパーカーが置かれている。気が付くと、僕はそれを胸に抱きかかえたまま泣き崩れていた。
 僕は何故泣いているのだろう。僕は「彼」に同情しているのだろうか。それとも「彼」を失うのではないかという不安を感じているのだろうか。
 どちらも正解のようで正解ではない。ただ、今の僕は混乱している。それが一番正しい答えだろう。
 一しきり泣いて、ふとガラス窓に目をやると僕がぼんやりと映っていた。泣いたせいでとてもひどい顔だ。
 そして、抱きかかえたままだった「彼」のパーカーも涙に濡れていた。これでは返しになんていけない。
 まず、僕はどんな顔をして「彼」に会えばいいのだろうか。それも今は分からないままだ。
 それでも、事実がどうであれ何も言わないまま「彼」を避けるというのは一番いけない事だろう。
 僕は、頭の隅でそれをやろうと考えていた事を否定できない。あの夢は、もしそうした場合の最悪の結末を表していたのだろうか。
 再び流れ落ちた涙が、パーカーの上にまた新しい染みを作った。
 「彼」が何かを言わない限りは、今までと同じように接するのが一番いいのかもしれない。
 もし「彼」が何かを語ったとしたらそれはその時に考えるべきであって、今はむやみに関係を変えようなんて思わない方がいいのかもしれない。
 窓の向こうに目をやると、東の空が少しずつ明るくなり出していた。
 今日、洗濯を終えたら「彼」にパーカーを返しに行こう。
 
 *おしまい*

無力な道化師と白兎と。(再構築ver)

 
 (警告のようなもの)
 この文章はpixivの方に置いていた、ゆめにっき派生作品Lost†Gameのネタバレを含むのでゲーム中の文字イベントとエンディングを見てからの閲覧を強くお勧めします。
 それから、かなり歪曲した考察を行っているので話半分以下に読んでいただけたら幸いです。
 ちなみに‘contribution’とは「投稿」という意味です。

 (2014年10月11日追記)
 一部加筆や修正をしました。

 

 
 
 <contribution:1>「今日も無気力に生きていた。いつまでこんな日々が続くのだろう…。」
 <contribution:2>「私は生きてる価値なんてないんだ。早く消えたい」
 <contribution:3>「愛してほしい人に愛されない。愛される資格なんてない。いっそ殺してほしい。」
 目の前の画面には、顔が見えぬ人間たちによって書かれた苦悩を吐露する文章がいくつも並んでいる。
 そこは死を望む者たちが集う掲示板だ。
 わたしは、今日もその場所へアクセスしていた。
 画面を眺めながら考える。自分は何故生きているのだろう。
 いつからか、わたしはそれが分からなくなっていた。
 とはいえ、別に何かに挫折したわけじゃない。生きる意味を見失う理由たりうる大きな出来事なんて特に思いつかない。
 ただ、いつの間にか人生の意味が分からなくなっていた。それだけのことだ。
 そんな風に漫然と過ごす中、ある日ぼんやりとネットサーフィンをしていた時にわたしはこの掲示板に辿り着いていた。
 そして、いつの間にかそこにアクセスする事が日課となっていた。
 ここの人ならわたしの気持ちを理解してくれるだろうか。そんな思いがあることは否定しない。
 わたしはそこに書きこむ勇気がなく、ただ掲示板の書き込みを見ているだけだ。ここの人たちは皆、何かに苦悩している。それを見ていると何故だか妙な安心感を覚えた。
 ふと、部屋の壁に掛けてある時計を見ると既に丑三つ時になっていた。明日も学校だ。眠らなくてはいけない。
 パソコンの電源を切り、部屋の明かりを消すと、わたしはベッドに潜り込んだ。
 
