忍者ブログ

資源ゴミ置き場

あまり健全ではない文章を置いていく場所だと思います。

[1]  [2]  [3]  [4

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


追憶Ⅰ

 
 (まえがきのような何か)
 この文章はほぼ全てがねつ造です。主にレヴラスがグレース(レントンの妹)より年上であること前提。語り手はレヴラスさんです。
 あと、割と口汚い表現があるので不快になるかもしれません。

 

  
 それはある日の夏の午後だった。
 その日の私は、ギルド長としての業務の合間に休憩を取ろうとギルド内の談話室に足を運んでいた。
 昼食の時間帯に差し掛かった談話室はとても混んでいる。そのため、私は敢えて昼食の時間帯を避けて休憩を取ることが日課になっていた。
 講義の時間と重なっているためか、この時間帯の談話室は人が少なく静かであることが多い。
 だが、その日の談話室はやけに賑やかだった。
 それは、三人の女子生徒がテーブルの上に本や菓子を広げてぺちゃくちゃと喋っていたからだ。
 彼女らを目にした時、今となっては遠い記憶の中にしかいないレントンの妹のことが頭をよぎった。
 何故かというと、彼女の面影を女子生徒たちに見出してしまったからだったのだ。どの娘も、あの娘に全く似てなどいなかったのだが。
 あの娘――レントンの妹は確か「グレース」という名前だっただろうか。彼女とは特別親しかったわけでないが、まだ私が少年だった頃に何度か顔を合わせることはあった覚えがある。
 あの娘はいつも野草や虫を触っていたり、一人で好きな植物のスケッチをしたりしていた。
 かつてレントンから聞いた話によれば、彼女はことあるごと「同年代の子と仲良くする方法が分からない」だとか「みんなに嫌われている気がする」などと零していたらしい。
 年頃の娘が集まって話す内容といったらせいぜい色恋か化粧の話か、そうでなければ周囲の人間の悪口だ。
 いつも化粧っ気のない堅い服装をしていて色恋沙汰とも縁遠い風情を醸し出していた彼女が年頃の娘の仲間と色恋や化粧の話題についていくなど無理だろうし、どちらかといえば悪口を言われる側に回ることも多かったのではないか。
 年頃の娘たちの人間関係というのはとてもややこしいものなのだ。
 そんなことは、魔術士としての業務に愚直なまで勤しんでいた兄には理解できなかっただろう。
 あの娘がどうすれば自分を見失うことなく生きられたかなんて私にも分からないことだ。
 考えてもどうしようもないことに思考を割くくらいならこの先にできることを考える方が合理的だ。
 私は女子生徒たちが座るテーブルから少し離れたところにあるソファに腰を下ろすと、息を吐き出した。
 私もそろそろ甘いものが欲しくなる頃だ。後で砂糖をたっぷりと入れたハーブ茶と一緒にアピの実シュークリームでも食べようか。
「それでさぁ。最近、コルセットがきつくてダイエットしなくちゃって」
「何言ってんのよ。あんた、そのままでも十分細いじゃない。私なんてコルセットを外したらお腹が出ちゃってさあ……」
「それくらいいいじゃん。いいよねえ、風の女神様って。あたしもあんな綺麗なスタイルになりたいなあ。前は男子に癒しの女神みたいだって言われたけどそれって幼児体系ってことじゃない!」
 ――女子生徒たちは大声で喋っているのでここまで会話が筒抜けだ。彼女らは自分の容姿を貶しつつ、相手の否定の言葉を待っているのだろう。そして、相手もまたそれを汲み取って否定の言葉をかけてやらねばならない。
 そこで、率直に「お菓子ばかり食べるのがいけない」などと言えば顰蹙を買うのは明らかだ。
 彼女らは口ではダイエットなどと言っているが、テーブルの上に広げられたたくさんの菓子を見ていると本気でダイエットをする気などないらしい。
 相手がどんな言葉を求めているのか察し合う――そんな芸当があの生真面目な娘にできたなどと思えない。
「ねえねえ。そんなことより聞いてよ。さっきの講義で先週の小試験の結果が返されたじゃない。私、点数が本当にやばくてさ……単位落としそうで本当に病むわ」
「ああ、あたしも結果はダメ。ダメ、本当にダメ。大体、あいつの講義って評価が厳しすぎるのよ。そう思わない?」
「確かにあの教官の講義って評価厳しいよね、わたしの友達は実習で散々ひどい評価を付けられちゃったらしいよ」
「たまに何の通達もなく休講にするからラッキーって思ってたけど自習しておかないとダメな奴だったってわけ。評価を厳しくするくらいだったら休講なんてせずもうちょっと評価を易しくしてほしいなあ」
 私がぼんやりしているうち、娘たちの話題はダイエットからこのギルドでの講義のことに移っていた。
 講義の評価が厳しい教官となれば誰のことを言っているかは大体絞られる。
「それからさ、あいつって生徒の顔を覚えようとしないじゃん。前も『君は誰だ?』なんて言われて本当にムカついたわ。今期の講義は何回目ですか、エーテルに頭をやられて痴呆になっているんですかって感じ」
「あー。わたしも前に名前間違われたことある。でもエーテル病はいくら何でも……」
「きっとやる気がないのよ。講義は堅苦しくてつまんないわ、休講は多いわ、そのくせ評価は厳しいわって誉めるところがまったく何にもない。余程変わり者の人間だったら好きなのかもしれないけど、あたしはあの教官、大っ嫌い。プロフェッサーだか何だからないけどまともに講義もせず調子に乗ってんじゃねえよ。何が『成績の評価に努力は一切考慮しない』よ。その澄ましたツラの皮剥いでやろうか?って感じ。それから無駄に長い髪なのにいつもボサボサでさ、まとめるか切るかしろよって」
「あんた、レントン教官に余程恨みが溜まってんだねえ。まあ、私もあいつ苦手なんだけどさ。あいつ、いつも怖い顔してるから質問したくてもしづらいんだわ」
「ふーん。あいつに寄ってくるのなんてカタツムリくらいじゃないの? それか、カラスが巣作りに寄ってくるかもね。アハハ!」
「あんたって何でそんなにレントン教官のことを嫌ってるわけ? 何かあったの?」
「何もないわよ、ただ嫌い。生理的に受け付けない。それだけのこと。だいたい、何であんな人望のなさそうな人間がこのギルドで教官なんてやってんだか。あんなのがここにいても有害無益よ。さっさと失せればいいのに。っていうか死ねよ。ミンチになって死ね」
 やはり、女子生徒が話題にしていたのはレントンのことだったらしい。彼は確かに時折何の断りもなく講義を休んでしまうことがある。その上、講義中の生徒への評価は厳しいと来たものだから顰蹙は買うかもしれない。
 だが、それはそうとしてもひどい言われようだ。
 女が三人揃えばこうも他人の悪口が出るものなのか。私は、改めて恐怖を覚えずにいられなかった。
 しかし、死ねだとかミンチになれだとかはいくら嫌いだといってもあまりに言うことが悪辣すぎる。
「あ。あたし、そろそろ用事があるんだわ。それじゃあね」
「ああ、うん。またね」
 どうやら、レントンへの罵詈雑言をまくし立てていた女子生徒が抜けるようだ。
 私は息をひそめるように立ち上がって本棚から新しい本を手に取ると、再びソファに腰を下ろした。
「あーあ。やっと行ってくれたわ。あの子の相手をしていたら本当に疲れるったら」
「今日はひどかったね……レントン教官がちょっと可哀相になってきちゃった」
「確かにあの子の言うことは少し分かるけれど、あそこまで行くと異常よ。だいたい、ただの逆恨みじゃないの? 一体何なんだか」
「うーん。あ、そういえば、今思い出した話なんだけど……」
「何? 思い出したことって」
「えっとね。でも、喋ってもいいことなのかなあ……」
「何よ。そんなこと聞いてみないと分かんないじゃん」
「あのね。本当かどうか分からないんだけど、あの子から聞いた話……」
 そこで、私は再び聞き耳を立てた。
 あの悪辣な物言いをしていた女子生徒とレントンの間に何かがあったのだろうか。
「なになに、喋ってよ」
「うん。他の人には絶対喋らないでね」
「分かった。分かったから。勿体ぶらないでよ」
「うん。ここだけの話なんだけど……あの子ってさ、前はレントン教官のことをあんなに悪く言う子じゃなかったんだ。悪口を言うようになる前、何度か単位を落とした時に単位をくれるようレントン教官に頼んだことがあったらしいんだけど……」
「ふーん、そんなことよくある話じゃん。それがどうかしたの?」
「それが、手作りのお菓子を作って持っていったりしていたらしいんだ。でもあの教官って厳しいじゃん。勿論それで単位が貰えることも、持っていったものが受け取ってもらえることもなかったって」
「えー。それって教官に媚びていたってわけ? だいたい、よく知りもしない生徒から手作りのお菓子なんて貰っても普通受け取れないでしょ。私だったら嫌」
「確かにそうだよね。それも、何度も持っていったって言うんだから……あの子はその時のやり取りの中でレントン教官に気持ちを踏みにじられたとか言っていたけれどやっぱり逆恨みじゃないかなって」
「そりゃ逆恨みでしょ」
「あと、あの子、レントン教官にお茶をかけられたとも言っていたんだけど、内心ざまあみろって思っちゃった」
「あー、私も思った。あいつ、どこか空気読めないし、疲れるんだわ。どうせレントン教官にお茶かけられたっていうのもあまりにしつこかったからじゃない?」
「さっきダイエットの話をしていた時も、何だか自虐するふりをしながら自慢しているみたいで嫌だったな……癒しの女神みたいだって言われたとか。聞いていたらイライラする」
「あいつが癒しの女神みたいだって? あれのどこが癒しの女神よ。笑わせんなって」
 残った女子生徒の二人はどうやら先程の悪辣な物言いの女子生徒の悪口を言い始めたようだ。
 年頃の娘に限らず人間というものは、どうあがいても他人の悪口を言わずにはいられないものなのか。
 私は改めてげんなりとした気持ちになり、こめかみを指で押さえた。
 しかし、想定していたことではあるが、単位欲しさから教官に媚びる生徒がいるのは問題だ。
 そして、教官が生徒の媚びに屈することがあってはなお問題だ。
 そうした点では、レントンのある種の冷徹さは信頼できるとも言える。
 よく知りもしない生徒から渡される手作りの菓子を受け取らないという選択もまた正しい。
 もし私が同じように手作りの菓子を渡されたとしたら、まず絶対に受け取らないだろう。
 出どころの分からない食品には何が入っているか分からない。もし毒物や媚薬の類でも入っていれば大変だ。そうでなくても、私は他人の手垢が付いている食品など食べたくない。
 だが、生徒の申し出を断るだけならまだしも茶をかけるのはさすがにやりすぎではないか。
 あるいは、生徒とのやり取りの中で相手へ茶をかけるほど激昂する理由でもあったのだろうか。
 とはいえ、それが相手に茶をかけてもいい理由にはならない。まず、このギルドで指導者という立場にいる者が生徒といがみ合うことは害にしかならない。
 そもそも女子生徒の話が本当かどうかは分からないのだが、このことについてはまた探りを入れておかなければならないだろう。
 さて、そろそろ自室に戻ろう。暑さのせいで喉が渇いてきたのだ。
 私は先程から全く読み進めないままになっていた本を閉じると、ソファから立ち上がった。
 談話室を出る時、このギルドの長が居たことににようやく気付いた女子生徒たちが何かをこそこそと喋るのが聞こえたが、その内容は殆ど聞き取れなかった。
  

 *おしまい?*
 

 

PR

生活(改造版)

 
 (まえがきのようなもの)
 前に同タイトルで置いていたレントンさんの文章を改造しました。
 構成は改造前とは大体似た感じですが一部を削除したり追加したりした結果として文章量がやたらおぞましいほどに増えまくっている。
 出血表現やら傷に塩を塗るような痛々しい表現やらが満載なので苦手な人は気を付けてください。
 

  
 扉を開けると、部屋は真っ暗だった。
 部屋の明かりを点けた私を迎えるのは、最低限の家具だけが置かれた小奇麗を通り越して殺風景な部屋と沈黙だけだ。
 ――それも当たり前のことだ。私には同居人というものがいないのだから。
 私には、同居人どころか飼い猫の一匹もいない。
 そんなことを分かり切っているというのに、いつも私は帰りを待つ者が誰もいないことを心のどこかで「寂しい」と思っているような気がする。
 そんな時、私は未だ自分に感情というものが残っているのかと訝しむような気分に陥る。
 まさか、私が寂しさを感じるなんてことがあるものか。
 私がこんな生活に身を置くようになったのは、最愛の妹を亡くした頃からだっただろうか。
 あの頃から、私は人間嫌いを加速させていったのだった。
 全てを妹の死のせいにすることはできないが、それでもこの出来事が私の人生に大きな爪痕を残したことは否定できない。
 私の妹は絵描きを志して絵の勉強や練習に尋常でない努力を注いでいたが、彼女が絵描きとして成功を修めることはなかった。
 妹は精神を病んだ。そして、冬のある日に湖へ身を投げて死んでしまった。
 妹の死は確かに、まだ若かった私を大きく打ちのめす出来事だっただろう。
 だが、それよりも私は妹を取り巻いていた周囲の人間たちに絶望を覚えたのだった。
 精神を病んだ妹は周りの者に疎まれ、蔑まれるようになった。
 どうやら、彼女は同年代の子供に罵りの言葉をぶつけられることもあったらしい。
 一方、その頃の私はギルドの助教授として教壇に立つこともあり、ギルド内での業務が忙しくなりつつあった。
 ギルドでの私は業務の合間を縫い、あるいは夜遅くまで図書館にこもっては心の病に効く薬や魔術に関する本などを読み漁っていたが、それよりも私にはするべきことがあったはずだ。
 私が夜遅くまで図書館にこもったのも、ギルドの業務を自分から進んで受け持ったのも、ある種の逃避だったと言えるかもしれない。
 もっとも、家族はそんな私のことを咎めるどころか賛辞さえしていたのだが。今思えば、家族は私を家に寄せ付けたくなかったのかもしれない。
 私はギルドが休みの日には妹へ「絵以外の道を探すのも間違いではない」などと諭すようなことを言ってみたり、彼女が好きな草花を庭で栽培しようと誘ってみたりしたのだが、それはことごとく失敗に終わった。
 ――皆はわたしに絵描きの道を諦めろとしか言わない。子供じみた夢を諦めてもっと年頃の女らしく振舞いなさいとばかり。もっと女性として魅力的で華やかな服を着なさいとかお化粧をしなさいとか言うけれど、わたしはそんなこと興味ない。
 ――兄さんはいいよね。好きなことの才能があって、皆にも認められて。
わたしは女で、兄さんみたいな才能もなければ美人でもない。どんなに頑張ったって兄さんには敵わない。そうよ、兄さんはただ運が良かっただけ。偶然男の子に生まれたから。わたしより六年早く生まれてお父さんとお母さんにわたしの六倍愛されたから。わたしよりうんと賢い子供だったから。昔っから皆、兄さんばかり見て「可愛くて賢い良い子ね」とか「この子は天才になる」とばかり。そんな良い御身分で、お説教とか何様なの?
 機嫌が悪い時の妹はこのようなことを私に向けて何時間もまくし立てた。
 そんな妹のこともあって、家の雰囲気はとても険悪だった。
 正直に言えば、私もその頃の家に帰ることがとても苦痛だった。そう、私は敢えて妹と向き合うことを避けてしまったのだ。
 かくして私が逃げ続けているうちにいつの間にか、妹は遠く離れた療養所へ送られていた。
 かつて街で購入したルビナス製のブローチを贈るほど仲の良かった妹が不在の家はあまりに寂しく、二度と妹に会えないのではないかという不安が私を襲った。
 私がようやく妹とまともに向き合わなくてはいけないことに気付いたのはその頃だったのだ。
 それからの私はこれまでの逃避的な姿勢を反省し、積極的に療養所へ足を運んでは衣服や日用品を妹へ届けるようになった。
 この行為は、せめて妹との繋がりを失いたくないという思いから来るものだったとまでは言える。
 会えないことの方が多かったが、療養所の小ぢんまりとした面会室で妹と途切れ途切れに会話をしながら私が喜びを感じていたのは紛れもない事実だった。
 妹はゆっくりだが着実に元の具合を取り戻しつつある。そんな確信が芽生えた頃だった。
 妹が療養所の近くにある湖へ身を投げたという知らせが療養所から届いたのは、そんなある日のことだったのだ。
 それは、早咲きの椿がまだ色褪せないままの花を首だけ残して落とし始める季節だった。
 
