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資源ゴミ置き場

あまり健全ではない文章を置いていく場所だと思います。

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水葬(再々構築ver・前半)

 (前書きのようなもの)
 この文章は以前にpixivに置いていたレントンさんの過去ねつ造SSを再々構築したものです。
 加筆したら容量オーバーになってしまったので分割しています。
 前に書いたものとは展開は大体同じものなので暇な人向けだと思います。もうこれが最終verになると思います。多分。
 もたもたした部分を改造したのでこれで更新はおしまいだと思います。(2014年1月8日追記)
 …と思ったらイルヴァ資料館が更新されたことで新しい情報が得られたのでそれに基づいた加筆をしたり一部を書き換えたりしました。特に後半の方を書き換えたので後半も読んでね!お兄ちゃん!(2014年2月16日追記)
 
 
 
 
 私が最後に妹と会ったのは雪がちらつく冬の日だった。
 幼い頃から画家を志していた妹はその道の挫折から精神を病み、療養のためにと故郷であるルミエストを離れざるを得なくなっていた。
 療養と言えばその響きはいいが、その実際はいわゆる「厄介払い」に近いものであった。
 六歳年下の妹は美しいものをいたく愛する心の持ち主であったが、根深い憂鬱に苛まれては目にするあらゆる人や物を嫌悪する人間に変わってしまった。
 そんな彼女は周囲の人間を妬んでは当たり散らし、そのたびに自らの行いを悔やんでは泣き沈むようになっていた。
 それでも画家の道を諦めたくない、都を離れたくないと言い張る妹の療養を私は都でするべきだと考えていたが、家族はそれを許さなかったのだ。
 それは、彼女のそのような憂鬱や嫌悪といったものが暴力として家族に向かうようになっていたからである。
 彼女は魔術士としての道を目指していた私に対しても頻繁に呪詛を吐き、当たり散らしていた。
 そんな日が続いていたある日、妹は書斎に置いてあった貴重な古書物や魔法書を破り、貴重な水薬の瓶を叩き割ってしまった。
 それが決定的な出来事だった。この時の私は、毎日続く妹の暴力や暴言に疲れ果てていた。そのような状態で妹を支えることなどできるわけがなかった。
そして、私は妹に対して激昂し、厳しく叱りつけるということをしてしまったのだ。
 ただ暴力や暴言に耐えて泣くだけだった私がそうした態度を取ったことに対し、妹はひどく狼狽した顔を見せた。
 そして、彼女は自分が使っていたペン型ナイフで手首を深く切ってしまったのである。
 この時、既に妹と私の兄妹としての関係は破綻し切っていた。
 そうした次第で、彼女は今年の夏に半ば無理やりルミエストから遠く離れた地にある療養所へと連れて行かれることになってしまったのだ。
 私はそこへ何度も赴いては司教へ妹との面会を許してほしいという旨のことを告げていたが、いつも病状が安定しないことを理由に願いが聞き入れられることはなかった。
 司教や尼僧が言うことによれば、妹は錯乱のひどさから独房へ入れなければならない状態であり、独房の中でもなお壁に頭を打ち付け、爪や食器の破片で腕や首を引っ掻き散らしては壁に血で絵を描き続ける始末であったらしい。
 だが、この冬になって病状が落ち着きを見せるようになったとのことで、ようやく面会が許されるものとなったのだ。
 さらに、司教からは「注意さえ怠らなければそろそろ都に戻っても差し支えはないでしょう」という喜ばしい知らせも受けていた。
 面会室と称される小部屋でソファに座って待っていると、葡萄色のワンピースに菫色のスカーフを纏った妹が司教に連れられてきた。その黒い髪はワンピースと同じ色のリボンで二つ結びにされている。
 司教はそんな妹を私の向かいのソファに座らせると、その横に腰掛けた。
 妹の顔は未だ苦悩にやつれ、ひどく悲しそうであったが夏の頃のように狂気を帯びたものではなくなっていた。それどころか、どういうわけか以前よりも愛らしさが増していたような気がした。