「おやすみなさい」
 
 朝になり、わたしは目覚まし時計の音で目を覚ました。今日も無意味に一日を過ごすのかと思うと億劫だ。
 それでもわたしはそれが義務であるかのように制服に着替え、学校に向かう準備を始めていた。
 洗面所に立つと歯を磨き、長い髪を梳かした。
 わたしの頭は癖毛のせいかてっぺんから短い毛が飛び跳ねている。周囲からはアホ毛と言われてしまうので昔からのコンプレックスだ。
 飛び跳ねるアホ毛をどうにかするのを諦めてダイニングキッチンに向かうと、皿にに盛ったコーンフレークに牛乳を流し込んだ。それが今日の朝食だ。
 牛乳でふやけたほのかに甘いコーンフレークを口に運んでいる間は、ほんの少しだけ憂鬱が紛れるような気がした。
 コーンフレークを食べ終わると、父が読み終えたのだろうテーブルに置かれたままの新聞に何気なく目をやった。何故新聞を読む気になったのかは分からない。
 とある家庭で幼い子供が母親からの虐待を受けて死亡した。とある中学校では中二の女子生徒がいじめを苦に飛び降り自殺した。目につくのはそんな記事ばかりだ。
 テレビを見ていてもその手のニュースを聞かない日などない。それらを見聞きする度、私はこの世の中に嫌気がさしてくる。
 わたしは考える。こんな世界で生きている意味はあるのだろうか。この世界は生きる価値があるのだろうか。
 暫く考えたところで私は新聞をテーブルに置き、憂鬱を引きずったまま玄関を出た。
 
「行ってきます」
 
 学校に着くと教室は各自グループに分かれて喋る生徒で騒がしかった。わたしはその雑音の中、自分の席へと向かった。
 だが、女子生徒が一人、わたしの席に座って他の生徒と喋っている。これでは席に座れない。
「あの……ちょっとごめん」
 わたしはおずおずと喋る女子生徒に声をかける。それなのに相手はお喋りに夢中でわたしに気付かない。
「ねえ、ごめん」
 先ほどより大きな声で女子生徒に呼びかけると、彼女はわたしを一瞥した。
 そして、これ見よがしに笑いながら言ったのだ。
 「あーあ。邪魔だって言われちゃったよ。感じが悪い」
 と。
 相手の生徒もクスクス笑っている。そして、女子生徒と共に教室を出ていった。
 わたしは「邪魔だ」なんて一言も言っていない。それなのに彼女は何故わたしの言葉から悪意を受け取ろうとするのか。分からない。
 誰だって自分が座る席を他人に占拠されていれば嫌な気分になるはずだ。こんなわたしが間違っているというのか。
 いずれにせよ、朝っぱらから新聞で嫌なニュースを読んだのも相まって非常に気分が悪い。
 わたしは机の横に鞄をかけると、机の上に突っ伏した。
 冷たい机に横たえられた頭がずきずきと脈を打つ。目を薄く開けると、前髪に遮られる視界の中で横倒しになった教室がくるくると回り始めた。
 このうるさい教室にはよく笑い声が上がる。でも、わたしは何が面白いのか全く理解できない。
 思えば、それは中学の頃からそうだった。
 あの頃の私は、まだそれなりにクラスメートの話についていこうと努力していた覚えがある。
 だけど、彼女たちはまるで花と花を行き来する蜂のように忙しく話題を変え、ころころと表情を変えるものだから、それに付いていこうとすればあまりに多くの情報を頭で処理しなければならなかった。
 わたしにそれができる明晰な頭脳があるはずもなく、少しぼうっとしているうちに話題が変わっていて見当違いの返事をするなんてことは日常茶飯事だった。
 そんなことを繰り返すうち、わたしは「空気が読めない子」やら「不思議ちゃん」やら「電波」やら、ある種不名誉な烙印を押されるのがお決まりだった。
 ある時は、そのせいで「キャラ作りのためにわざと不思議ちゃんぶっている」だとか「ぶりっこ」などと因縁を付けられることさえあった。
 そうするうち、同級生の間で空気を読み合ったり気を遣い合ったりする努力というものが虚しく思え、わたしはそれらの努力を一切やめて孤立を選ぶようになってしまったのだった。
 このクラスでもわたしは陰で「感じが悪い」とか「ノリが悪い」と言われているらしい。
 でも、興味がもてない。できないものはできない。ただそれだけのことだ。
 彼女らは何が面白くてあんなに忙しく騒いだり笑ったりするのだろうか。わたしはそもそも相手に合わせてあんなに笑う意味が理解できない。そんなわたしは異常なのだろうか。
 その後は、授業が進んでいった。わたしはただそれを大人しく聞いているだけだ。
 わたしは考える。大人に言われたことをただただ毎日繰り返すだけの日々に意味はあるのだろうか。
 もっとも、こんな日常が崩れるような大きな変化なんて軽々しく起きてほしくはないけれども。
 わたしは黒板を眺めるうち、この世界で自分一人がよるべなく浮遊しているような奇妙な感覚に襲われた。
 次第に、この目に映る景色が一枚のパノラマのように思えてくる。そんな中でわたしの存在は、パノラマに映る風景の一コマに過ぎなかった。
 そして、この自分の意識が溶けて空気と混ざっていくかのようで段々不安になってくる。
 わたしは本当に生きているのだろうか。それさえも分からなくなりそうだ。
 ――――『   』さん、『   』さん。
 不意に聞こえてきた教師の呼び掛ける声でわたしは我に返った。
 前を見据えると、銀縁の眼鏡をかけた中年の女教師が怪訝な目でわたしを見ていた。
「『   』さん。先ほどの続きを読んでください」
 わたしは教師の言う通り、両手に持つ開いたままの教科書へと目を落とす。
 そうだ。今は現代国語の授業中だ。続きってどこだろう。ぼんやりしていたので何処を読むのか分からない。
「七十ページの五行目から段落の終わりまでを読んでください」
 教師は慌てるわたしを呆れた顔で見ながら言った。
 ――クスクス。クスクス。
 教師の言うとおりに教科書に書かれた文章を読み始めると、教室の所々から笑い声が聞こえ始めた。
 また笑い声だ。彼女らは何が面白いのだろう。こんな風に笑われるわたしはまるで道化師だ。
 何故なのか眩暈がする。胸の中がもやもやしていて呼吸をするのも億劫だ。
 まるで、自分の中で何かがゆっくりと剥離していくようだ。
 だが、それが何かはその時点ではまだ分からなかった。
 