 
 黒いローブを脱いで壁にかけると、私は水を浴びるために浴室に立った。
 水を浴びている間は、どうしても四角い鏡に映るみすぼらしく痩せた男との睨めっこを避けられない。
 この男は一体どれだけ髪を切らずにいるのか。伸びすぎた髪は洗うのに時間がかかって仕方ない。これだけ長くなった髪はいくら手入れをしてもぼさぼさになってしまうのだから一思いに切ってしまえばいいのだ。
 ――――――そう、切ってしまえばいい。
 不意に、耳の奥から小さな声が響く。その声は抑揚が全くなく、何の感情も読み取れない。
 そうだ。この声の通りだ。切ってしまえばいい。切らなくてはいけない。だが、一体何を切ればいいのだろうか。一体何を切らなくてはいけないのか。
 気が付くと、私は泡だらけの左手に目をやりながらそんなことを考えていた。
 ――――まさか、そんなわけがない。そんなことより髪を濯がなければ。
 そうして髪を濯いでいる間、いつの間にか私はこの世界に存在する女神について思いを巡らせていた。
 才能の有無や運という不平等がこの世界には存在するが、それは幸運の女神というものの賜物だと言われる。
 妹が彼女から賜ったものは不運だった。そして、妹はその結果としてこの世界から消えた。いや、消えるしかなかったのだろう。
 今もなお私はどうにかして妹が消えるのを止めることができなかったのだろうかという後悔に苛まれる。
 この後悔という感情は私にとって呪縛のようなもので、この先もそれが解けることはない。それどころか、この呪縛は歳を重ねるごとに重くなっていく。
 時折、私は幸運の女神というものを恨む気持ちに駆られるが、それはただの八つ当たりでしかないだろう。
 いつの間にか、私は逆恨みをすることでしか自分を保てなくなっていたのだ。
 乾いたタオルで身体を拭いながら浴室を出る。
 シャツに袖を通しながら洗面所の鏡に目をやると、そこにはこの世で最も大嫌いな人間が映っていた。彼は私にとって幸運の女神よりもずっと恨むべき人間だ。
 片目を隠すほどに伸ばしっぱなしの前髪からは水の滴が滴り落ちる。瞬きと共に黒く長い睫毛からは小さな水滴が跳ねた。
 もう遠い記憶の中にしかいない妹ととても似た色の髪と目をしているくせに、この男は妹と似ているようで全く似ていない。
 鏡から私を無機質な目で見つめる男の顔が、私には心底から醜く思えて仕方なかった。
 ――――そんな醜い顔なんて、切り刻んでしまえ。ぐしゃぐしゃに切ってしまえ。
 耐え難さを感じて目を伏せたその時、顔を切れと促す声が耳の奥で響いた。低い女の声だろうか。それとも男の声だろうか。それは分からないが先程よりずっと鮮明な声だ。
 そして、私はいつの間にか細長い剃刀を手に握り、その刃で頬を切りつけようとしていた。
 それに気付くと、喉から悲鳴が漏れた。
 いつの間にこんなものを手にしていたのだろうか。危うく本当に顔を切り刻んでしまうところだったのではないか。
 私は曲がりなりにも魔術士としてギルドへ顔を出している人間だ。
 だから、顔を人前に晒さずにいるなんて無理だ。切り刻んだ顔で人前に出ればどんな目で見られることか。
 いくら自分の顔を切り刻みたいと思っていてもそれを行動に移してしまえば非常に困る。
 結局、私は妹の面影を僅かに残した自分の顔を傷付けることなどできないのだ。
「すまないが、顔だけはやめておくれ……」
 私は床にへたり込みながら「声」に向かって呟いた。
 だが、その「声」は剃刀を手放すことを許してくれなかった。
 ――――なら、その腕を切り刻め。胸もだ。
 私は手に握った剃刀を投げ捨てようとしたが、それは何かによって阻止されてしまった。
 ――――お前なんて死んでしまえばいいんだ。その重たい頭を乗せた首を切って死ね。死んでしまえ。
 私は罵声に抗おうと試みる。私はまだ死にたくない。少なくともこんな所で一人死ぬのは嫌だ。
 だが、身体が命令に従って勝手に動き出す。刃が腕に突き刺さる。皮膚が破れ、肉が裂ける。
 私は何かへ抗おうとするが、刃を動かす手は止まらない。止められない。
 そうするうちに視界が白く霞み、意識が遠くなっていった。
 
 
 再び意識が清明になると、私は体液まみれになった洗面所で仰向けに倒れていた。
 私は暫く気を失っていたのだろうか。死を促す罵声が聞こえてから正気に戻るまでの記憶がない。
 両腕や首、胸に脈打つような痛みが貼りつき、夏だというのにひどく寒い。この寒さと痛みは私の意識を清明にさせていく。
 何とか身を起こすと、まるで自分を慰めて体液を吐いた後のような虚脱感が全身に纏わりつき、荒い息が漏れた。
 自分を慰めた時と違うのは、ただ辺りに飛び散る体液が真っ赤なことと、その行為を気持ちいいことだとはとても思えそうにないことだけだ。
 でも、それが性欲というものだろうと感情というものであろうと何であれ何かによって駆り立てられた結果行ってしまうことだというのは同じだろう。
 それから、自分を慰めるのも身体を切るのも体液を失う行為だという意味で全く同じだ。
 こうして座り込みながら血だらけの冷えきった身体を庇っていると、深手を負いながら死に怯える敗残兵になったかのようだ。
 血が染み込んで固まりかけたシャツの袖を指で引っ張ると、バリバリと紙袋を破くような音が響いた。
 白い床に目をやると、血液の水溜まりは既に乾き始めていて壁にも乾きかけの血液がこびりついている。
 その時、私は自分がどれだけの血液を無造作に流してしまったかを知らしめられることとなった。
 この無駄に流れてしまった血液は、いずれ精液として体外に吐き出される運命だったのだろうか。あるいは、尿として排泄される運命だったのか。
 いずれにしても私は体液を無駄に流してしまうことになるのだが。ことごとく私の体内に宿った体液は不運だ。
 かつて、何かの書物で「自慰によって精液を失うことはその精液の四十倍もの量の血液を失うのと同等の衰弱をもたらす」と読んだことがある。
 確か、その書物はまだ魔術士ギルドの生徒だった頃に図書館で好奇心から手にしたものだったはずだ。
 書物の題名などとうに忘れてしまったが、過度の自慰や性交で命を落とした人間の物語をいくつも記した内容であったことは覚えている。
 ――無闇な快楽に溺れて命を失うことは、刃物で身体を切ること、拳銃で頭を撃つこと、入水することと大差ない行為だ。
 その書物には、このような恐怖を煽る文句がいくつも書かれていたのだが、当時の私はそれを読みながら、なんて愚かな死に方をする者がいるのだろうと笑っていた。
 そして、刹那的な快楽に命を落とすまで溺れることも、身体を刃物で切り刻むことも拳銃で撃つこともしないだろうという驕りさえ抱いていた。
 だが、そんな驕りを抱いていた少年は今や死ぬために身体を切るようになってしまった。
 実のところ刃物を自分に向けるのはもうこれが初めてではない。少なくとも妹を亡くして数年経ってから始まったのだろうが、きっかけになることなんて今となっては忘れてしまった。
 最初はここまでひどくなかったはずだが、この奇怪な行為は何年も経つうちに激化し、今となっては死の恐怖を抱かずにいられないほどになってしまった。
 そんな今、あの書物の脅し文句は決して笑えるものではなかった。
 やりすぎた自傷で血液を流しすぎて死ぬのと、やりすぎた自慰で精液を流しすぎて死ぬのはどちらが不名誉な死なのか。
  同じ不名誉な死なら、失血に苦しみながらではなく快楽に溺れながら死を迎える方がまだ賢明なのではないか。
 いや、そんなくだらないことを考えている場合ではない。もっと言えば、こんなくだらないこともしなければ良かったのだ。
 この洗面所の後始末をしないといけないが、どうも気力が湧いてこない。何より、出血のせいか頭がくらくらして吐きそうだ。
 どうせ私以外に誰もいない家なのだから掃除は明日にしようかと思うが、そうすれば血液が完全に乾いてますます厄介だろう。
 それにしても、せっかく水を浴びたというのにまた全身血だらけになってしまった。一体何をやっているのだろうか。私は本当に馬鹿だ。
 私は眩暈に怯えながらゆっくり立ち上がると、棚から取り出した一枚のタオルを濡らして傷を拭った。
 そして、全身の出血が止まっているのを確かめ、吐き気に耐えながら床や壁を埋め尽くす血を拭い始めた。
 
 
 翌日は、魔術士ギルドで他人と顔を合わせることが不安だった。
 勿論のこと、それは昨夜に作ってしまった傷のせいだ。
 長袖シャツの上にローブの袖をだらしなく伸ばし、布製の手袋をはめて両手を隠す。そして、菫色の大判スカーフと長く伸びた髪で首を隠した。
 そうしていてもローブの袖やスカーフが捲れ上がるのではないかという不安が付きまとった。
 いくら髪が顔に覆いかぶさって邪魔だとしても不用意にかき上げればスカーフの隙間から傷が見えるかもしれない。それを考えると不安で髪も不用意に触れなかった。
 さらに、傷だらけになった肌を隠すための厚着は発汗の元となり、その汗は容赦なく身体中の傷に染み込んで痒みや痛みをもたらした。
 痒みの伴う痛みは痛みだけよりも更に耐えがたい不快感をもたらすもので、教壇の上で喋りながら全身を掻き毟りたい衝動を抑えなければならなかったのだ。
 その日の講義を終えると、私は真っ先にトイレの個室へと駆け込んだ。
 蓋の閉まった便器の上に腰を下ろし、そのまま一息を吐く。
 講義中は黒板に字を書くために何度も腕を上げる必要があり、字を書くたびに袖がずり落ちるのではないかと気が気でなかった。
 講義時間をひどい緊張と暑さにさらされながら過ごしていたため、汗がだらだらと顔を流れ落ちていく。
 講義室という人目にさらされる場から解放されたことも相まって私はもう衝動を抑えきれなくなっていた。
 ローブの袖を捲り上げ、手袋とシャツの袖口のボタンを外し、露わにした両腕に爪を立てる。
 ――痒い。痒い。痒くて仕方ない。この痒みを更に強い痛みで塗り替えたくて仕方ない。
 激しく疼く腕を一度爪で引っ掻き散らすと、突き上げるような快感が全身を走った。
 そんな中で、掻き毟られた皮膚が再び破れてしまうことを分かっていても手を止めることなどできなかった。
 どれだけ腕を掻き毟り続けていたのか。腕と同じように首を掻き毟ろうとしたところで、血だらけになった両手の爪が視界に入った。
 我に返って腕へ目をやると、両腕は昨日と同じように真っ赤になり、シャツの袖もまた赤く汚されている。
 溢れ出る鮮血は腕の上に巻き付きながら滴り落ち、床にいくつもの赤い花を咲かせた。
 あまりに強い力で縦横無尽に掻き毟ったからだろう。再び口を開けた傷という傷が心臓のように脈打ち続けている。
 腕を掻き毟る快感は一気に引き、その代わりに腕は痛みという形で悲痛な叫び声を上げ始めた。
 私は応急処置にと壁に引っ掛けられているトイレットペーパーをいくらか引き千切り、両腕をぐるぐる巻きにして止血を試みる。
 個室の扉を開けようとしたその時、扉の向こうから足音が聞こえた。
 私は扉の鍵を再び閉じ、扉の向こうの足音に耳を済ませた。
 その足音は、段々と私のいる個室に近づいてくる。
 そして、扉がごんごんと音を立てた。どうやら足音の主はこの個室の中にいる者の有無を確かめようとしているらしい。
 だが、今は自分の存在を相手に認識されることがとても億劫で、声を出す気力も扉を叩き返す気力もなかった。
「誰かが入ってるみたいだよ、しかも返事すらない。こっちは次の時間が講義だから急いでいるっていうのに最悪だ」
 足音の主が誰かに向けて喋っている。ということは、今この扉の向こうには二人以上の人間がいるのだ。
「へえ、大便でもしているんじゃねえの? っていうか返事がないってまさか中で死んでいるんじゃないよな?」
「ははは。ドアを開けたら血がドバーッって? そんなことがあったら大事件だ」
 先程とはまた別の声が聞こえる。会話の内容を聞く限りでは、扉の向こうにいるのはこのギルドの生徒たちらしい。
 その声はいかにも冗談交じりの口ぶりだが、実際に流血沙汰となっている身としては会話の内容に笑うことなどできなかった。
 再び両手に目をやる。
 じわじわと滲む血は見る見るうちにトイレットペーパーを侵食していく。
 先程巻きつけたトイレットペーパーは早くも血で真っ赤になりつつあった。
 ――どん。どん。
 再び扉が叩かれる。
 だが、私は息を殺したまま声を出すこともできない。
「……本当に返事も全然ないな。ずっと待っていたら講義が始まってしまいそうだ」
「ああ、確かにな。小便をするのは講義が終わった後にするよ。講義っていったらさっきの時間は寝ちゃったな」
「うへえ、あの講義で寝るとかどれだけ神経が図太いんだよ。あの講義を受け持ってる教官ってむちゃくちゃ怖いじゃないか。あの血も涙もなさそうな目で睨まれたら小便ちびりそうだ。それに、先輩の言うことじゃあ、あいつには『鬼教官』というあだ名が付いているらしいぜ」
「ああ、それは知ってるよ。レイ……じゃなくてレントンっていう教官だったな。試験の評価とかすごく厳しいんだろ。でも、今日はどうしてなのか寝ていても注意されなかったんだよ。何でだろうな」
 ――不意に自分の名前を出され、私は心臓の辺りを拳で握られるような心地がした。
 確かに今日の講義は後ろの席で居眠りをしている生徒が数人いた覚えがある。
 だが、今日は居眠りをする生徒を起こしに行くこともできなかったのだ。
「へえ、珍しいこともあるんだな。お前、レントン教官に目を付けられてるんじゃねえの? 直々に呼び出しがあるかもな。補習なんてことになれば鬼教官様と二人っきりの濃厚な時間を過ごせるじゃないか、せいぜい色々なものをこってり搾られてくることだ」
「やめてくれ。俺、あの教官嫌いなんだよ。あいつと二人きりだなんて考えただけで死にそうだ。大体、講義室は暑いしあいつは堅苦しい話しかしないしで眠るなっていう方が無理だって。そう言う君はどうやって起きているんだよ」
「お前は夜な夜な無駄に本を読み過ぎなんだって。まずは講義を真面目に聴くことだな。どうしても起きてられないって言うなら、ズボンの中に手を突っこんだまま講義を受けたらどうだ。それならさすがにお前でも寝ないだろう」
「おい、そっちの方が寝るよりまずいだろう!」
「ははは、そうだな。床でも汚せばギルド長がご立腹されるもんな。どうしても無駄な本を読みすぎるっていうなら俺が預かってやってもいいぜ」
「そんなことを言って、ただ君が読みたいだけじゃないか! 分かったよ。今度貸すから。そんなことより早く行こう。講義が始まってしまう」
 生徒たちがこの場から離れる旨のことを話し出すと、私は僅かに安堵した。
 扉の向こうから二人分の大笑いする声が響き、二つの足音はどんどん遠くなっていく。
 そうして、トイレ内に再び沈黙が訪れた。
 この時、両腕に巻いたトイレットペーパーはもう使い物にならなくなっていた。
 絞れるのではないかというほどに血が染み込んだトイレットペーパーを便器に流し、辺りに誰もいないことを確かめるよう個室の扉から頭を出す。
 そして、私は手洗い場で血を洗い流した腕を庇いながら自室へと向かった。
 