 ――もう嫌だ。みんなして私を気違い扱いして。私が気違いなら修道院でも癲狂院でも何でもいいからぶち込んでちょうだい。
 ふと、療養所に連れて行かれる前に妹が吐いていた言葉が頭をよぎった。この時の妹は時に気違いだと他人に罵られることもあったらしい。
 周囲の人間に「気違い」と言われ疎まれ続けていた妹は今や「気違い」などではなく一人のいたいけな少女でしかなかった。私の前に座る妹はとても悲しそうな顔をしたまま一言も喋ろうとしない。
「……グレース。寒くなったな。元気にしていたか?」
 私はおずおずと妹へ尋ねた。だが、妹は小さく頷くだけでそれ以上の返事をしなかった。
 それにしても、私は一体何を言っているのだろうか。元気な人間ならこんな所に来る必要なんてないではないか。
 そして、ただ悲しそうな顔をするだけの妹はまるで取りつく島がない。何を言えばいいのだろう。
 黙り込む妹を前に、私は言葉が続かず口をつぐんだ。
 話したいことはたくさんあるはずだが、相手が病人であることを意識してしまい、何を話すべきなのかが分からなかった。
 私自身があまり人と話すことを得意とせず、妹も元々は物静かだったので面会が静かなものになるのは必然のことだったのかもしれない。
 暫く、三人ともが口を開くタイミングを掴めないまま部屋に沈黙が続いていた。
 そこで、私はこの重たい空気を破ろうとやっとの思いで外へ散歩に出てもいいかという旨のことを司教へ尋ねた。
 すると、司教は暫く考えこんだ後に答えた。
「ええ。お嬢さんも大分病状が落ち着いてきていますのであまり遠くに行かないのであればいいでしょう」
 と。
 私は司教に感謝の言葉を告げると妹の手を引き、面会室を出た。
 
 療養所の外に出ると、庭には白い雪が積もっていた。
 面会室では苦悩にやつれた冷淡な顔を見せていた妹だが、庭に出るとしだいにその表情を緩め、ぽつりぽつりと問わず語りを始めた。
 それと同時に、私も妹を相手に自然と言葉が出てくるようになった。
 長らく独房で過ごしていた妹は、最近になってこの庭に出ることを許されるようになったらしい。
 花が好きだった妹が庭に出ることを許されたことがどれだけの慰めになったかは想像に難くなかった。
 だが、彼女が身体を壊す勢いで熱中しやすい性格であることを考慮してなのか絵を描くことはまだ許されていないらしい。
 絵描き道具があれば毎日ここでスケッチをしていたかったのにな。妹は悲しげにそう話した。
 この庭では患者たちが療養の一環で園芸をしているのか、花壇には濃い紫のヒヤシンスの花と、名前は分からないが雪のように真っ白なうつむきがちの花が咲いていた。
 暫く庭を歩いていると、赤や白の花を咲かせた木が目にとまった。この花は何という名前なのだろうか。私がそう尋ねる前に妹がぎこちなく口を開いた。
「この花は『カメリア』っていうみたい。あ。この飾りはね、この花をかたどっているの」
 そして、妹はスカーフを留めている白い布の花飾りを指差した。まるで何かを包み込むように丸い花びらが重なり合っている花だ。
「おお。それは、自分で作ったのか?」
 私がそう尋ねると妹は黙って頷いた。雲の隙間から差し込む柔らかな太陽の光がそんな妹の顔を照らしていた。
 その時の妹はとても愛らしく、私は思わず言葉を洩らした。
「とても綺麗だ」
 と。
 微笑む私を見ると、妹は照れくさそうに頬を染めながら微笑んだ。その姿はある種の優雅さを湛えていたと言ってもいいだろう。
 ここでたくさんの花の名前を学んだのか、妹は他にも様々な花の名前を教えてくれた。
 花壇に咲いていた白い花が「スノードロップ」という名であることを初めて知ったのはその時だった。
 妹は簡単な裁縫や手芸が出来るほどにまで立ち直っていた。そして、妹は「少女」から「女」へと成長を遂げようとしている。
 その事実が私にはとても嬉しく思えた。そして、それは「これからは兄として妹のことを守ってやらなければならない」という決意となった。
 妹を連れて都に戻り、妹との生活をやり直したい。私はそんな願いが叶うのを心待ちに思っていたのだ。
 
 そうして暫く庭の散歩をしていた私たちは、再び司教が待つ面会室へと戻った。