 
 学校から帰宅し、いつものように夕食と風呂を済ませたわたしはこの日もその掲示板にアクセスしていた。
 ――クスクス。クスクス。
 今も頭の中をクラスメートの笑い声が残響している。
 わたしはそれが鬱陶しくて仕方なく、歯ぎしりをした。
 わたしは笑われるために生きているわけじゃないはずだ。そんなこと、わたしは望んでなんかいない。
 わたしは人に笑われながら生きることに意味なんて見出せない。そんな生き方に興味なんて感じない。
 でも、クラスメートたちはいつでもわたしを笑い続けるのだ。
 では、わたしは何故生きているのだろう。
 誰か、わたしが生きている意味を教えてほしい。
 誰か、わたしの話を聴いてほしい。
 わたしはパソコンの画面を見ながらそう思っていた。
 そして、気が付くとわたしはその掲示板に初めて書き込みをしていた。「ジョーカー」という名前を使って。
 これは学校で頻繁に笑われる自分への皮肉を込めた名前だ。
 
 <contribution:1>「最近、自分は何故生きているのだろうと頻繁に考えてしまう。別に特別つらいことがあったわけじゃないのに、悲しくもないのに、今のまま生きている意味が感じられない。こんなわたしは異常なんだろうか。」
 
 パソコンの画面がわたしの紡ぎ出した言葉を映し出す。緊張しているせいか、マウスを握る右手はカタカタと震えている。
 そこで、突然わたしは自分の言葉に疑問を抱いた。
 わたしは本当に今をつらいと思っていないのだろうか。悲しいと思っていないのだろうか。
 掲示板に新たな書き込みがされたのはそれから五分ほど経ってからのことだった。
 
 <contribution:2>「>ジョーカーさん 異常ではないと思います。ジョーカーさん自身が気付いていない、何かつらいことがあるんじゃないでしょうか。」
 
 その書き込みを見た瞬間、わたしは心臓を鈍器で殴られるような衝撃を覚えた。
 やはり、わたしは自分でも気付いていないつらさを持っているのではないか。
 ただ、それに気付きたくなくて無視し続けていただけなのではないだろうか。
 そんなことを考えるうち、涙が出た。
 この掲示板の人たちはとても優しい。わたしを見ても笑わない。
 何より、自分と同じような気持ちの人間がいる。そして、わたし自身ですら気付いていない気持ちを汲み取ってくれる。
 そのことに、わたしは今まで味わったことのないような安心を覚えたのだった。
 