 
 その後の私はギルドを早めに抜け出し、建物の裏に膝を抱えながら座り込んでいた。
 壁の向こうからは人々の雑踏が遠く聞こえ、野草が生えた地面のすぐ先には湖が広がっている。
 風とともに水面は細かい波を立て、波立つ水は私の目の前に何度も何度も押し寄せては枯れ葉や砂を飲み込んでいく。
 私は考える。妹もこんな風にして水の中へと飲み込まれてしまったのだろうかと。
 この世は元素の神によって創り出されたいくつかの元素で構成されているという。水もまた、元素の神によって創り出されたものの一つだ。
 そして、妹を殺した「水」は私の中にも巡っているものである。
 今日も私は人を殺しうるものでもある水を身体に取り入れては外に吐き出して生きている。そうしないと生きていられないからだ。
 血液、尿、唾液、涙、精液といったあらゆる体液は全て水がなければ作れない。
 かといって元素の神を恨もうだなんて思いやしない。
 ただ、私は自分が水を孕む存在であることを自覚するたびに絶望感と無力感に駆られた。
 そして、この街――ルミエストはことごとく水に囲まれている場所だ。
 私は今日も妹を殺した物質である水に囲まれた場所で暮らし続けている。
 妹を失って間もない頃は、この街を離れて違う街へ移り住もうと考えることもあった。
 あの頃ならそうしようと思えばそうできたはずだが、結局私はそうしなかったのだ。
 この水浸しの街から離れても、水から逃げることなどできないと気付いた日から私はこの街を離れることをも諦めてしまったのだろう。
 人というものは、未知の変化を選ぶより既知の不変を選びがちだ。たとえ不変であることが苦痛に満ちていたとしても。
 風になびく前髪をかき上げようと腕を上げるとローブの袖がずるりと落ち、固まった血で海老茶色に汚れたシャツの袖とその下の包帯が露わになった。
 そうだ。このシャツも帰宅した後に洗濯をしなければいけない。今日はせめて汚れが目立ちにくい色のものを選べば良かったのだ。
 ふらふらと立ち上がり、湖面へ目をやる。
 そこに映るのは、髪が風になびいてぼさぼさになり、ぐしゃぐしゃになったローブを身に纏う自分の薄汚い姿だった。
 そこで突然、私は傷をあくまで隠し通そうとする自分の行動が悲しく思えた。
 何と惨めなことか。たとえ赤い線だらけの化け物みたいになった身体を隠しても、私は醜いのだ。
 自分がこんな姿で教壇に立っていたことを思うと、消えてしまいたかった。
 その時だった。私が突然に人の気配を感じたのは。
 顔を上げると、一人の少女がきょとんとした顔で私を見ていた。
 少女は五歳か六歳くらいだろうか。白い綿製の涼しそうなワンピース姿に、癖のある赤い髪を二つに分けて兎のように高く結い上げている。
 私は悲鳴を上げそうになるが、喉元で抑え込んだ。
 そして、私と視線が合うやいなや少女は怯えるような顔を見せ、そのまま一目散に表通りへと逃げていったのだった。
「いやあああああ、お兄ちゃーーん!!」
 兄を呼んでいるのだろうか。少女の悲鳴が壁越しに響く。
「何だ! どうしたんだ!?」
 そして、次に聞こえるのは少女の兄だろうか。少年の声が聞こえた。
「あっちにお化けがいたの、真っ黒な服を着た真っ黒な髪の男の人が!」
「お化けだって? そんなの、いるわけないだろう」
「本当だもん! 髪が長くて赤い目のお化けだった!それでね、両手に血まみれの包帯を巻いていて……」
「ははは、お前は怖がりだなあ。お化けが本当にいたら俺が退治してやるよ。で、どっちなんだ?」
「こっちだよ、お兄ちゃん!」
 再び、二人分の足音が近づいてくる。それと共に嫌な汗が流れ始める。
 早くここから逃げなければいけないと感じた時にはもう遅かった。
 逃げようとするより先にごつんと硬いものが頭に当たる。
「痛っ……!」
 鋭く痛む頭を押さえてうずくまると、目の前で茶色い胡桃の実がごろごろと転がった。
 それに続いて、冷たく柔らかいものが左のこめかみに当たって砕けた。
 顔を流れ、ぽたぽたとローブに落ちるそれは赤く、独特の青臭い匂いを放つ。
 どうやら私が投げつけられたものは熟れ切って崩れかけたトマトらしい。
 そして、それだけではなかった。
 再び飛んできた二つ目のトマトが左目の上で砕け、こめかみに直撃した二つ目の胡桃に私は呻き声を上げた。
 胡桃とトマトが飛んできた方向を見ると、二人の子供が建物の陰からこちらを覗いている。一人は先程の少女で、もう一人は少女より二歳ほど年上の少年だ。
「こら、危ないじゃないか」
 私は閉ざされた左目を押さえ、頭の痛みに顔をしかめたまま二人の子供に向けて叫んだ。
 トマトの赤い汁が目に入るせいだろうか。胡桃をまともに当てられたからだろうか。痛みのあまり目からは涙がじわじわと滲み始めた。
「それからだ、食べ物を粗末にするのはやめたほうがいい。こんなものを人に投げちゃ駄目だ」
 私は滲む涙を堪えながらあくまで平常を保っているかのように声を作る。
 ところが、子供たちには赤い汁まみれになった私の声に耳を傾ける余裕などなかったらしい。
「うわああああ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
 兄妹は私の言葉をさえぎるように叫びながら一目散に逃げ出した。
 だが、私には彼らの後を追う気力などなく二人を見送るしかなかった。
 子供の足跡はだんだんと遠くなっていく。そして、建物越しに聞こえる雑踏にまぎれて聞こえなくなった。
 そうして、その場に再び私一人だけが取り残される。
 湖面に映る自分の姿を改めて見ると、トマトの汁でべたべたに汚れた髪はもつれて顔に貼り付き、見るも無惨だ。
 なるほど。こんな姿では子供も逃げ出すはずだ。赤い汁にまみれた顔はあまりに汚く、まるで怪物のようだ。
 何がおかしいのか。それさえ分からないまま私は空を仰ぐかのように首を反らしながら笑った。
 だが、その笑い声はあまりにもわざとらしい。この笑いは笑いたいわけでもないのに笑う者のそれだ。
 暫くすると私は笑うのが馬鹿馬鹿しくなり、再び俯いた。
 髪からは種を含むどろりとした汁が流れては地面に落ちていく。
 そうするうちに耳の奥で何かが潰れるかのような嫌な音が何度も響き、喉の奥が異様に引き攣り始めた。
 私は口の中にたまる唾液を飲み込んでは引き攣る喉で息を吸い込むのを繰り返す。
 だが、喉が詰まるせいで息を上手く吐き出すことができない。
 そのうちに再び滲み出す涙は、先程よりもずっと量を増していた。
 そして、気が付くと、私は嗚咽を押し殺すために歯をぎりぎりと噛み締めていた。
 何故声を噛み殺すのかというと、それは人に気付かれたくないからだ。
 だが、そもそもは泣くのをやめれば済む話だろう。それなのに、泣くのをやめようとすればするほど嗚咽は漏れ続けるばかりだ。
 泣いた顔ではとても人前には出られない。まず、それ以前にトマトの汁でべたべたに汚れている時点で人前に出るのは無理だろう。
 私は近くに自分の身長と同じくらいに茂った低木があるのを認めると、その茂みの中で身を隠すように膝を抱えた。
 この木はどうやら木苺らしい。近くの枝を手に取ると、赤や黒の粒々とした実が成っている。
 この小さな果実はかつて妹が好んでいたもののはずだ。妹は素朴な果物を好き好んでいたがが、中でもこの赤黒い実が好きだと言っていた覚えがある。
 動くたび棘がびっしりと付いた枝が身体を引っ掻くために身体のあちこちが痛んだが、今やそんなことも気にならなかった。それどころか、私はその痛みを歓迎すらしていた。
 手の届く範囲にある枝の中から、いっとう棘の多い枝を手に取ると、私は手の甲にそれを押し当てて横に引いた。
 棘で付けた傷からは、周りを囲む枝の果実と同じ色をした小さな玉が五つほど浮かんだ。
 妹は何故数多ある果物の中でも木苺を好き好んでいたのだろうか。それは今となっては本人に尋ねることなどできない。
 だが、彼女がこの血のような色の果実に惹かれた理由は何となく理解できるように思えた。
 再び枝を左手に押し当て、さらに新たな傷を作る。いくつもの傷から滲むのは、やはり赤い粒だった。
 この枝先に付いた果実は熟れると黒く変色する性質を持つらしい。鮮やかな赤色をした血も時間が経てば黒い木苺と同じように黒くなる。
 気が付くと、私は傷だらけの左手で枝についた果実を一つ引き千切っていた。
 改めて手に取った果実をまじまじと見つめる。
 その木苺は色だけでなく、形までもが血の玉にそっくりだった。
 私は手に取った果実を歯で強く噛み潰す。
 苺を咀嚼するたび口の中に広がるその味は舌を刺すように酸っぱく、それと同時にあまりにも渋かった。
 口の中に残る種を土の上に吐き出すと、先程よりもいっそう多く涙が溢れ出た。
 顔を左手で拭おうとすれば、先程ぶつけられたトマトの汁と混じる涙が容赦なく新たな傷を焼き始める。
 その痛みのあまり、私は身体を強張らせた。
 こんなことは分かっていたはずだ。傷を塩水にさらせば痛むだなんて子供だって知っている。
 だが、敢えて傷付いた手で涙を拭うのは「泣くのをやめろ」という戒めくらいにはなるだろう。
 それにしても、私は何故泣くのだろうか。どうしてこんなにも悲しくて仕方ないのだろうか。
 今しがた口にした木苺が甘くなかったからだろうか。
 子供に「お化け」と言われ、硬い胡桃と傷んだトマトを投げつけられたからだろうか。
 ギルドのトイレ内で、生徒たちに陰で「鬼教官」と呼ばれていることを知ってしまったからだろうか。
 それとも、常日頃からいくら注意しても生徒たちが講義中の私語をやめてくれないからだろうか。
 あるいは、家にもギルドにも私を待ってくれる者が誰もいないからだろうか。
 そんなことはいくら考えても分からない。分かりたくもない。考えれば考えるほどに孤独感が募るばかりで胸が張り裂けそうだ。
 ――――そんなに独りが嫌なら早く死ねばいい。昨日あのまま洗面所で血まみれで死ねば良かったのに。 
 その時、不意に昨日の洗面所で聞いた声が私の耳元で囁いた。
 その声を聞いた途端に背筋が凍りつき、指先が冷たく痺れ始める。
 やはり、こんな感情には気付くべきでなかったのだ。ないものだとしていた感情に気付くと、私はいつもおかしくなる。
 ――ほら、目の前に湖があるじゃないか。飛び込んでそのまま浮かんでこなければ簡単に死ねるだろう。どうせお前なんかに気付く奴なんて誰もいないのだから。水風船みたいに膨れた死骸になっても誰もお前を気になんてしないよ。
 私の耳の奥に棲みつく何かは、私が一番聞きたくない人の声を借りながら喋り続ける。
 どうしてこの声はいつも私へ死を促してくるのだろう。どうしていつも私の存在を貶めるのだろう。
 ――お前が孤独なのはお前が何の美点もない人間だからだ。生徒たちがお前の話を聞かないのは、お前の喋る言葉に何の意味もないからだ。不味い木苺を食ったのも、子供に腐ったトマトを投げられるのもお前のせいなんだ。全部お前が悪いんだ。
 私は分かり切っている。いつも聞こえる声が私自身のものだということを。
 私は自分を傷害せずにいられないほど自分自身が憎くて仕方ないのだ。その一方、私は自分自身にそこまで憎まれることがとてもつらい。
 私はもうこんな悪意に満ちた言葉は聞きたくない。自分を残酷な言葉で虐げることもしたくない。
 私はこれからも一人で自分を罵りながら生き続けなければいけないのか。もしそうなのだとすれば、それはとても耐えられない。耐えられないのに逃げられないとなると生き地獄に他ならない。
 そして、私はいつの間にか人の目を避けていたことも忘れて何かに取りつかれたかのように声を上げていた。
 耳の奥からは相変わらず声が聞こえ続けるが、今はもう何も聞きたくない。
 喉から漏れる激しい嗚咽が聴覚を埋め、耳の奥から聞こえる声を遮断することが分かるといっそう声を抑えることはできなくなっていった。
 激しい嘔吐を繰り返すかのように涙が溢れ、目を開けていることすらできない。
 やがて、私の意識はこの街から疎隔されて遠くなっていく。
 そうして散々泣き、私が漸く泣き止んだ頃にはもう既に辺りは薄暗くなっていた。
 もうすぐこの街に夜がやってくるのだ。それまでに帰らなければいけない。
 だが、どこへ帰ればいいのだろうか。私の帰りを待つ人なんて誰もいないというのに。
 それでも帰らなくては。帰った後には袖が血だらけになったシャツを洗わなくてはいけない。ガビガビに汚れた包帯を捨てて新しい包帯を巻き直さなくてはいけない。そして、この汚れた身体を洗わなくてはいけない。
 いくら独りだろうと、帰りを待つ人がいなかろうと、家に帰る理由ならいくつもあるのだ。
 茂みから這い出し、べっとりと顔に貼りつく髪を掻き上げて痛む目を見開くと、紫色に染まる夕暮れの街が現実のものとして差し迫った。
 私はそれがあまりに恐ろしく、どこか狭い場所へ逃げ込みたいという思いに駆られた。
 この街はあまりに広くて恐ろしい。あまりの恐怖に息が詰まり、倒れてしまいそうだ。
 ほら、やっぱり私は今すぐ帰らなくてはいけない。ここで動けなくなれば、私が帰れるのはいつになるだろう?
 幸いか、明日は休息の日だ。今日は暗く狭い部屋でシーツを被って傷だらけの身体を庇いながら眠ろう。明日も同じように身体を庇いながら死人のように眠ろう。
 そうして疲れ果てた身体を引きずって家に向かう間、急な吐き気に見舞われた私は湖の傍でやけに白く泡立った水っぽい吐瀉物を吐き戻した。
 そんな私を怪訝な目で見る者は何人もいたが、声をかけてくる者は誰一人としていなかった。
 