 そこでは妹も交えて「もうじき退院することもできるが、そのためにはまた両親との相談が必要だ」という旨のことが話された。
 妹は、その話を何の感情も読み取れない顔でただ黙って聞いていた。
 その時になって初めて、私は妹の細い手にいくつもの傷跡が残っていることに気付いた。独房での生活はどれほど辛いものだったのだろうか。
 そして、再び都に戻る話が出ている今、彼女は何を思っているのだろうか。
 このことが妹の口から語られることは二度となかった。
 面会から二日後の夜、妹は尼僧たちの監視をかいくぐって療養所を抜け出し、行方不明になってしまったのだ。
 面会が終わった後の私は一週間後に再び妹の退院の相談に訪れるという約束をし、ルミエストへ向かっていた。
 私が妹の失踪の知らせを聞いたのは都に戻って間もなくのことだった。
 数日後に見つかった妹は、療養所の近くにある湖の岸辺で雪に埋もれて息絶えていた。
 その時の彼女は療養所の庭で私に手作りの花飾りを見せてくれた時の姿のままだった。
 ――お兄さん、ごめんなさい。
 妹の使っていた部屋からは、そう書かれたメモが見つかった。
 都では妹の葬儀を私が取り仕切り、妹の亡骸は都から離れた丘にある墓所に葬ることとなった。
 その時の私は、何もかもが悪夢での出来事のように思え、自分の身体と心がバラバラになってしまったような心地がした。
 ――妹が死んだというのに涙一つ流さないなんてあなたはなんて冷たい人なの。
 ――あなたはそんなに妹のことが嫌いだったのか。
 ――今のあなたはまるで機械みたいだ。
 無表情の仮面が貼りついたような顔の私に対し、母を含めた何人もの人間がこうした言葉を投げかけた。
 この人たちは妹が生きていた頃には周囲に当たり散らす彼女を蔑んで罵りの言葉を向けていた。それが今は妹の死を悲しむ顔をしながら私を罵っている。
 中には、棺にしがみ付いてわざとらしいほどに泣き声を上げる者までもがいた。
 一方の私はというと、妹の突然の死が悲しいはずなのに泣くことができない。全てが麻痺したように何も感情が湧いてこないのだ。
 それはあの日の療養所で見た花のように白い死装束を身に纏って棺で眠る妹を前にしても、妹の名が刻まれた墓を目の前にしても同じだ。
 そもそも私は本当に妹の死を悲しんでいるのだろうか。それすらも分からない。
 私はただ妹の葬儀、埋葬の手続きを淡々と行うだけだった。そんな私は人に言われた通り「機械」のようだ。
 妹の死を悲しむ顔をする私の周りの人たちは、何故妹がまだ生きていた頃に彼女をひどく邪険に扱っていたのだろうか。
 その人を失うことが悲しいと思えるのなら、その人が生きているうちにもっとできることはあったのではないか。
 その人が死んでしまった後にいくら悲しい顔をしても取り返しはつかない。
 そんなことを他人事のように考える私はやはり周囲の人間が言うようにひどく冷たい人間になってしまったのだろうか。
 もしそうだとすれば、この胸を刺すような苦痛は一体何だというのだろう。
 妹の埋葬の手続きを淡々と行うだけの私も、妹の棺を前に涙を流す人たちを冷めた目で見ている私も偽物みたいだ。
 では、本物の私は一体どこにいるのか。そもそも妹の死を悲しむ本物の私なんて存在したのだろうか。
 妹の周りの人間が見せる矛盾もまた理解に苦しむものだったが、自分自身の矛盾がとりわけ理解できず、いっそう苦痛であった。
 この時の私は、妹の死を心から悲しんで別れを告げることができなかったのである。
 
 妹が死んだ日から、私はかつての妹のようにあらゆることがらを嫌悪する人間へと変わっていった。
 水と芸術の街であるルミエストは芸術家で賑わっているのだが、名も知らぬ芸術家の成功を耳にするたびに私はうんざりさせられた。
 ことに、それがいわゆる「天才」と言われる人間の話だった時にはますます耐え難い苦痛を感じた。
 妹が熱望しながらも得られなかったもの全てを手に入れた人間の話など聞きたくなかったのだ。
 恵まれる者と恵まれない者との間の不平等は避けられない。そして、それをもたらすのは運命の偶然でしかない。