 
 それからのわたしは、頻繁に例の掲示板への書き込みをするようになっていった。
 わたしは自分の中で曖昧に浮遊する鬱屈とした気持ちを刻みつけるように言葉を紡いだ。
 それを何度も何度も繰り返すうち、わたしがずっと感じ続けていた何かが剥離していく感覚の正体がはっきりとしてきた。
 わたしは、今や生きることに対して完全に興味をなくしていた。
 わたしの中で剥離し続けていたのは、生きることに対する希望だった。
 それを自覚した時、わたしは自分が絶望しきっていることを再確認させられることとなった。
 この世界は嫌なことばかりで楽しいことなど何もない。そんな場所は生きるに値しない。
 この頃のわたしはそんな確信を持っていた。
 わたしは何故まだ生きているのだろうか。
 もう生きているのが面倒くさくて、仕方ない。
 コンピュータの電源を切るように、この命を終わらせてしまいたい。
 学校にいても家にいてもこんな考えが頭の中をぐるぐると回り続けていた。
 断片的な記憶を巻き返す。
 教室に響くクラスメートの笑い声。まるでゲームを楽しむかのようなクラスメートの顔。そのゲームの一環のつもりか、女子トイレの洋式便所に投げ込まれたわたしの財布。
 財布を洋式便所に投げ込まれた日、水道で擦り切れるほど洗った財布を抱いて廊下を歩くわたしの目にはすべての人間が「人」の形を失った姿に見えた。
 この時のわたしは、彼女らのゲームに不本意ながら組み込まれていた。
 彼女らにとってわたしなど人として存在しないも同然だったのだ。
 そして、ゲームのターゲットになるのはわたしだけではなかった。
 わたしが財布をトイレに投げ込まれた一週間後には、わたしの財布を目の前で便器に投げ込んだ女子生徒がゲームのターゲットになっていた。
 ターゲットになった彼女は、わたしが財布を投げ込まれたのと同じ便器にわたしと同じように財布を投げ込まれた。
 ゲームの参加者はターゲットに明確な悪意を抱いていないが、それと同時に善意も抱きえない。
 あくまで面白ければ何でもいい。それ以上でもそれ以下でもない。
 ゲームの参加者は全てゲームの一コマにすぎないのだ。
 あの時のわたしは、クラスメートたちと同じように「人」の形を失ってしまった。
 それは今も変わらない。わたしは人として存在しない。
 鏡に映るアホ毛のひどいわたしは確かに人の姿をしているが、それは偽物でしかない。
 自殺を思い立った時、別に悲しいという気持ちはなかった。
 どうしてこんな簡単な答えに行き着かなかったのか。
 わざわざ面倒なことを続けるのは不合理だ。生きることが面倒くさいならもっと早く自殺を考えれば良かったのだ。
 わたしにあった思いはただそれだけだった。
 これ以上、生きることに興味をなくしたままの自分を惰性で生かし続けるのはもう嫌だった。
 わたしはこの人生という試合に負けてしまった。負け試合を続けていても意味なんてない。
 いや、そもそもわたしは試合に必要な主体である人としての自分を喪失した時点で試合をすることすらできなくなっていたのかもしれない。
 わたしは考える。それでも死を望むことは異常か。
 そんなある日だった。その「書き込み」を例の掲示板で見たのは。
 
 <Last contribution:1>「○月×日に、ここの皆さんで死にませんか。最期くらいは共にしましょう。」
 <Last contribution:2>「午後四時の○○駅前に集合して、そこから△△の樹海を目指すという形でどうでしょうか。」
 