 
 普段の何倍もの距離に感じられる道を歩き続けて自宅に辿り着くと、私はその扉を固く閉ざして玄関の床に倒れ込んだ。
 冷たい床は私の身体から熱を奪っていく。せめて着替えなければならないが、私にはもう起き上がる気力がない。
 では、倒れたまま床を這いずろうかと思うが、それはそれで余計に大儀だ。
 私はあまりに失い、疲れすぎたのだ。昨日は大量の血を失ったばかりだというのに今日は散々汗をかいて、それに加えて嫌になるほど泣いて、道端で吐いて、昨日と今日とで一体どれだけの水を失ったのかなんて考えたくもない。
 せめて、泣き喚いていた時間を別のことに使っていればここまで消耗することもなかったのではないか。
 昨日もとてもくだらないことをしてしまったが、今日も失うばかりでくだらない一日だった。
 こんな時、家に誰かがいたならば立ち上がるのを助けてくれたかもしれない。
 だが、私にとってそれは夢のまた夢だ。
 ことごとく、私は一人なのだ。
 それを思うと、再び涙が滲み始めた。息が上手くできないせいで酸素が足らないのか頭が痛んでも、腫れた瞼や傷だらけの手の甲が塩水にさらされて傷んでも、それは全く戒めにならない。
 今日はギルドのトイレで生徒が私を「血も涙もない」と評するのを耳にしたが、この調子では本当に血も涙も完全に失ってしまいそうだ。
 だが、それも別に悪くはないかもしれない。
 顔を手で拭うのを諦めて仰向けになると、私は引き攣った顔で泣いたまま笑った。
 耳の横を水が伝い、天井はぐらぐらと不安定に揺らぐ。
 そのまま目を閉じると、床に身体が沈んでいくかのような感覚が私を包んだ。
 半分眠りに落ちかけながらも半分目覚めたままなのだろうか。私はそれが夢だと分かったままで生温かい液体の中に溺れていた。
 私は昨日もこんな風に洗面所で血に沈んでいたのだろう。そして、今日は涙に沈もうとしている。
 私が沈んでいくこの沼は一体どれだけ深いのだろうか。果たして、ここには底というものがあるのだろうか。それは全く分からない。
 そんなことに思いを巡らせるうち、朦朧とする意識の中で身体が軽い痙攣を起こしたのが分かった。
 それから程なくして、再び身体を突き上げるように二度目の痙攣が起こった。
 そして、私はそれっきり翌朝まで目を覚まさなかった。
 
 *おしまい*
 
 
 (おまけのようなもの)
 1.資料館では生前のグレースとレントンの関係についてはあんまり情報がないのですが、装飾品を贈るくらいなのでそれなりに仲は悪くなかったのかもしれません。グレースもグレースで兄から貰ったブローチを着けているくらいなので兄のことは決して嫌いだったわけではないような印象がありました。
 グレースが病んだ頃とレントンがギルドの助教授になった頃って一致しているっぽいし、レントンもギルドの業務が忙しくなってグレースと中々向き合えなかったんじゃないかと思ったり思わなかったり。
 
 2.資料館のグレースに関する情報では「兄レントンより贈られた、ルビナスのブローチ」という下りが一番精神的にキました。筆者はこういう遺品系の話にすごく弱い。このルビナスブローチ、持ち主が亡くなった後はどこに行ったんでしょう。形見として兄の手に再び渡ったのか、あるいは処分されてしまったのか。
 
 3.最初のところに出てくる「書物」の元ネタは『オナニスム』という実在する本。18世紀後半にフランスでティソという医師に書かれてイギリスで英訳されたものが出版された。近代の西洋では大学の講義中に眠気を誤魔化すため隠れて自慰行為をする学生がいて問題になっていたらしいですが、ノースティリスの学校でもそんなことはあるのかどうか。
 
 4.妹を亡くして四十路になったレントンは表面的には社会的な破綻はあんまりしてなさそうだけど生活的なところが破綻しかけてそう。手首、首隠し(意味深)って何なんでしょう。エーテル病なんでしょうか。
 
 

暇を持て余したメイジギルドの生徒とギルド長の遊び

 
 (まえがきのような何か)
 この文章の前半部分はレントンが講義を聞いてもらえない内容の話です。こちらはレントン視点。
 後半からはレヴラスさんがレントンで遊んでいるだけの内容です。レヴラスさんがすごくうるさい。
 読んでいてあまり気持ちのいい内容ではないと思います。
 

 
 その日の朝、その扉を目にした時、私は心臓が軋むような不快感を覚えた。
 私はどうしたことか、この扉の向こうにある大講義室が昔から苦手だった。
 いや、大講義室というよりは広場で大人数の視線を浴びながら喋ることが苦手なのだろう。
 それに加えて、私にはこの講義室をことに恐れる理由がもう一つある。
 それでも、今から私はこの扉の向こうで大人数の生徒を前に講義をしなければならなかった。どんなに苦痛でも逃げてはならない。
 先週は体調不良にかまけてこの講義室から逃げてしまったので、その代償としてという意味でも今日こそは逃げることなど許されないのだ。
 息を大きく吸い込んでは吐き出すのを幾度か繰り返すと、私はその重い鉄の扉をこじ開けた。
 その時だった。私が頭のてっぺんに重く冷たい衝撃を感じたのは。
 そして、それだけではない。
 私は、頭から大量の冷水を被っていた。遮られる視界の中で、鈍い銀色のバケツが床を転がっていく。
 顔に貼りつく濡れた前髪をかき上げて前方を見渡すと、着席したまま笑い声を上げる生徒たちの姿が見えた。
 ――ああ、またなのか。こんなことは一体何度目なのだろうか。
 二週間前に頭上から降ってきたものは白墨の粉にまみれた黒板消しだった。
 そして、今日に降ってきたものは水を入れられたバケツだった。
 これが、私の講義室を恐れるもう一つの理由だ。
 しかし、今回は恐れよりも怒りの方が先行した。なぜなら、前日に講義内容をまとめたノートも講義に使用する書物も全てが水に濡れてしまったからだ。
「一体誰なんだ、こんな子供じみた悪戯をするのは」
 教壇に上がりながら、私は声を荒げた。
 だが、その怒りを乗せた声は馬鹿に広いこの講義室内にただ虚しく響くだけだ。
 誰もがくすくすと笑うだけで、誰もが悪戯をしかけたと名乗り出ることはない。
「先生、早く授業を始めてください。先週は授業が休みだったから私たちの勉強も遅れているんですよ」
 生徒の一人がわざとらしく声を上げる。それに続いて、他の生徒たちも騒ぎ始める。
 そうだ、私は生徒たちを怒るためにこんな場所に来ているのではない。
 こうして怒れば生徒たちの思うつぼではないか。
 今は、感情を押し殺しながら指導者として振る舞わなければならない時間だ。
 たとえ、金属製バケツをまともに当てられた頭が痛んでいたとしても、肌着まで水に濡れて大変に不愉快で仕方ないとしても。
「……もういい。今から講義を始める。くれぐれも私語は慎むように」
 形式的に、私は生徒へ向けて叫んだ。
 もちろん生徒たちがそれに従うことはなく、講義中に何度も繰り返す私の呼びかけはざわめきの中に虚しく消えて行くばかりだった。
 講義内容をまとめたノートの潰れた文字に目をやるたびに息が詰まるような心地がしたが、それでも講義を最後まで続けなければいけないという思いだけが私を支えていた。
 
 
 研究室に戻り、水でふやけたノートや書物を机の上に叩きつける。
 椅子に座った私は、抱え込んだ頭に両手の爪を食いこませ、歯ぎしりをした。
 一体どうして私は生徒たちにかくも悪質な悪戯を仕掛けられるようになってしまったのだろうか。
 生徒たちが私へ悪戯を仕掛けるようになった理由は何かあるはずなのだろう。
 だが、一体何が引き金になってしまったのかが分からないのだ。
 私の教え方が悪いのだろうか。それならさらに努力をしなければいけない。
 他に問題があるならさらに努力をするまでのことだ。問題が分からないのなら問題を探す努力をすればいい。
 それなのに、どうして私はそれができないのだろうか。どうして私は教壇に立つことに怯えるのだろうか。
 生徒を満足に指導できないのではそれこそ指導者失格だ。
 ふと気が付くと、髪から落ちた水滴が机の上にまだら模様を作っていた。
 そうだ、水を浴びてから着替えるのを忘れていたのだ。早く着替えないと風邪を引いてしまうだろう。
 椅子から立ち上がり、濡れたローブの腰紐を解こうとした時のことだった。
 ――いっそ、風邪を引いてしまえばいい。そうすれば、あの嫌な講義を休む理由ができるじゃないか。
 何かが、耳の奥からそんな言葉を囁いた。
 その声に、私は腰紐へかけられた手を離して目を見開いた。
 そうだ。風邪を引けば確かに休む理由が作れる。それでもわざと風邪を引くことなど許されるべきではないはずだ。
 ――お前はどうして頑なに努力をしようとするのだ。もういいではないか。休んでしまえよ。
 声の主はいやにやさしい声で喋り続けるが、そのやさしさは私へひどく不愉快な脱力感をもたらした。
 声にうち負かされた私は頭を抱えながら椅子に座り込む。
 やがて、身体が寒さのあまり震え出し、食いしばる歯ががちがちと音を立て始めた。
 このままでは本当に風邪を引いてしまう。だから早く着替えなければいけない。
 それなのに、何故なのか立ち上がる気力が湧いてこない。身体は動いてくれない。
 そうするうちにも、水に濡れて肌に貼りつくローブは着実に私から体温を奪っていく。
 身体の震えは椅子の足が小刻みに音を立てるほどになっているが、それでも動こうという気力は湧いてこない。
 抗いがたい無気力感から私が解放されたのは、それから小一時間後のことだった。
 
 
 翌日、私は耐え難い喉の痛みで目を覚ました。
 喉に加えて鼻の奥もがひりひりと痛み、頭が重い。
 案の定、私は風邪を引いてしまったのだ。
 寝床から這い出して足元のスリッパを履こうとすると、立て続けにくしゃみが出るせいで私は平衡感覚を失い、床に膝をついた。
 昨日、辛うじて着替えた時から感じていた背中の寒気は今も続いているらしい。
 この寒気と全身の倦怠感が熱のせいであることに私が気付いたのは、その時だった。
 それでも、私は熱を無視し、身だしなみを整えてギルドへ向かう準備を始めていた。
 それは洗面所に立っている時のことだった。
 歯を磨いていると、突然に鼻の奥ががむずむずとし出して口元が引き攣った。
 私はそれがくしゃみの前触れであることに気付いてすぐ口元を押さえようとしたが間に合わず、くしゃみと共に飛び散った唾液は目の前の鏡を容赦なく汚した。
 その鏡に映る私は、鏡のまだら模様と同じように白く泡立つ唾液を口元からだらだらとこぼしている。
 その姿はあまりに情けなく、笑うしかなかった。
 私は馬鹿だ。本当に馬鹿でしかない。
 どうして昨日の私は講義を終えた後すぐに着替えなかったのだろうか。
 今日もギルドには行かなくてはいけない。それなのに風邪を引いていてはどうしようもない。
 とてもギルドに向かう気にはなれなかったが、それでも私はギルドへと辿りついていた。
 だが、この日は立て続けに出るくしゃみでとてもギルドの業務を行えるような有様ではなかった。
 その翌日も、またその翌日もそれは同じだったが、それに加えて鼻水が作業を妨げることとなったのだった。
 