 それはずっと前から理解していたことだ。だが、妹の死までもが運命の偶然だと言われたとしてそれを受け入れられるわけがない。
 妹の運命や自分自身の運命を呪い続けるうちに私は憂鬱の深淵に沈み込み、どうしようもないほどの無気力感に襲われていった。
 それは妹の死から二月ほど経った春の日のことだった。
 その日の私は、パン屋へ向かう途中の道で吟遊詩人の青年がハーモニカの演奏をしているのを目にした。その周りでは市民が集まって拍手をしている。
 以前の私ならその演奏に最後まで耳を傾けておひねりの一つか二つでも彼へ与えていただろう。
 だが、今の私は彼の演奏がやけに耳触りに思え、ひどい苛立ちを覚えずにはいられなかった。
 ハーモニカの音が神経に障る。頭が締め付けられるかのように痛んで仕方ない。
 気が付くと、私は地面に落ちていた小石を手にとり、それを吟遊詩人の青年に向かって投げつけていた。
 小石が空を切って青年の頬を掠めると、彼は演奏を中断した。
「そんなに耳障りな演奏だったかい?」
 青年は困惑と怒りの入り混じる目で私を見ている。その頬の掠り傷からは僅かに血が滲んでいた。
 市民たちもまた驚いたような、怯えたような表情で私を見ている。
「あ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 我に返った私は市民と吟遊詩人を前に、か細い声で呟くことしかできなかった。
「一体何のつもりなのだろうか」
「木の芽時だからおかしな人間が出るものだ」
 市民たちが口々に話をしている。私は本当になんてことをしてしまったのだろうか。
 暫くして、青年が演奏を再開するのを見届けると、私は背中を丸めてその場を後にした。
 そして、今の私はパン屋に入っても買うパンを選ぶことができなくなっていた。
 この頃は何を口にしても砂を噛んでいるようで美味しいと思えないので飲み食いに対する関心が急速に薄れていたのだが、それに加えてそもそも「幾つかのものから一つを選ぶ」ということも困難になっていたのだ。
 以前なら食べたいパンをすぐに選ぶことができたはずだ。それなのに何故そんな簡単なことができないのだろうか。
 何を買うか決めかねておろおろする私を店主の娘が怪訝そうな顔で見ているような気がする。
 早く何を買うか決めなければ。
 早く決めなければ。
 早く。早く。
 焦るうちに手はがたがたと震え、額には冷や汗が滲み出す。
 とうとう私の様子がおかしいことに気付いたのか、店主の娘が大丈夫かと声をかけてきた。
「あ、ああ。すまない、大丈夫だ……本当に何でもないんだ」
 そう答える私の声はひどく震えている。自分でも笑わずにいられないほどにひどい声だ。
 そして、食べるパンを何とか決めた後の精算の時でさえ手が震えて金貨を床にばらまくという始末だった。
 ――お前はなんて無様な人間なんだ。生きていて恥ずかしくないのか。
 床にうずくまって金貨を拾い集める時、耳の奥で誰かが囁く声が聞こえた。
 何とかパン屋を出て目の前の景色を見渡すと、街は色鮮やかさを失いつつあった。
 とはいえ、街の風景は変わってなどいない。色褪せてしまったのは街ではなく、私の目なのだ。
 ふと橋の上から湖面を見下ろすと、そこに映るのは苦悩にやつれ、みすぼらしく痩せた男の歪んだ姿だった。
 この男は何が悲しくてこんな惨めな姿を人前にさらしているのだろうか。
 私は湖面に映る自分の姿を心底から醜いと感じ、吐き気を催した。
 そんな今、自分自身に対して出てくる言葉は呪詛や否定の言葉ばかりであった。
 私はあらゆる物事、とりわけ自分自身から美点や良さを見出しては肯定する心を失ってしまったのだ。
 湖面に揺らぐ自分の姿を見るうち、私は腹立たしさを覚えて足元に落ちていた小石を湖面に映る男に向けて投げつけた。
 
 重たい足取りで自宅に戻ると、私は台所のテーブルで一人食事を始めた。
 だが、口に運ぶパンを全く美味しいと思えない。まるで鉛を噛んでいるようだ。
 かといって味覚がおかしくなったわけではない。ただ「美味しい」と感じることができないのだ。
 結局、一つの小さなパンを時間をかけて食べ終わるのがやっとのことだった。