 わたしは、迷わずその「書き込み」の内容に応じていた。
 
 <Last contribution:3>「わたしも行きます。連れて行ってください」
 
 命を絶つその日まで、わたしは学校に通い続けた。
 そして、全てをおしまいにする日はとうとうやってきたのだった。
 
 
 駅を出て空を見上げると、日が傾きかけていた。陰り始めた青空をカラスの群れが横切っている。
 この時間帯の駅は、帰宅途中の学生で賑わっている。
 学校帰りのわたしは「彼ら」を待っていた。
 学校では、どこか上の空になりながらも普通に授業を受けてきた。
 遺書を書いたところで何になるのかと家族に宛てた遺書を書く気にもなれず、学校にも今生の別れを告げるほど大事な人など特にいなかった。
 そうして、わたしは学校帰りに近くのケーキ屋へ立ち寄るような感覚でこの場所にやってきたのだ。
 死後の世界への扉なんて、ケーキ屋のドアくらい軽いものなのかもしれない。
 ――ケーキ屋に寄ったかと思えば、そこは死後の世界でした。
 クリームや果物の代わりにあなたの臓物や血でデコレートされた死体ケーキがお勧めです。今ならあなたの骨入りビスケットもセットで付いてきますよ。
 ――――ああ、なんて滑稽なのだろう。わたしの人生なんて、本当にくだらないものだったのだ。
 それにしても、本当にこの場所で合っているだろうか。「彼ら」は本当に来るのだろうか。
 もし「彼ら」が来なかったら、わたしを連れて行ってくれるのは一体誰になるのだろう。
 わたしはそんなことを考えるうち、不安を感じた。
 そうして暫く案内板の前に立っていると、紺色のセーラー服を着た黒髪の少女が歩み寄ってきた。
 少女は長い髪を二つくくりにし、長い前髪で片目を隠している。その幼げな風貌はどう見てもわたしより年下だ。
 その少女はわたしに尋ねた。
「あの。すみません。あなたがジョーカーさんですか?」
 と。
「あ。はい。そうですが……」
 わたしはかすれた声で応える。
「私は白黒です。よろしくお願いします。とは言っても今日限りなのによろしくというのも変ですが」
 その少女は頭を下げながら自分のハンドルネームを名乗った。
「あ。わ、わたしの方こそよろしくお願いします……!」
 それに対し、わたしは緊張しながら深く頭を下げた。
 そんなわたしに白黒は言った。
「今日限りなのだから、そんなに緊張しなくてもいいですよ。実は……あの書き込み、私がしたんです」
 と。
 わたしはやや驚いた。まさか集団自殺を持ちかけた人間が自分より年下の少女だとは。
「あなたは何故死ぬことを……?」
 思わず、わたしは尋ねていた。
「あなたと同じ理由だと思います。どうせ最期なんですから、死ぬ理由を話すのも無駄じゃないですか」
 わたしの問いに、白黒はにっこりと微笑みながら答えた。
 少女の穏やかなのにどこか投げやりな口調。全てを諦めたような穏やかな笑み。
 わたしはその穏やかさに途方もなく深い絶望を垣間見た。
「そうですね……」
 わたしはそれっきり黙り込んだ。
 程なくして、あの掲示板に集まる人たちが次々に集まってきた。
 紺色尽くめの服を着た少女、車椅子の青年、髪を金髪にした派手な服装の女性、喪服を着た女性……。
 集まったのは様々な人たちだった。
 この人たちは皆何かに悩み、わたしと同じ答えに辿り着いた。そして今、皆で死に場所を求めてバスに乗ろうとしている。
 いつしか新聞で見た、中学生の少女がいじめを苦に命を絶ったという記事を思い出す。
 彼女も苦しんでまで生きていることに価値を見出せなくなったのだろう。だからこそ、彼女は校舎の屋上から一人で身を投げた。
 そんな彼女と違い、同じ答えに辿り着いた者同士で集まって「生」を終わらせようとするわたしたちは臆病者だろうか。
 わたしは考える。こんなわたし、彼らは異常か。
 暫くぼんやりしていると白黒が言った。
「バスが来ましたよ。皆さん。行きましょう」
 と。
 そうして、わたしは「彼ら」とバスに乗ったのだ。
 
 
 バスが止まると、通路に並ぶ乗客たちが順にバスを降りていく。終点が近いバスに新しく乗ってくる客はもういないようだ。
 このバスの終点は樹海前だ。そこでわたしたちは命を絶つ。
「間もなく、バスが動きます。転倒しないようご注意ください」
 早口な運転手のアナウンスが車内に響く。そして、バスは動き出した。
 バスは道路を進んでいく。「終点」を目指して。
 そして、わたしは非常口の傍の席に座りながら窓の景色をぼんやりと眺めていた。
 バスの中は賑やかだ。乗客の大半がこれから死にに行くというのに。どうやら「彼ら」はそれぞれで身の上話をしているらしい。
 わたしの前に座る女性は看護婦をしていたらしい。しかし、病気で仕事を辞めて以来、家にこもりがちになって自殺を考えるようになったという。
 その隣の喪服を着た女性は唯一の肉親を事故で失い、ずっと一人で喪に服す生活を送っていたそうだ。
 聞こえてくる会話に耳を傾けながら、今までにあの掲示板で見た「彼ら」の書き込みをできる限り思い出す。
 そうすると、一つのことが分かった。
 それは「彼ら」の多くは孤独だということだ。だからこそ、一緒に最期を迎えてくれる人を求めている。
 だが、それは一緒に生きてくれる人が欲しいという願いの屈折したものに過ぎないのではないか。
 わたしには「彼ら」の願いが屈折して全く違うものへ形を変えるまでの過程を全て知ることはできない。
 ただ「彼ら」は最期を共にする人を求めるようになった。それだけが確かなことだろう。
 わたしには、そんな「彼ら」を異常者、敗北者だと思うことはできない。できそうにない。
 わたしは、もし「彼ら」と違う形で出会えたらもう少し生きていようと思えただろうか。
 もし「彼ら」が一緒に死ぬ相手でなく、一緒に生きる相手だったら違っただろうか。
 いや、今更こんなことを考えても遅いだろう。
 やはり、わたしはこの試合に負けたのだ。無力なわたしは共に生きてくれる人を求めることを、生きることを早くに諦めていた。この時点で負けは確定していたのだ。
 もうわたしは臆病者でも敗北者でも何でもいい。もう全ては手遅れなのだから。
 わたしは靴を脱いで膝を抱えると、両腕に顔を埋めた。
 それから暫くすると、わたしは不意に人の気配を感じて顔を上げた。
 すぐ隣を見ると、一人の白い少女が座っている。
 いつの間に彼女はこのバスに乗ってきたのだろうか。すぐ隣に人が座ったならいくら何でも気付くはずだ。
 白い髪、血のように赤い目。少女の容貌はまるで白兎みたいだ。
 その白兎のような少女はわたしの顔を見ると、静かに微笑んだ。少女の笑みは不気味だが、何故だか目を逸らすことができない。
 彼女は人間離れしたような美しさを持っていた。それが最も適当な表現だろう。
 その時だった。バスが下り坂で轟音を立てながら加速することに気付いたのは。
 バスが走る先にはガードレールが見える。
 加速するバスは止まらない。
 運転手が叫ぶ。乗客が悲鳴を上げる。そして、わたしは無意識に頭を庇っていた。
 バス全体に大きな衝撃が加わったかと思うと、バスが崖から落ちるというのが分かった。
 今まで体験したことのない浮遊感の中、わたしは恐怖した。
 この期に及んでわたしは死に恐怖しているのか。バスが落ちる中、わたしは妙に白けた気持ちになった。
 やがて、浮遊するバスの中での永遠にも思える時間は終わりを迎え、轟音が響いた。
 そこで、わたしの意識は途絶えた。
 