 
 その日、レヴラスは隅々まで綺麗に掃除されたギルド長室で来訪者を待っていた。
 懐から取り出した時計の針は自分の指定した時間を指し示そうとしているが、相手はまだ来る気配がない。
 レヴラスは普段から潔癖症のような気質なのだが、他人と顔を合わせる前となるとその気質は彼へますます神経を遣わせることとなる。
 そして、その潔癖症は時間に対しても同じだった。
  彼は不潔を嫌い、身だしなみの乱れを嫌い、時間をきっちり守らない人もまた嫌う。
 髪は綺麗に梳かし、服についた埃も全部始末した。それから、ギルド長の証である金属製の首飾りも忘れず首にかけた。この部屋も、人を入れるのだから念入りに掃除をしてある。
 自分にできることは全て済ませた以上、あとは来訪者を待つだけだったが、それが他人である以上は自分の思うようにはいかない。
 レヴラスは自分が爪を噛もうとしていることに気付くと、爪を隠すように拳を握った。
 ――私としたことが、相手が自分の思う時間に来ないだけで苛立つなんて。他人は自分の手で思い通りに操れる存在ではない。だから苛立つだけ無駄だろう。それにしても、これだから「人」というものは苦手だ。
 その「来訪者」はレヴラスにとって決して好意を寄せられる存在ではない。ギルド内の人間でなければ関わりたいと思うことすらなかっただろう。
 だが、その存在はレヴラスの抱えるある種の好奇心をそそるに十分な屈折した魅力をもつことも確かだった。
 時計を覗く回数が十を超えた頃だった。
 扉を叩く音が三度響くと、「来訪者」が開いた扉から顔を出した。
 部屋に入る男の足取りはどこかおぼつかなく、体調を崩していることが窺えた。
「レントン、ずいぶん待ちましたよ。どうしたのですか」
 レヴラスは来訪者の男を前に、優しい笑顔と声を作った。
 ずいぶん待ったとはいってもせいぜい五分程度だろう。レヴラスは敢えてそのような皮肉を言わずにいられない性分だ。
「ああ、遅くなってすまない」
 レントンはレヴラスの言葉に申し訳ないという表情を浮かべる。
 このように自分の行動や言葉が相手に何らかの影響を与えることを知るたび、ひそかにレヴラスは仄暗い満足を感じていた。
 彼は、自分がこれ見よがしに首飾りの紋章を布で拭く姿を見たギルド員が心をかき乱されることを知っている。自分が相手の感情を操る力をもっていることを知っている。
「質問に答えていませんね。まあ、遅れたとはいってもせいぜい五分程度ですから別にいいでしょう。とりあえずこちらの椅子におかけください」
 レヴラスは自分の椅子に座り、向かいの椅子を勧めながら敢えて嫌味っぽく言葉を続けた。
 レントンはギルド長が嫌味を言わずにいられない性分であることまでは理解していたが、それでもいささか不愉快な感情を抱かずにはいられなかった。
「それで……要件というのは一体何だろうか」
 レヴラスに勧められるまま椅子に座ったレントンはかすれた声で尋ねると、口元を手で押さえながらげほげほと咳き込んだ。
「レントン、風邪を引かれたのですか。お願いですから移さないでください。要件というのはその風邪のことです」
「私の風邪が一体どうしたというのか、私には分かりかねる」
 レントンは困ったような顔で鼻をすすると、再び尋ねた。
 レヴラスはわざとらしくため息をつきながら立ち上がると、すぐ傍の棚に置いてあるポットの茶をコップに注ぎ始めた。
「あなたは相変わらず鈍感なのですね。あれは三日ほど前でしょうか。ずぶ濡れになったあなたが廊下をふらふら歩いている姿を複数のギルド員が目撃しているのです。その風邪はそれが原因なのではありませんか。一体何があったのですかね」
「それは……転んで手洗い場に突っ込んでしまったんだ。話すのも馬鹿馬鹿しいことだ」
 レントンは突き放すように答えると、顔を隠すように俯いた。
 だが、レヴラスはレントンがこの問いに対して僅かに顔を歪めたことを見逃さなかった。
「そうですか。手洗い場でどんな転び方をすれば頭からそのローブの裾まで水に濡れるのでしょう」
 くすくすと笑うギルド長を前に、レントンは眉間にしわを寄せた。
「何がそんなにおかしい」
「すみません。あなたがそんな間抜けなことをするなんて想像できなかったので。でも、あなたがそう仰るのならそうなのでしょうね。それはそうと、相当喉の具合が悪そうですからこの茶をどうぞ。喉によく効く薬草が入っているのです」
 レヴラスは笑うのをやめると、再び椅子に座りながら一杯の茶をテーブルの上に置いた。
「ああ、気を遣わせてすまない。ありがたく頂戴しよう」
 レントンは手に取った茶を一口喉に流し、いささか渋い顔をした。
「……随分と苦い茶だな、薬草というだけある」
「その薬草は喉の緊張をほぐすそうですよ。魔法の詠唱も滑らかになるでしょうね」
「そうなのか、それはとてもありがたい話だ」
 レヴラスは、レントンが茶を飲み干すのを見届けると僅かに笑みを浮かべた。
 それから暫くの時間が経った。
 レントンはギルド長に他愛のない話を振られ続けるうち、全身がだるく重くなっていくような感覚に襲われ始めた。そして、瞼も重く目を開けていられなくなった。
「レントン、どうやら昨夜もあまり眠れていなかったようですね。咳で中々寝付けなかったのではありませんか」
 レヴラスは正面に座るレントンに向かって身を乗り出すと、その額に手を当てた。
「しかも熱まで出ているではありませんか、あなたは自分の体調管理もできないのですか」
「ぎ……ギルド長、あなたは茶に一体何を入れたんだ」
 レントンは重い瞼を開くと、レヴラスを睨んだ。
「いいえ、私は何も変なものなんて入れません。ただ、この茶には喉だけでなく全身の緊張をほぐす効果があるのです。あなたは急に具合が悪くなったように感じているのでしょうけれど、それはただ単に緊張で誤魔化していたせいで体調不良に気付けなかっただけです」
 レヴラスは頭がぐらつくレントンの目を見つめながら言葉を続けた。
「私は知っていますよ。三日前にあなたが濡れねずみになっていたのは生徒がしたことなのでしょう。ずぶ濡れにされながら着替えもできないままで講義を続けたのですね? その結果としてこの風邪を引いた……と。それにしても、生徒は何故あなたにそんな悪戯をするのでしょう。そんなにあなたの講義がつまらないのでしょうかね」
「……そうだな。きっと私の技量や努力が足りないのだろう。私が悪いのだ、全て私が……」
 レントンは、レヴラスの指摘に言い返すことなどできなかった。
 レヴラスの問いは、常日頃から生徒に講義内容が分かりやすいよう努力を注いでいたレントンにとって残酷なはずだ。
 だが、レヴラスはレントンの努力を知らないわけではなく、それを無視して敢えて彼の感情を害するであろう言葉を選んだのだった。
 傷を受けた者の多くは痛みに声を上げる。あるいはこれ以上傷を増やすまいと抵抗するだろう。
 目の前にいる男も心抉る言葉を受ければ多くの者と同じように声を上げるはずだ。
 レヴラスはそんな期待に心を躍らせていたが、その期待は裏切られた。
 ――どうしてこの男は自分の尊厳を損なう言葉を受けてもなおそんな冷たい目でいられるのだろう。刃物で刺されても血を流さず笑っている人間を見ているようでただひたすら気味が悪い。
 淡々と何の感情もこもらない声で呟くレントンの、その声と同じように凍りついたような目を見つめながら、レヴラスはある種の薄気味悪さを覚えずにいられなかった。
 そして、レントンの呟いた「私が悪い」という言葉もまたレヴラスを不愉快にするものだった。
「なるほど、つまり全てあなたの責任だということですか。あなたは本当にそう思っているのでしょうか? もし本当にそう思っているのだとすればそれは傲慢でしかないと思います」
「それは、一体どういう意味なんだ……?」
 レントンはまるで不意打ちを食らったかのように目を開きながら尋ねた。
 僅かに驚きや困惑の入り混じる目をしたレントンを前に、レヴラスはある種の胸の高鳴りを覚えた。
 そして、その上で相手の心を深く抉る言葉を選び出そうとする彼はちょうど蟻の巣を木の枝でほじくり返す子供のような無邪気さを湛えている。
「あなたなら分かると期待していましたが、それは的外れだったようですね。はっきり言います。あなたは自分さえ努力すれば生徒たちを変えられるとでも思っているのでしょうか。そういうところが傲慢だと私は言いたいのですよ。ええ、あなたの努力は認めます。ですが、私は努力さえすれば全ては思い通りになると考えているような傲慢な人間が嫌いなのです」
「そんな、私は……」
「私は一体何でしょう? あくまで自分は謙虚な人間だとでも言いたいのでしょうか。私にはそこまで傲慢になれる心性が理解できません。ああ、そうです。先程あなたは全て自分が悪いと言いましたが、それもまた欺瞞に満ちているように見えます。自分だけを責めていればさぞかし楽でしょうね。その裏に隠れている他者への憤りをなかったことにできるのですから。そうした意味でその自責の姿勢は怠惰に他ならないと思うのですが、違いますか?」
「あ……」
「自分さえ努力すれば他人を変えられるという考え方は、裏を返せば他人は自分の手でどうにでもなる取るに足らない存在だと見下しているようにも取れます。本当にその上で全て自分が悪いという結論に至ったのでしたら、それは独善に他ならないのではないでしょうか」
「わ……私は…………」
 レントンはうわごとのように呟いたところで言葉を詰まらせ、視線をぐらつかせた。
 そんな彼を前にしても、レヴラスは容赦することなく、更にたたみかけた。
「口を開いたと思ったらまた『私』ですか。何か言い訳でもするつもりなのでしょうか。いいでしょう、言い訳なら聞きますよ。時間ならまだたくさんあるので」
 レヴラスは敢えて相手の言い分を聞くという旨の言葉を吐くが、今やレントンは自分の言い分など分からなくなっていた。
 だが、混乱の中でレントンは自分が今の状況に理不尽を覚えていることを理解した。
 ――私は一体何が言いたかったのだろうか。そんなことは今や分からない。だが、そもそもどうしてここまで言われなければいけないのだろうか。それが悔しくて仕方ない。
 部屋に、がつんと鈍い音が響いた。
「一体、私はどうすれば良かったんだ……どうしてあなたにそこまで言われなくてはいけない」
 レントンは向かいに座る男を睨み、テーブルの上に振り下ろした拳を震えさせる。その目は先程の凍りつくような冷淡さを完全に失い、水のようにぐらぐらと不安定に揺らいでいた。
「一体どうしてなんだ。どうしてだ。どうして、どうして……」
 レントンの混乱を映し出すこの言葉は、今や叫びに近いものだった。
 彼の悲痛な叫びを前にしてもなお、レヴラスは意地悪に微笑んだ。
「『どうして』ですか。そうですね、そんなことは私にも分かりません。あなたがどうすればいいか、それもまた私の知ったことではありません。あなたも頭が悪いわけではないでしょう。自分で考えてください」
 ギルド長の突き放すような言葉に、レントンは突然顔を逸らした。
 今の彼が頻りに鼻をすするのは風邪を引いているからだけではない。
 その長く伸びた髪は赤い両目を隠すが、既に流れ落ちた涙までは隠さなかった。
 手の甲で必死に涙を拭うレントンを見つめながら、レヴラスは再びにやりと笑った。
「あなたも泣くのですね。それが分かって安心しました。先程のあなたはまるで感情なんて捨て去りましたとでもいうような冷たい目をしていたので少し心配になったのです」
「やめろ、泣いてなどいない……あなたは一体何がしたいんだ……」
「泣いていない? 嘘はやめてください。生徒が言っていました。あなたは人を寄せ付けない冷たい目をしているから怖いと。あなたのことですから、講義中も終始氷の仮面を被ったような顔をしているのでしょう。そして、それは私の前でも同じ……なので、一度その仮面を壊してみたかったのです。あなたが被った氷の仮面は溶かして何度も叩かないと壊れないので厄介でしたよ」
「あなたはそんなことのために……っ。こんな顔をじろじろ見るのはやめろ、お願いだからやめてくれ」
「どうして見るのをやめなけれはいけないのです、今のあなたの顔、最高ですよ。普段よりずっと魅力的ではありませんか。そうやって顔を隠そうとするところもいじらしいと思います」
「黙れ……げほっ……うげええっ、げほっ……げえっ」
 レントンは、楽しそうに笑うレヴラスを睨みながらひどく咳き込んだ。その咳き込み方は嘔吐にも似ていて、見るからに苦しそうだ。
 その時になって、レヴラスは相手が病人であることを思い出した。
 それでも、彼には今更容赦する気など微塵もなかった。
「すみません、あなたの具合が悪いことを忘れていました。ただでさえ風邪を引いているというのに、涙で鼻と喉を塞がれてはさぞ苦しいことでしょう。ああ、そこに鼻を拭く紙ならたくさんあるので衣服の袖を使うなんて真似はやめてください。衣服の袖を汚い水で汚してよいのは小便くさい子供くらいです。生徒たちが今のあなたを見たらどう言うでしょうね。もしかしたら、生徒たちはあなたのその顔が見たいのかもしれませんよ」
「うるさい、お前は一体何なんだ。先程から人の神経を逆撫ですることばかり言って何が楽しい。どうしてこんなふざけたことに付き合わされなければならないんだ!! 何をされても、狂いそうになってもなお感情を殺して耐えなければいけない人間の気持ちが分かるか。この蛆虫が!!」
 レントンは拳を振り上げ、堰を切ったように叫んだ。その充血した目には激しい怒りが渦巻いている。
 だが、レヴラスは狼狽することもなくあくまで冷静にレントンの拳を片手で制した。
 手首を掴まれ、レントンは自分がギルド長を殴ろうとしたということに気付くと怯えるように顔を引き攣らせた。
「あなたも怒るのですね。もっとも、私が怒らせたのですが。私を殴りたくなる気持ちは分かりますが、蛆虫扱いは感心しませんね。私は蛆虫が大嫌いなのですよ。あの腐肉や汚物に群れて貪りつくあさましい姿……自分の死体が蠢くあれに貪られる姿を想像したら背筋がぞくぞくして堪りません。あなたは……どうですか?」
 レヴラスはレントンの手首を放すと、彼の耳元で囁いた。
 レヴラスの問いに、レントンは無数の蛆虫が背中の上を這い回るような心地を覚えて震え上がった。
「ぞくぞくするでしょう。ですが、あなたのその寒気は蛆虫のせいではなさそうです。熱が上がってきているのでしょうね。今日はもうお休みになられるべきかと」
「そうか。では、ここで失礼させてもらおう。あなたを殴ろうとしたうえ、罵ってすまない」
 レントンはレヴラスの「休め」という言葉をこの場からの解放だと受け止めて安堵を覚えた。
 ところが、彼は椅子から立ち上がったところで自身の身体の異変に気付いた。
 逃げるように扉に向かって歩こうとするが、まるで足元が浮遊しているかのようでまっすぐ歩くことができない。
 そして、頭と肩に鉛を背負っているかのようで前を見据えることもできない。
 そのまま倒れ込んだレントンは、床に膝をつきながらぜえぜえと喘いだ。
「レントン、大丈夫ですか。ああ、これはひどい熱です。無理に部屋を出る必要はありませんから私の部屋でお休みになってください。もっとも、私の部屋であなたを寝かせられるのは解剖台くらいなのですが」
 レヴラスはレントンの額に触れ、その肩を支えた。
「すまない、私は大丈夫だからいい。解剖台で寝るくらいなら自室に戻る」
「そんなことを言っていられる体調ですか。まずはこの熱をどうにかしなければいけませんね。早く解熱するならば、坐薬が一番効きます。坐薬を入れて一晩眠ればあなたの体調も回復するでしょう」
 ――坐薬。この言葉を耳にしたその時、レントンは心の底から嫌悪感を覚えた。
 他人に自分の尻を晒すなど勘弁だ。それに加え、相手はレヴラスなのだ。
 レヴラスには「常日頃から魔術実験のために魔物の解剖を繰り返している」だとか「長らく禁忌とされてきた死霊術にまで手を出そうとしている」という噂がある。
 他人に尻を晒すことが恥ずかしいのは言うまでもないが、そんなギルド長に自分の身体を委ねるなど空恐ろしくて仕方ない。
 どうにかしてレヴラスの手を振り払いたいが、身体はもう言うことを聞かない。
 ここに来る前は暗示をかけて体調不良に抗うだけの気力があったはずだが、暗示が解かれた今はもう抗うだけの気力がない。
「解剖台でもシーツを敷けば寝心地も少しはましになります。さあ、行きましょう」
 レヴラスの手で身体を担ぎ上げられながら、レントンは遠くなる扉に向けて救いを求めるように手を伸ばした。
 だが、ギルド内にはそれに気付く者は誰一人としていなかった。
 
 *おしまい?*
 

 

悪きエレアの例えばなし

 
 (まえがきのような何か)
 この文章は、一部にグロテスクな表現ととても不潔な表現を含むのでご注意ください。
 主にレヴラスさんがひどい目に遭っていますが食事中の閲覧は避けていただければ幸いです。
 