 私は手つかずになったパンを袋に詰めてテーブルに置くと台所を後にした。
 そして、私が足を運んだのは妹が使っていた部屋だった。
 妹の死後、妹の部屋に入るのはこれが初めてではなかった。
 この頃の私は幾度となく何かを確かめるように妹の部屋へ足を運ぶようになっていた。
 部屋は耳が痛くなるほどに静かで、そこにはもう妹が生きていたということを示すものは何もない。
 部屋には何も敷かれていないベッドと空のクローゼット、本棚が置かれているだけだ。それ以外は何もない。
 何度確かめてもそれは同じだ。
 私が無気力に沈んでいるうちに、家族は妹の遺品の処分を決めてしまったのである。
 それはまるで精神を病み、自殺という末路を迎えた妹の存在を恥ずべきものとして「なかったこと」にする行為にも思えた。
 私は唯一の形見として妹が最後に見せてくれた手作りの花飾りと菫色のスカーフだけを持っていたが、この部屋には妹が生きていたという証拠は何も残っていない。
 部屋に立ち尽くすうち、軽い胸の痛みを感じた私はクローゼットにもたれ掛かるように座り込んだ。
 どうして家族は妹の遺品という遺品を全て処分してしまったのか。私がろくな判断をできなくなっていたからといって私の意思を無視するのはあんまりではないか。
 それにしても、先程から胸の奥がずんずんと痛み続けている。この胸に大きな穴が開いてしまったような違和感は一体何なのだろうか。何かがない。何かが空虚だ。
 そうだ。私は今まさに「寂しい」のだ。それも身体と心が引き裂かれそうなほどだ。
 痛みの理由を突き止めたその時、頭の中で今まで張り詰めていた糸が切れる音が響いた。
 それと同時に目頭が燃えるように熱くなり出し、止めどなく涙が溢れ出した。
 妹が死んでから私が泣くのはこれが初めてだった。
 何度拭っても涙は全く止まる気配を見せず、ぼろぼろと流れ落ちてはローブの袖や床を濡らしていく。
 床に目をやると、涙だけでなく鼻水までもが流れ落ちてまだらな染みを作っていた。
 外で今の顔をさらせば「いい歳をした男が何を女子供みたいに泣くのだ」と物笑いの種になることだろう。
 妹を埋葬する時の私が全く泣けずにいたのと反して、今の私は全く抑えが利かず泣きじゃくっている。
 あの時に終始無表情のままで「機械みたいだ」と罵られていた私は何故今になって袖を絞るほどに泣いているのだろうか。
 私は妹の弔いに泣くことができなかったくせに、自分のためにならいくらでも泣くことができるというのだろうか。
 そうなのだとすれば、私はなんて醜悪な人間なのだろう。妹でなく、こんな私の方こそ死ぬべき人間だったのだ。
 これから何十年もこんな「私」という人間を忌み嫌いながら生きていくなんて耐えられない。
 その時、私は自分という人間が心底から手に負えない存在に思えた。
 私が生まれて初めて生を苦痛に感じ、自分の死を望んだのはその時のことだった。
 
 それから、さらに月日が過ぎた。
 妹が健在だった頃の私はギルド内で魔術に関して然るべき評価を受けていたのだが、この頃はギルドでの務めに支障をきたし始めていた。
 その頃から私は頻繁に理由の分からない頭痛や長引く微熱に悩まされるようになっていた。
 そして、魔法書や古書物といった書物を読んでいてもその内容をすぐ忘れるようになり、特に古書物の解読のミスが目立っていた。
 そのせいで何冊の魔法書や古書物を駄目にしたかは分からない。
 何度も繰り返す失敗のせいでギルド内での自分の信用というものが落ちつつあることに私は焦り始めていた。
 だが、焦ることはさらに注意力を散漫にし、その結果としてさらに焦ってはミスを増やすという悪循環だったのだった。
 決定的な出来事となったのは、夏にあった書物に関する報告会で突然の発作を起こしてしまったことだろうか。
 その時、私は古書物の解読内容を報告する担当となっていた。
 人前でしっかり喋られるだろうか。そんなことを思って緊張していたことは否定できない。
 だが、壇上に上がったその時、頭が真っ白になり言葉が出てこなくなってしまった。
 手に握る紙へと目をやる。だが、その上の文字を声にすることができない。
 やがて、紙を握る両手ががくがくと震え出して激しい眩暈が私を襲った。