 
 
 白と黒の部屋。十二の棺。そして、その中に眠る十二の死体たち。
 わたしを追いかける、動物の被り物をした死神たち。
 どれくらいの間、この世界を彷徨っていたのだろうか。
 でも、この世界にわたしがいる必要はない。早くお別れをしなければ。
 わたしは赤い扉を開いた。
 目の前には長い廊下が続いている。その奥にもまた赤い扉だ。
 わたしはもう迷わなかった。
 
 
 
 目を覚ますと、白い天井が見えた。ここはどこだろう。
 口元には何かの器具が着けられ、そこから空気が送り込まれてくる。
 わたしは、全身に様々な管を付けられたまま白いベッドで寝かされていた。
 ――ここは病院だ。それを理解するのには時間がかかった。
 全身が痛い。だから身体を動かすことはできない。
 あの日、死に場所を求めて乗ったバスで何があったのかは分からない。
 わたしが覚えているのは、白兎の少女の微笑を見たその後にバスがガードレールに向けて加速し始めたことだけだ。
 そして、わたしがあの白と黒の部屋で見たものは全て夢だったのだろうか。
 もしかすると、あの部屋と、そこから繋がっていた世界はわたしが今生きているこの世界と冥界の境界のような場所だったのではないだろうか。
 わたしはずっとそこを彷徨っていたのだ。
 白と黒の部屋には十二の棺が置かれていた。そして、全ての棺の中では死体が眠っていた。
 棺の中の死体は皆、死に場所を求めてあの日のバスに乗った人たちだった。
 おそらく「彼ら」は完遂したのだろう。
 「白黒」と名乗る、全てに絶望しきった笑顔を見せていた少女。
 かつてはスポーツの才能を認められてその一線で活躍することを夢見ていたこと、今は長患いに苦しんでいることを語っていた車椅子の青年。
 わたしの隣に座っていた、白兎のような美しい少女。
 その他のあのバスに乗っていた人たち。
 彼らは皆、今やこの世の人間でない。
 一方のわたしは完遂できなかった。ただ一人だけ死に損なった。
 白と黒の部屋では、どんなに探しても十三基目の棺を見つけることはできなかった。
 棺の前で「白黒」を手離し、「ナース」を手離し、「喪服」を手離し……全てを手離した末にわたしの手元に残ったのは「ジョーカー」に他ならなかった。
 棺探しを諦めたわたしは、動脈と静脈を模るかのように赤と青に分かれた珍妙な衣装のままで白と黒の部屋を後にしたのだった。
 そうして、目を覚ましたわたしはこの病室にいる。
 わたしは決して十三人目になれなかった。それ以上でもそれ以下でもない。
 白いベッドへ身を委ねたまま、わたしは無力に生きている。
 ただ、それだけが事実だ。
 
 *おしまい*
 

 

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