  
 とある国には「善きサマリア人の法」と呼ばれる法があると聞いたことがある。
 この法は、異国に存在する宗教の教典に書かれた「善きサマリア人のたとえ」という話が元になっているらしい。
 その内容は、災難や急病などで窮地に陥った者を救うために良識的かつ誠実に行動をしたのなら、相手を救うことに失敗してもその結果の責任を問わないというものである。
 私はこの日、ギルド長へノルマの報告をするためにギルド長室へ足を運んだ。
 その扉の前に立ったその時、部屋からくぐもった男の呻き声が聞こえてきたのだ。
 その声はいかにも苦しげだ。一体何があったのだろう。
 慌てて部屋へ飛び込むと、ギルド長の男――レヴラスが首の辺りを掻きむしりながら床をのたうち回っていた。
 そんな彼のテーブルには一つのもちが乗った皿が置かれている。
 その様子からは彼に何が起きたかを想像するのは難くないだろう。
 もちというものは噛み切りにくいもので、時に喉を詰まらせて窒息させてしまうこともある。
 ノースティリスにおいても、もちによる死者は跡を絶たない。
 レヴラスはもちを喉に詰まらせて窒息しかけていたのだ。
「ギルド長、大丈夫ですか。しっかりしてください!」
 私は叫びながらもちを喉に詰まらせたレヴラスの背中を何度も強く叩くが、彼を窒息させているはずのもちは一向に出てこようとしない。
「うぐぐ……」
 どうやら背中を叩く方法ではギルド長の喉からもちを吐き出させるのは無理らしい。
 レヴラスの口を開けさせて手で掻き出そうとしても、それは上手く行かなかった。
 そうこうするうちにも、ギルド長の顔はどんどん血の気を失っていく。
 このままでは彼の命が危険であることは明らかだ。
 急いでもちを吐き出さないとギルド長の命はない。一体どうすればいいのか。
 その時だった。ギルド長の部屋をすぐ出たところにある、汚れた小型のラバーカップが目に留まったのは。
 気が付くと、私はそれを手に取りながらレヴラスの傍に駆け寄っていた。
 既に意識が朦朧としているであろう中、レヴラスは私が手に取った小型ラバーカップを一瞥すると、恐怖するかのように首を横に振った。
 私が手にしたラバーカップは排水溝を掃除したのか、濡れた埃や人毛の絡みついたものがべったりと纏わりついている。
 そこで、不意にギルド長が不潔を極度に嫌うことを思い出す。
 普段の彼はいつもこのギルド長室を清潔に保つことへ努力を注いでいた。
 この汚れた棒を喉に突っ込まれることなど、私も身の毛がよだつ心地がする。
 ましてや、潔癖症を患う者にとってはとても耐え難いことだろう。
 だが、依然として窒息が続いたままのレヴラスを見る限り、躊躇う時間はほぼ皆無だ。私は意を決して彼の開かれたままの口へラバーカップを押し込んで上下させた。
 レヴラスはラバーカップで口を塞がれながらぼろぼろと涙をこぼすが、そんなことには構っていられない。
 ラバーカップを幾度か上下させて喉から引き抜くと、喉の奥に咀嚼し損ねたもちの欠片が見えた。
 もちを取り出すまであと少しだ。
 私はレヴラスの身体を起こすと、その胸と腹を何度も強く押した。
 彼がもちを吐き出したのはそれから程なくのことだった。
 レヴラスは体液にまみれて血の気を失った顔をしながらも、ぜえぜえと息をしている。
 そして、彼は暫く息を続けていたところでひどく咳き込み、嘔吐を始めた。
 これはまずい。さらに嘔吐があっては嘔吐物を喉に詰まらせてしまう恐れがある。
 私はレヴラスの身体を、嘔吐物を吐き出しやすい姿勢に横たえた。
「…………ひどい」
 嘔吐を終えてしゃくり上げるレヴラスは、ただ呟いた。その目は泣いて赤く充血し、とても虚ろだ。
 その様子から、彼は相当のショックを受けていることが窺えた。
 だが、一先ずギルド長の救助には成功したのだ。この後、彼にひどく恨まれることは避けられないにせよ。
「……ギルド長、本当に申し訳ありません。すぐに癒し手を呼んできます。暫く待っていてください」
 私はレヴラスへ呼びかけると、癒し手のいる部屋へ向かうため立ち上がった。
「……いっそ、ころ……くだ…………」
 その時、レヴラスは何かを私に向けて呟いたが、私にはそれに耳を傾ける余裕はなかった。
 長い廊下を一心不乱に走るうち、首の動脈が暴れ始める。
 読書にかまけて身体を鍛えずにいたせいだろうか。どうしても長い距離を走ると息が切れて仕方ない。
 ギルド長の部屋と癒し手の待機している部屋は長い距離があるが、今はますます距離が長く思えた。
 やっとたどり着いた癒し手の部屋で癒し手へギルド長が食物を喉に詰まらせて窒息したという旨を伝え、彼女と共にギルド長室へ戻った私は愕然とした。
 何故なら、部屋の床は真っ赤に染まり、壁にも赤が飛び散っていたからだ。
 そして、床には私が先程助けたはずの男――レヴラスがうつ伏せに倒れている。
 これはどういうことなのか。
 私は震える足で血の海に沈むギルド長の元へ駆け寄った。
 倒れるレヴラスを抱き起こすと、その手には血まみれの果物ナイフが握られており、喉はその刃で深く抉られて真っ赤な口を開いていた。
 その首に触れて脈を探そうとするが、それは今や無意味だった。
 血を噴き出し尽くした身体は既に鼓動を止めている。そして、動脈から溢れた血は無造作に部屋中を埋め尽くしている。
 レヴラスは私が癒し手を呼んでくるまでの短い時間の間に、果物ナイフで自分の喉を突き刺して死んでいたのである。
 私はレヴラスの死体を床に横たえると、癒し手を尻目にそのままうなだれた。
「これで、彼のもちを吐き出させたのですか……」
 癒し手は、床に転がる唾液まみれのラバーカップを指差しながら尋ねる。
「ええ……ですが、喉を詰めて死ぬのも、喉を切って死ぬのも結果は同じではありませんか」
 癒し手に対し、私は上の空で呟いた。
 ギルド長が潔癖症を患っていたことは以前から知っていたが、その程度までは聞き及んでいないことだった。
 彼にとって、その喉を汚れた物に侵入されることは、例えそれがそうしなければ生死に関わることだったとしても耐え難いことだったのか。それも、自ら命を絶つほどに。
 これでは最初から何も手を下さず窒息死を待つのと結果は変わらない。
 救うための行為が元で自殺などされるくらいなら、いっそ何も手を下さないままの方が良かったのか。
 目の前で命を危険にさらしている人を見て見ぬふりをすることこそ倫理にそぐわないことだが、相手にとって死を選ぶほどに苦痛な方法で命を救っても、その結果として相手を自殺に追いやってしまっては仕様がない。
 ギルド長を救うには、一体どうすれば良かったのだろう。
 まだ体温を残す血まみれのレヴラスを前に、私はただ茫然とすることしかできなかった。
 ――とある国で、ある人が強盗に襲われて身ぐるみを剥がれたうえ、半殺しにされて道端に倒れていた。
 神殿に関わる人たちは怪我人を助けず通り過ぎたが、その国で人々から嫌われ迫害されていた民である一人のサマリア人が怪我人を手当てし、宿屋まで運んで彼の世話をするよう費用まで出した。
 この例えばなしの中で、怪我人の隣人たりうる人物はそのサマリア人であると教典に書かれる救い主は語った。
 一方、私は目の前の隣人を助けることができなかった。
 もちを喉に詰まらせた隣人は死んでしまった。事実はただそれだけだ。
 
 
 ――昔々、とある水と芸術の都の道端で一人の魔術士がもちを喉に詰まらせて倒れていた。
 その魔術士は長く患う憂鬱症から頻繁に死を乞い願う言葉を口にしていたが、この時は救いを求めようとしていた。
 だが、市民たちはそんな彼を「どうせ死にたがりなのだから」と見て見ぬふりをした。
 そんな中、一人の善きエレアが瀕死の魔術士に気付いて彼へと声をかけた。
 声を出せず、喉を押さえて苦しむ魔術士の姿を見たエレアはすぐに彼がもちを喉に詰まらせていることを知り、力を込めて魔術士の背中へと体当たりをした。
 魔術士は何とかもちを吐き出したが、既に体力を消耗しきっていたために体当たりの衝撃に耐え切れず、ミンチになって死んでしまった。
 先程まで魔術士を見て見ぬふりしていた市民たちは魔術士の最期の悲鳴を耳にし、粉々の肉片になった魔術士の血で全身を汚したエレアを目にするやいなや彼を「人殺し」と非難した。
 エレアは「わたしはこの男を救おうとしていた。決して殺そうとは思っていなかった」と人々へ説明したが、彼を信じる者は誰もいなかった。
「お前は男を傷付けて殺す可能性を分かっていて、男へ体当たりをしたのだろう。それを人殺しだと言えないのなら何だというのか」
 血まみれのエレアを、市民たちはそう非難した。
 そうして、魔術士を救おうとしたはずの善きエレアは「人殺しの悪きエレア」として罪を問われることとなり、断頭台で首をはねられて死んだ。
 
 *おしまい*
 

 
 (あとがきのようなもの)
 善きサマリア人の例えばなしというのは新約聖書のルカによる福音書に存在する話です。詳しくは調べてください。
 ちなみに話の中に出てくる「サマリア人」というのはこの例えばなしが書かれた当時、ユダヤ人たちに迫害されている民族だったようです。
 「善きサマリア人の法」という法律もこの例えばなし由来のものだそう。
 しかしノースティリスじゃ善きサマリア人の法なんて存在しないでしょうし、エレアだと問答無用で処刑されるような理不尽な目に遭いそうです…。
  

水と芸術の街に赤い花を(後半)

 ※この文章はこれの続きです。
 


 いつの日だったか。私は台所で食事の準備をしていた。
 確か、その時の私は卵料理を作ろうとしていたのだろう。丁度手のひらに収まる大きさの卵を手に取っていたことを覚えている。
 卵を割ろうとしたその時、握った卵が手をすり抜け、台の縁を目がけて転がっていったのもまた記憶に残っていることだ。
 その卵がどうなったかなど、わざわざ説明する必要もない。
 何故なのか。その時の私の目に、卵は奇妙なほどゆっくりと落ちていくように映った。
 だが、目の前で落下していくものが遅く動いているように見えるか、それを救うべく動き出せるかということはまた別の話らしい。
 私は、一歩も動けないままその一部始終を見届けることしかできなかった。
 鈍い音を立てて潰れた卵は、高所から転落して地面に叩きつけられた者が辿る末路を表しているかのようだ。
 卵も人も生命をもつものだという点は同じであるが、水風船のようなものだという点もまた同じである。
 そして、今の私はあの日の台所でそうしていたように地面に座り込んで頭を垂れていた。
 その視線の先には潰れた卵の中身でなく、真っ赤な水溜まりが広がっている。
 その赤い海の中、女が倒れている。
 襟が首に密着するえんじ色のドレス。ドレスと同じ色の上品な装飾が施された、腰を細く見せるコルセット。
 女には顔がない。まるで綺麗に切り取られてしまったかのように下顎から上がないのだ。
 顎から上がない頭には、それでもまだ葡萄のような色を帯びた長い髪が植わっていて、その手足は関節が本来曲がることのない方向へ折れ曲がっている。
 目の前の残骸は妹の人形だ。人形は高所から身を投げて地面に叩きつけられ、壊れてしまった。
 台から転げ落ちた卵は透明な卵白を床にぶち撒きながら潰れた。妹もまた赤い汁を地面にぶち撒きながら卵のように潰れた。
 私はまたしても妹のことを守れなかったのである。
 私は、この壊れた妹が作りものであることを知っている。何度も落ちる妹を受けとめて救おうとする私の試みは不毛だろう。
 何故なら、妹は落下を始める以前からもう既に生命を失った存在であるからだ。
 今や妹は生命をもたない空っぽの人形に他ならない。地面を埋め尽くす血もまた偽物だ。
 その赤紫色をした「血」の匂いは、私へ酔いと狂気をもたらした。
 ……そうだ。あの日、床の上で潰れた卵を始末したのと同じように今すぐこの人形の頭を片付けなければ。壊れた頭はもういらないのだから。
 それから、この葡萄酒のような色の髪が植わった新たな頭を作ろう。
 私は今まで何度そうしたのか、頭を失った妹を掻き抱いて血の海を歩き始めた。
 だが、私は妹の顔を思い出すことなどできなくなっていた。
 それ故に、全ての人形は顔を失った不完全な姿にしかならなかったのだ。
 
 
 どこかから声が聞こえてくる。
「ねえ。ママ、あの黒い服の男の人はどうしたのかなあ。さっきからこっちを見ている」
「やだっ。きっと頭がおかしい可哀相な人なのよ、目を合わせちゃだめ。早く行きましょう」
「ママ、どうしてあの人のことを見ちゃだめなの?」
「とにかくだめなものはだめなの。あなたはあんな人に近付いちゃだめよ。わかった?」
 これはいつの日かの昼下がりに宛てもなく公園をうろついていた時、耳にした母娘の会話だったはずだ。
 母親は上品な出で立ちの美しい婦人で、上質なワンピースを着せられた幼い娘は愛らしい笑顔を見せていた。
 確か、あの時の私は婦人に妹の面影を見出していたのではないか。
 妹が生きていれば、あんな風に子をもつ母親になっていただろうか、それとも絵描きとして細々と生活していただろうか等と他愛もないことを考えていたはずだ。
 そんなことはつゆ知らず、私の視線に気づいた母親はその場から逃げるように娘の手を引いて公園を立ち去っていったのだった。
 私はあの親子の会話を聞いて何を感じていただろう。怒りを感じただろうか。それとも自分が惨めで悲しく思っただろうか。
 あるいは、骸と化そうとしている自己への憐憫の情を抱いただろうか。それは今となっては分からない。
 ただ、他者の目に映る自分の姿が世間でいう好ましい人間からは程遠い存在であるとその親子によって知らしめられたのは確かだろう。
 妹を失ってからの私は長い年月をかけて徐々に魔術士ギルド内での業務に対する情熱を失っていった。それはちょうど燃料を燃やし尽くした炎が段々と火の勢いを失くしていくかのようだっただろう。
 骨を砕いた末にギルド内のプロフェッサーという地位を手に入れたというのに、教え子の指導へ熱を注ぐことができず、あろうことか教壇に立つ気力がないという理由で講義をすっぽかすことさえあった。
 その上、講義中となれば教え子がいくら努力していようと結果が伴っていなければ全く評価しない。教え子の気持ちを慮ることもせず、優しい言葉の一つもかけない。
 いつの間にか、私はそんな最低の教官となり果ててしまったのだ。
 私がギルド内の業務に対して満足にやる気を出せなくなったのは、自分の地位が、妹のように努力が報われず夢破れた多くの人間の犠牲があってこそ成り立っているものであると気付いてしまったことも無関係ではないのかもしれない。
 意識的であれ、無意識的であれ、ギルド内で私は多くの種を砕いてきた。種を砕かれた者たちがどれだけの涙を流していたかなんて想像がつかない。
 そして、指導者としての私は教え子たちのもつ才能や能力というものがそれぞればらつくものであり、その中にはどうしても「発芽する見込みがなく、早く砕いてやる方が幸せであろう種」も存在するのだと認めざるを得なかった。
 内心では種が発芽しても育つ見込みがないと見切りをつけた人間を前に「努力をすれば報われる」だなんてどの面下げて言えようか。
 本当に出来た者であれば、それらのことを理解した上で種を砕かれた者たちの血や涙を背負いながらでも地位あるものとして全力を注ぐものだ。
 両手にはめられた罪悪感という手枷を理由に腐れているのはひとえに私の弱さでしかないだろう。
 いずれにせよ、講義室に「休講」という貼り紙だけを残して何も言わずギルドを飛び出してしまうくせ、いざ教え子たちを指導する場になれば馬鹿に結果主義へ傾倒し、教え子たちの感情を冷たい言葉で踏みにじるような人間が誰かに好かれ、愛されるなど夢のまた夢でしかない。
 そんな人間を愛することなど、私自身も願い下げだ。
 ――あいつは鬼教官だ。あいつの言葉を真面目に信じていれば才能の芽を摘まれて心折れてしまうぞ。
 教え子たちはそんな風に私を揶揄し、講義中には私への当てつけのように私語をしたり居眠りをしたりした。
 ――あいつの指導は無駄に厳しいだけで、若手の人間を積極的に育てようという努力が見えない。まるで発芽すらしていない段階にある才能の種を砕いているようだ。
 同僚たちはそんな風に私を評価しては腐していた。
 ――まるで油の切れた機械のようだ。ただ種を砕くだけで何の価値もない。
 私は頻繁にこのような呪詛を自分自身に向けて吐いていた。
 自分自身へ油を注ぐことを諦めて燃え尽きようとする私へ新たな油を注いでくれる者など誰もいなかった。
 妹を救えなかったことに対する後悔。情熱を失ったまま惰性でギルドの重役を担っていることへの罪悪感。余りに不甲斐ない自分自身へ向かっていく嫌悪と憎悪――――。
 これらの感情を忘れたいと望んだ私が縋ろうとしたのはアルコールであった。
 元々酒など好きではなかったが、苦悩を忘れて昔のように笑えるのなら何でもいいという思いが私を酒に溺れさせたのだろうか。
 だが、酒に酔った私は笑うことなどできず、ただ泣くばかりだった。
 それも、涙を捨てて嫌な感情を晴らすような気持ちのよい泣き方ではなく、それどころか泣けば泣くほど涙の泥沼にはまって動けなくなっていくような苦痛に満ちていた。
 どうやら、アルコールには人の理性のたがを外して感情の制御を困難にさせる効果があるらしい。
 常日頃から自分を苛んでいた感情は制御を失った分、先鋭化して私をますます苛んでいたのである。
 一般的に、酒に酔って泣く人間は嫌われる。ましてや、中年に差し掛かろうという男がなりふり構わず泣く姿などますます見苦しいに違いない。
 酒場のテーブルにしがみ付いて何時間も泣く私を、酒場の主人や他の客は冷ややかな目で見ていた。
 だが、それだけならまだ良い方だろう。
 その後日、私が酒場で見せた醜態がギルドの生徒たちや同僚の間で噂になっていることを知った時には目の前が真っ暗になる心地だった。
 ギルド員たちは直接私へ何かを言ってくるわけでなかったが、彼らと私の間に「醜く無様な私」という影が立ち上がり、消し去れないという事実が耐えられなかった。
 それ以来、私がその酒場に立ち寄ることはなかった。
 その後の私は店で買った酒を自宅で飲むようになり、薄暗い部屋で一人の飲酒を繰り返す度ますます虚しさだけが募った。
 誰の目もない場所で酒を飲み始めると、私は次第にその酔い方を狂わせていった。
 酒を飲み出せば腹痛に見舞われるほどの量を飲んでは吐くことが増え、翌日に記憶を失うことも増えていた。
 ある時は正気を失っているうちに酒の空き瓶を叩き割っていたのか、その破片で身体中を切って血だらけにしていたこともある。瓶の破片は口の中からも見つかり、うがいをすれば舌の激痛と共に赤い水を吐いた。
 酒場には酒に酔いながら陽気に笑ったり歌ったりする人間がとても多い。猫ですら酔えば陽気に歌う世界だ。
 だが、私はいくら飲もうと彼らのようにはなれなかった。
 酒場で飲もうと、自宅で一人飲もうと、どの道私は孤独だったのだ。
 そもそも、欲しくもない多くの量を自分に無理強いして飲むのだから、心地よい酔い方などできるわけがないだろう。この無理強いは自分への暴力に他ならない。
 酒の力を借りても陽気に笑うことができず、最終的には酒を自虐の手段に使用してしまう自分を前にして、私は如何に自分自身の内面が醜く荒んでいるかを噛み締めることとなった。
 巷ではアルコールを「気狂い水」と呼ぶ者もいる。
 私は甘い水を摂取することで狂うことに成功しようと、全てを忘れるということについては失敗しかできなかった。
 アルコールは私から本来のいっそう醜い姿を引きずり出して苦しめはしても、決して私を救いはしてくれなかったのである。
 
 
 私は再び白いシーツの上で目を覚ました。
 そこは、ギルド内にある自分の研究室だった。
 私が寝ていたのは仮眠用ベッドだ。その横にあるテーブルの上には中身が空になった葡萄酒の瓶が置いてある。
 どうやら私は葡萄酒を飲みながら眠っていたらしい。しかし、一度に瓶一本というのはいくらなんでも飲み過ぎだ。
 そうだ、今は一体何時なのだろうか。今日は昼から講義があったのではないか。急いで用意をしなければいけない。
 瓶の傍に置かれた時計に目をやると、針は止まっていて動かなくなっていた。
 こんな時に限って時計が動かなくなるなんて運が悪い。これでは時間が分からないではないか。
 いっそ再び布団にもぐって寝てしまおうか、今日も休講にしてしまおうかという考えが頭をよぎる。
 いや、私は一体何を考えているのだ。そんなことを許されるわけがないだろう。
 私は自分の頬を思いきり平手打ちすると、首を横に振った。
 スリッパを履いて急ぎ足でギルド員共用の洗面所へと向かう。
 私が最初の異変に気付いたのは歯を磨いて顔を洗っている時のことだった。
 鏡に目をやると、室内の鏡は全て粉々に砕けてしまっていた。
 いつの間に鏡は壊れてしまったのか。まず、これだけの鏡が壊れていたのなら真っ先に気付くはずだ。
 まさか、深酒をして眠り続けたせいで頭が馬鹿になっているのだろうか。
 いずれにせよ、洗面所の鏡が使えない以上は仕様がない。すぐ横のトイレに行こう。
 そうして男子トイレに入ると、そこの洗面台の鏡もまた壊れていた。
 一体どうしてトイレも洗面所も鏡が割られているのか。ふざけたギルド員のいたずらだろうか。
 自室にも手鏡の一つくらいは置いてあったはずだ。仕方ないのでそちらで身だしなみを整えるしかない。
 再び自室に戻った私は机の上で積み重なる書類や書物の中から手鏡を探し始めた。
 程なくして、手鏡は書類の間から見つかった。
 やれやれ、そろそろ机の上も整理しなくてはいけない。あまりにも散らかりすぎだ。
 そんなことを考えながら手鏡へ目をやると、私は愕然とした。
 何故なら、手鏡までもが粉々に砕けていたからだ。
 砕けた鏡に、私の顔が映ることはない。
 これは一体どうなっているのか。まるで、何かが私に対して「自分の顔を見るな」と言っているみたいではないか。
 それにしても、今日のギルド内はやけに静かだ。普段なら人の一人や二人くらいなら必ずと言っていいほどすれ違うはずなのだが。
 再び廊下に出ると、辺りの空気から嫌な魔力の波を感じた。
 これは一体どうしたことか。何が何だかよく分からないが何かが不安だ。
 魔力の波自体が不安感を煽るものであったが、人が誰もいないこともまた不安の後を押していた。
 どうして今日のギルドには人が全くいないのか。
 せめて、ギルド長ならいるはずだろう。嫌味を言われるのも癪だが、ギルド内で立て続けに奇妙なことが起きていることを知らせるくらいはした方がいい。
 ギルド長の部屋の前に辿り着くと、私はその扉をノックした。
 だが、返事はなかった。
 ギルド長の不在を確信した途端、妙な焦燥感が私を襲った。
 何故ギルド長はこんな時に不在なのか。いつもならこんなことで腹を立てることなどないが、今は腹立たしくて仕方ない。
 本来はそうしてはいけないはずだったが、私は無断でギルド長の部屋へ足を踏み入れた。
 部屋に入ると、案の定そこには誰もいなかった。
 ――――畜生。何故なのか分からないが苛々して仕方ない。
 私は思わず眉間にしわを寄せ、舌打ちをした。
 部屋の隅にはギルド長の趣味で植えられた植物の鉢植えが並んでいる。
 その時、私は鉢植えの中にネリネとよく似た形の真っ赤な花が植わっているのを目にした。
 この花はどこかで見覚えがある。だが、どこで見たのだろうか。
 いや、今はギルド長の趣味で植えてある花に構っている場合ではないのだ。それより、ギルド長は一体どこにいるのか。
 ふと部屋の中央に目をやると、黒い威圧感のある椅子の上で光るものが目に留まった。
 椅子の傍に駆け寄り、それを手に取る。
 それは、ギルド長が肌身離さず身に着けていた片眼鏡だった。
 私は、ギルド長がこの片眼鏡をいかにも丁寧に磨いているのをよく目にしていた。
 そして、この片眼鏡には不思議な魔力が込められているなどという噂も耳にしたことがある。
 ギルド長は、この洒落た装飾の片眼鏡に一体どんな魔力を込めているというのか。
 しかし、この眼鏡に指紋の一つでも付ければギルド長は激怒することだろう。あの人は私物を他人に触られることを毛嫌いする性格なのだから。
 これ以上眼鏡を触るのはやめた方がいい。
 私は片眼鏡を元の場所へ置く前に、何気なくその円いレンズを覗き込んだ。
 その時だった。目を覚ましてから私が初めて自分の顔を見たのは。
 ギルド長の片眼鏡は、彼自身が見た事実を全て映し出していた――――――。
 
 
「あなたはいつもそうやって、自己満足を繰り返すのですか。いつまでもそこから動かないつもりなのですか」
 正面から声が聞こえてくる。それは責め立てるかのような声だ。
 重たい瞼を開くと、そこは薬草の匂いと古びた書物の甘い匂いが入り混じるギルドの一室だった。
 ここは、先程私が足を踏み入れた部屋、ギルド長の部屋だ。
 目の前に、声の主である長い髪の痩せた男が黒い威圧感のある椅子に座っている。
 「レヴラス」という名のその男は首から下げたギルド長の証である首飾りの紋章を私の前でちらつかせる。
 それは彼の癖だった。部下がギルド長室にやって来る度、これ見よがしに首飾りの紋章を布で拭き始めるのもまた癖だったと聞く。
 私はこの片眼鏡を着けた男と顔を合わせる度にいつも緊張を覚えた。私は彼のことが苦手だった。
「レントン。相変わらず暑苦しい格好ですね。寒いのでしょうか」
 レヴラスは椅子から立ち上がると、私を舐め回すように見ながら首を傾げた。
 私は自分の両腕へと視線を落とす。
 その黒いローブの袖は指先まで隠せそうなほどに長い。それに加え、私はローブの下に長い袖のシャツを着ていた。まるで、肌を徹底的に隠すかのように。
 言うまでもなく、首に巻いた大判のスカーフもまた首を隠すためのものだ。
 男はほぼ黒に近い灰褐色の髪をかき上げ、ため息交じりに私の右手を取った。
「まるで徹底的に腕や首を隠そうと努力しているかのようです。肌を見せられない深い理由でもあるのでしょうか」
 手袋越しに、男の指が私のシャツの袖口とスカーフへかけられる。
 私はそれに心底からの不快感を覚えるが、どうすることもできず目を逸らした。
 この男はいつもそうだ。まるで他人の感情を慮ることを知らないかのように、あるいは知っておいて敢えて無視するかのように、相手にとって触れられたくない領域へずかずかと入り込むような態度を取ってくる。
 彼が常日頃からギルド長の紋章を部下の前で見せつけるような行動を取るのもまた、部下たちが潜在的に彼へ抱いているであろう劣等感や嫉妬といった触れられたくないはずの感情を逆撫でする意図があるのだろうか。
「人の話を聞く時はきちんと相手の目を見てください。幼子の頃からそう教わったでしょうに」
 ギルド長が私の顔を覗き込む。
 その円い片眼鏡のレンズに映る男のスカーフと袖は捲られ、露わになった右腕と首には赤紫色に腫れ上がる無数の線が蠢いていた。
 これは決して白日のもとに晒してはいけないものだったはずだ。だからこそ、私は徹底してそれを隠そうと努力していたのだ。
 露わにされたものを認めた私の顔は血の気を失い、ひどく引き攣っている。
 その顔はまるで笑っているようにも見えるが、泣き出しそうでもあった。
「随分動揺するのですね。あなたは全てを隠しきったつもりでいたようですが、私にはお見通しでしたよ。自分を過信することは時に命取りにもなるものです」
 片眼鏡の男が全くぶれることがないレンズ越しに私の目を見つめる。その一方、円の中に映る私の瞳孔はがたがたと揺らいでいる。
「何故だ……一体何故なんだ。お願いだから見ないでくれ……」
 額や背中に汗が滲み始める。その声もまた瞳孔と同じく情けないほどに揺らいでいた。
 レヴラスはそんな私へ追い打ちをかけるように笑った。
「『見るな』ですか……あなたは随分嘘つきなのですね。そこまで徹底して隠していれば却ってそこに疾しいものの存在が立ち上がってくるものです。それに、私が衣服を剥ごうとした時にあなたは抵抗しませんでした。私からすればまるで『見てくれ』と言っているように見えますが。違いますか?」
「違う。それは違う! 私はこんな醜いものを他人に見てほしいだなんて思ったことはない…………」
 私の声は震え、今にも泣き出しそうだ。
 何度も首を横に振る拍子に、耳に引っ掛けていた前髪が落ちて目の上に暗く覆いかぶさっていく。
 私は前髪をかき上げて再びレヴラスに視線をやった。
 彼はわざとらしいほどに私と目を合わせながら、にやにやと笑う。
「そうですか。見てほしくなかったのですね。仮にあなたが抵抗したとしても、それはそれで疾しいものの存在は確かなものになったでしょう。服を全部脱がせて全身を見るようなことをしなくても、右腕と首だけを見ればもう十分です。おそらく左も右と同じくらい惨い状態なのでしょう。首がこの有様なら髪も満足に切れませんし、スカーフも手離せないでしょうね」
 レヴラスは私の左手のローブとシャツの袖を捲り上げ、その下に巻かれた包帯を抉るように撫で回す。
 男の指が布越しに左腕を撫でるたび神経が疼くような痛みが走り、涙が滲んだ。
「……これ以上私に触らないでほしい。いくらギルド長とはいえ気分が悪くて仕方ないんだ。やめてくれ……」
 私は吐き気を堪えながら懇願する。今や汗は太股にまで滲み、さらなる不快感を生んでいた。
 そんな私を前に、ギルド長はけらけらと笑い始めた。
「気分が悪いですって? どの口が言うのですか。赤い蛆虫に集られたような身体で平然と教壇に立つような人間に言われたくありませんね。痛いのでしょう?素直にそういえばどうですか。ああ、このシャツも何度か血で汚れたのでしょうね。生地がやや毛羽立っている辺り、あなたは血を落とそうと必死で擦ったのでしょうが、虚しい努力だったと。こんな風に汚すのですから、暗い色の衣服しか着られませんよね。ましてや白なんて……」
 ――黙れ。お願いだからもう黙ってくれ。
 私は心の内で叫んだ。
 ことごとく、この男の物言いは嫌味ったらしい。それに加えて馬鹿に丁寧な喋り方をするのでますます鼻につくのだろう。
 私はもううんざりしていたが、男はまだまだ喋り続ける。
「それにしても、自分の身体を『こんなもの』扱いするとは何事でしょうか。前から薄々と感付いていましたが、こんな『儀式』にあなたはまた逃げ込んでいたのですか。こんなことを繰り返しても甲斐がないことが分からないほど、あなたは頭が悪くないはずです。もし、こんな風に肌を彫るのが亡き者への弔いのつもりだとでも言うのなら愚かでしかないと私は思います」
 ――私は分かっている。分かり切っている。自分の繰り返している「儀式」が所詮は代償行為であり、何も生まないことを。
 だが、それ以外にどうすることもできないのだ。ギルド長の言う通り私はそこから「動けなく」なっている。
 私は何も言えず、首を横に振った。
「行為の理由は聞く必要もありませんね。あなたがそこまで妹のことを後悔するのは、ひとえにこの世とあの世の間に横たわる境界が行き来不可能なものだからでしょうか。もし、あの世の者をこの世へ引きずり戻す手段があったとすれば、あなたの悩みは晴れるのでしょうか」
 不意に、レヴラスは尋ねた。
「それは一体どういうことなんだ……? まさか、あなたは……」
 私は目を見開き、その片眼鏡のレンズを見つめた。
「あなたも『死霊術』というものをご存じのはずです。何の根拠もなく死霊術を禁術だと糾弾する者が大半ですが、私は死霊術をこの世とあの世の橋渡しとして可能性に満ちた学問だと考えています。この世とあの世の境界が悲しみや絶望を生むのなら、そんなものは壊してしまえばいいのです。もし死霊術によってあなたの妹を蘇生させることに成功したとすれば、私は死霊術の分野に大きく貢献することになりますし、あなたはこの世での妹との生活をやり直す機会を得ることになります。これほど素晴らしいことがありましょうか」
 レヴラスは何の感情もこもらない目で淡々と喋り続けるが、その内容にはとても納得がいかなかった。
「……私はそんなこと、認められない。此岸と彼岸の境界線を侵すことなど許されるわけがない。大体、あなたは知っているはずだ。死霊術による蘇生に失敗した死者たちがどのような末路を辿るか……」
 私は思わず、声を上ずらせた。
 レヴラスの片眼鏡が鋭い光を放ち、その向こうで光る緑色の目が私を突き刺すように見つめる。
 二重に重なるその円は相変わらずぶれることがない。
「あなたの言う通り、確かに死者の蘇生に失敗した場合は不完全な姿のまま蘇生してしまったり、自我を失ったまま生きる屍と化してしまったり……ひどい場合は異形と化してしまう例もあるといいます。ですが、そうした失敗があってこそあらゆる技術は発展していくものではありませんか。死霊術に限らず、ありとあらゆる技術は無数の失敗や犠牲のもとに成り立っているものです。私は、哀れなあなたを助けたいと思って申し出ているのですよ?」
「確かにそれは一理ある。だからといって、私はあなたにグレース……私の妹を捧げる気はない。捧げられない」
 ぐらつく目で首を横に振り続ける私を一瞥すると、レヴラスは暫く考え込むかのように指を唇の下にやり、不意に口元を歪ませた。
「……そうですか。それがあなたの答えですか。とても残念です。いいでしょう。あなたが拒絶しても、他の死者を献体にすればいいだけなのですから。他に良い献体が見つかればあなたは必要ないのです。それにしても……自分の妹の死だけを美化して、いつまでも自分だけの時間に逃げ込むのがあなたの愛ですか。あなたは本当に自分勝手で、そしてさみしい男なのですね。本当に、本当に哀れです」
 その言葉は、私を深く抉る。目の前の円に映る自分がぐらぐらと揺らいで大きく歪む。
「……黙れ。あなたは人の感情を一体何だと思っている…………そんな風に敢えて人の心を抉る言葉を口にして煽るのが楽しいか。あなたに私の何が解る。いや、解られて堪るものか」
 声を荒げると共に、鬱積し続けていた感情が両目から噴き出し始める。
 取り乱す私を目にしても、レヴラスは相変わらず口元に笑みを浮かべたままであった。
「ええ、そうですね。私にはあなたの感情なんて理解できません。そもそも理解などしたくありませんし、する気もありません。私からすればあなたは『病気』も同然です。あなたは分かっているはずです。その身体を醜いと言うのならそんなことをやめればいいだけだと。それでもその愚かな儀式にしがみ付くのは、儀式を『止めない』のではなく『止めたくても止められない』のでしょう。そんなあなたをとても厄介な病気であると言えないのなら、一体何であると言えばいいのでしょうね?」
 レヴラスは再び椅子に腰を下ろし、くすくすと笑い続ける。
 私が何年にもわたって積み重ねてきた、亡き妹に対する思いは愛ですらない。ただ醜い形に膨れ上がった自己愛でしかない。
 歪んだ自己愛によって失われた精神の均衡を何とか取り戻そうと、私はギルド長の言う「愚かな儀式」に頼っているにすぎない。だからこそ、私は苦悩しているが、それさえも醜い自己愛の産物にすぎない。
「確か、あなたの妹は気が触れていたのでしたね。絵の才能に恵まれず周囲を恨んで、周囲の人間に忌み嫌われて……お労しい最期だったと聞きます。やはり、あなたもそんな妹のことが疎ましかったのでしょう? 本心ではあなたは妹が死んで清々したのではないでしょうか。あなたの妹への愛なんてその程度だったのですよ。実の兄にまで疎まれるような娘を蘇生しても、ただ可哀相なだけです。誰からも理解されず、全てを恨みながら死んでいって……あの娘は一体何のために生まれてきたのでしょうね?」
 レヴラスの言葉はさらに私を打ちのめす。彼が触れたのは、私にとって自分の傷よりずっと触れられたくない領域だった。
 そのうち、私はこれまで自分を押しとどめていた最後の杭が外れると共に自身の内と外がどろどろとした液体で満ち溢れていくような心地がした。
 一度湧き上がった塩水は溢れるばかりで仕様がない。私はただ、歯が砕けるのではないかというほどに歯ぎしりをすることしかできなかった。
 そんな私へ、レヴラスはため息をつきながら尋ねた。
「……随分と私を睨むのですね。反論の仕様がなくて悔しいのですか? それこそ血の涙を流すほどに……」
 と。
 レヴラスの片眼鏡に映るのは、文字通り「血涙」を流す私の顔だった。
 視線を落とすと、私の足元ではどす黒い血の海が蛆のように蠢いている。目からだけでなく両手からも無数の赤い蟲が這い出ては落ちていく。
 どうやら、私は幻覚を見るほどに気が触れてしまったらしい。
 ギルド長の言う通り、私の抱え込んだ感情は「病気」の領域だろう。あるいは、敢えて別の言葉を使うとすれば「呪い」だ。
 その時だった。私が一つの結論に辿り着いたのは。
 私は涙を拭い、首を横に振った。
「違う。呪わしいんだ……自分自身を含めた何もかもが呪わしくて仕方ない。あなたは私をこんな風に煽れば首を縦に振ると思ったのだろうな。あなたがあくまで死霊術の研究を止める気がないことは分かった。おかげで一つの答えに辿り着いたよ」
「何ですか?負け惜しみでも言うつもりでしょうか。それなら聞きたくありませんね」
 レヴラスは私を一瞥すると、わざとらしく欠伸をして見せた。
 それがおかしく、私は思わず引き攣った笑みを浮かべる。
「先程、あなたは『他の死者を献体にすればいい』と言ったな。それなら、私を犠牲にすればいい。それで、何の価値ももたない私があなたへ貢献できるのなら、幸いなことこの上ない」
 喉から絞り出されたその声は、私自身も驚くほど落ち着いていた。
 そんな私の言葉に、レヴラスは目を見開いた。
 それは、これまでぶれることのなかった彼の片眼鏡の向こうが初めて僅かに揺らぐ瞬間でもあった。
「……気でも狂いましたか。自分が何を言っているのか分かっているのですか?」
「勿論だ。どうせ生きていても持て余し続けるだけの身体なんだ。切り刻むなり、焼くなり、薬漬けにするなり、あなたの好きなようにすればいい。不必要になったらうち捨てても構わない。私は自ら命を絶つ。あなたは自ら献体と化した私の死を賛美する。それが私とあなたの等価交換だ。その代わり、その汚い手で私の妹に触るな。妹には指一本触れさせない」
 この時、私は敢えて「汚い」という言葉を口にした。
 それが、レヴラスの毛嫌いする言葉だったからだ。
「……今、あなたは何と言いましたか、私の手が『汚い』ですって? もう一度言ってみなさい…………言ってみなさいと言っているのですよ」
 レヴラスはわなわなと身体を震わせ、怒りを露わにし始める。
 私は再び場違いな笑みを浮かべ、男の手を指差しながら呟いた。
「汚い手だ」
 と。
 その時、小気味のいい音と共に頬が鋭く痛んだ。
 レヴラスが私の頬を思いきりぶったのだ。
「汚い? いくら切っても伸びる爪を丹念に切って、傷がつかないよう手入れをしたこの手が汚いですって? …………クソが。お前は人を怒らせることを言って楽しいか? 生きたまま実験材料にしてやろうか? 麻酔なしで切り開いた尻の穴に塩を詰めてやろうか? このカタツムリ野郎……」
 レヴラスはこれまでの慇懃な言葉遣いを崩し、憎悪に満ちた目で私の胸倉を掴んだ。
「レヴラス、あなたにも言われたくない言葉があるのだと分かって安心したよ。最後に忠告するとすれば、あなたの言葉に最後の砦を壊される者もいるのだと言うに留めておこう。せいぜい人の心を無闇に弄ぶのは止めることだ。私などの言葉であなたが変わるなど無理だろうがな」
 男の豹変があまりに面白おかしく、再び涙がこぼれた。
「いけません。うっかり下品な言葉を使ってしまいましたね……おい、一体何を笑っているんだ? そんなにおかしいか? そんなに死にたいか?」
 レヴラスの手が私の首にかけられ、喉をぎりぎりと締め上げる。
 彼の片眼鏡には、半開きの口から涎をこぼす私の顔が映っていた。
 どれだけの間首を絞められていたのか。不意に喉を締め上げる手が緩められる。
「…………みっともない顔ですね。本当に殺すと思いましたか? この部屋で糞尿を漏らされたくありませんからね。それに、自分から死にたがっているような人間を殺しても意味はありません」
 私はくらくらする頭を振り、レヴラスの目を見据えた。
「……いいでしょう、もう勝手にしてください。死にたければ死ねばいいのです。あなたには生きている価値もありません。もう死んでも構いません。死んでください」
 レヴラスは私から視線を逸らし、吐き捨てるように呟いた。
 ――――生きている価値がない。もう死んでも構わない。
 私の耳に入ってきた言葉はただそれだけだった。
 やっぱり、私はそうだったのだ。
「ふふ、そうか。あなたから直々に死ねと言われたならそれに従おう。私の申し出に同意してくれて嬉しいよ。では、これでお別れだ。親愛なる、呪われたギルド長」
 私はレヴラスを一瞥すると、部屋を後にした。
 その時の私は笑ってこそいたが、両目からは涙が止めどなくこぼれ落ち続けていた。
 
 
 私はギルド長の片眼鏡を椅子の上に置くと、床にへたり込んだ。
 骨ばった右手を左胸に当てる。その胸には鼓動がない。
 そうか、そういうことだったのだ。
 あの口論があった後のことだろう。私が死んだのは。
 私は自分がどんな手段をもって死んだのか全く覚えていない。
 レヴラスも、私が死ぬ瞬間を見ていないのだろう。この片眼鏡はその点については何も教えてくれなかったのだから。
 今、黒い椅子の上に置かれた眼鏡に映る私の顔は血まみれの包帯でぐるぐる巻きにされている。
 私は包帯に手をかけ、ゆっくりと解き始めた。
 一体どれだけの長さなのだろうか。包帯は一向に解き終わる気配がない。
 私はこんなにも自分の顔を見たくなかったのだろうか。
 やっと全ての包帯を解き終わった時には、足元に汚れた包帯の山が出来上がっていた。
 ――たかが頭を一つ覆うだけでこんな量の包帯が必要になるとは思えない。これではまるで、頭を包帯で覆うというよりは包帯で頭の形を作っていたかのようだ。
 私は震えを堪え、恐る恐る片眼鏡のレンズに目をやる。
 その時、私は久しぶりに見る自分の顔を前に驚かずにはいられなかった。
 私の顔は、下顎から上が失われていた。砕けた頭蓋骨からは眼球も脳髄も全てこぼれ落ちてしまったらしい。
 私の頭に残るのは、血の混じる唾液に覆われてグロテスクに光る舌と数本の歯、それから、後頭部に残る長い髪だけだった。
 それが、私の本当の姿だった。
 ギルド長の片眼鏡が最後に教えてくれたのは、私が自ら頭を砕いて死んだことだった。
 
 
 空は相変わらず一面青い。
 そして、街はたくさんの人が行き交っている。
 それはいつもと変わらない風景だった。いつもと変わらないはずだ。ただ、人々が誰一人として顔をもたないこと、影をもたないことを除いては。
 そんな街中を、私はただ一人足を引きずりながら歩いた。
 どこに行っても顔のない人間ばかりだ。この街に顔のある人間はいない。
 本来両目があるべき場所からも、喉の奥からも、段々と熱いものが込み上げる。
 私はそれを押しとどめることができず、地面へと吐き出した。
 びちゃびちゃと音を立てて落ちる吐瀉物は、まるで赤いベリージャムのようだ。
 先程も同じ色の嘔吐をしたばかりだというのに。これで一体何度目なのか。
 嘔吐が終わると、私は再び歩き出した。
 歩く度、私は地面に赤い花を咲かせる。顔のない人たちはそんな私を褒め称えるかのように笑う。
 今や、私は壊れた頭から止めどなく血を吐き続けているというのに全く痛みを感じない。
 私はもう既に目玉を失っているはずだというのに、視力を失うどころか鮮明すぎるほどにこの世界を視ることができる。
 私はその理由を今まで理解することがなかった。少し考えればすぐ解ることなのに。
 おそらく、私は認めたくなかったのだ。自分が既に「死者」となっていることを。
 私は忘れたかったのだ。自ら死を選んだことを。
 後ろを見渡すと、街は文字通り「赤い花」で埋め尽くされていた。
 その花は血飛沫のように広がる花弁と花糸をもち、花のついた茎だけが地面から伸びている。
 マンジュシャゲ――そう呼ばれるこの花は「悲しい思い出」という意味をもち、その他には「再会」や「諦め」などという言葉も背負わされている。
 そうだ。私の暮らし続けた「水と芸術の街」という異名をもつ街は妹を失った私にとって悲しい思い出ばかりで構成された場所でしかなかった。
 あの男――レヴラスは私へ「死霊術」という名の、此岸で妹との再会を果たすための道しるべを指し示した。
 それが私を彼岸へ導くことになってしまったなんて何とも皮肉な話だ。
 そもそも、私は此岸の存在と彼岸の存在が入り混じる世界を認められない。もっと言えば、此岸の存在が彼岸の存在を引きずり下ろす行為を認められないのだ。
 此岸と彼岸は境界を決められていなければならない。此岸の存在と彼岸の存在が入り混じることなどあってはならないはずだ。マンジュシャゲの花が、決して葉と共に咲かないように。
 だからこそ、私は生きて妹と再会したいという願いを諦めていたし、かけがえのない存在の喪失を悲しんだ。
 そして、私は最後まで心に開いた穴と向き合う方法が分からなかった。
 こんな私の生き方は決して正しかっただなんて言えない。
 何にせよ、此岸の人間ですらなくなった私は魂を救われることもなく、花たちと共に尽きる運命なのだろう。
 それでいい。それでいいのだ。
 例え幻だったとしても、私は最期に妹と言葉を交わすことができたのだから、これ以上求めることなんて何もない。
 この魂が擦り切れるその時まで、私は無意味に青い空を仰ぎながらこの街を赤く染めよう。
 覚悟と共に前を見据えると、花に埋め尽くされた地と虚ろな青空の間で、地平線が赤と青のそれぞれを色鮮やかに引き立てていた。

 *おしまい*
 



HOME | 次のページ


プロフィール

HN:
えりみそ
性別:
非公開

P R


忍者ブログ [PR]
template by repe