 胸が押し潰されるように痛む。そのせいで上手く呼吸することができない。
 そして、先程から震え続けていた膝がとうとう力を失って崩れ落ちる。
 その時、私は窒息感に喘いで倒れる自分の姿やざわめく聴衆の姿を一歩遠くから見ているような奇妙な心地がした。
 今は発表をせねばならない場なのに何をやっているのだろうか。私は再び立ち上がろうとするが、膝の震えと眩暈で立ち上がることはできない。
 そんな体たらくで古書物の解読内容の報告なんてできるわけがなかった。
 ところが、ギルドの番人が慌てふためいて癒し手を呼びに行っている間に発作は嘘のように治まってしまったのだ。
 それでも大事を取って私が担当していた書物の報告は急遽他のギルド員が行うこととなり、私は心底から情けなさを覚えた。
 ――もしかすると先程の私の発作は演技に他ならないものだったのではないか。そうだとすれば私がしたことは最低だ。
 その時の私は釈然としない思いの中、そんなことを考えていた。
 だが、この突然の発作はその後も幾度となく私を襲い、ひどい時には失神が伴うことさえあった。
 一度発作が起こると激しい眩暈と共に肺を押し潰されるような窒息感が襲ってきてひどく苦しいのだ。
 それこそ「このまま死んでしまうのだろうか」という恐怖を感じるほどの発作を意識的な演技で起こせるわけがない。
 だが、何度も繰り返す発作の原因は分からずじまいで、癒し手の処置も水薬も全く効かなかった。
 しまいには、癒し手にも「気にしすぎなのではないか」と言われる始末であった。
 自分の身体に何が起きているのかも発作がいつ襲ってくるのかも分からない。
 そのような不安と恐怖から、私はいつしか人前に出ることを極端に恐れるようになっていた。
 壇上に立たなければならない時になれば小さな報告をする時でさえ不安に襲われ、トイレにこもっては胃液を吐く始末だ。時には嘔吐だけでは済まず、不安を誤魔化そうと壁に頭をぶつけることさえあった。
 そんなある日、私はギルドの番人から呼び出しを受けた。それはギルドでの私の態度に見かねてのことだったのだ。
 その頃の番人は、ギルド長が多忙から不在であることが多かったのもあって私に対して苛立ちを募らせていたのだろう。
 彼は私が最近になって犯した失敗を次々と論っては問い詰めた。
 全ては私の至らなさだ。そのことは痛いほどに理解していたので私はただ番人を前に謝ることしかできなかった。
 彼の言うことはとても正しい。ましてや相手はギルドの番人であって私はただのギルド員でしかない。だから、相手の言葉がいくら突き刺さるものであっても言い返すことなどできない。
 私は番人の糾弾を前に、歯を食いしばりながら今にも泣き出しそうになるのを耐えることしかできなかった。
 ところが、私がただ糾弾に対して頷くだけだったこともまた番人を更に苛立たせたらしい。
 番人は眉間に皺を寄せ、明らかに苛立ちを隠せない顔で尋ねたのだ。ただ頷くだけなら子供やかたつむりでもできる。本当に話を聞いているのかと。
 それが私にとどめを刺した。食いしばっていた歯が緩み、気付いた時にはもう既に水は顎を伝い落ちていた。
 そして、私はそれを皮切りに嗚咽が止まらなくなり、まともな受け答えなどできなくなってしまったのだった。
 それは言うまでもなく、私が最も恐れていた事態だ。
 ことごとく肝心な時に限って身体は言うことを聞いてくれない。そして、心もまた私の制御できる範囲からたやすく外れてしまう。
 私の意志はまるで一つの柱を失ったことを皮切りに崩れていく積み木の塔のようだ。それはあまりに脆弱すぎる。
 私の涙を認めた番人はそれに対しても更に責め立て始めた。
 ――そんなに心を弱らせてどうするんだ。全ては気の持ちようなのではないか。
 番人が長々と話すのはそうした旨のことだった。
 ――魔術を操る者は心を強く持たねばならないはずだ。自身の心を満足に制御できないのでは魔術の制御もできないであろう。
 その時の番人の言葉の中でも、この一言が最も深く突き刺さった。
 私には番人のしていることはただの暴力にしか思えなかった。言葉を奪われて泣くしかできない人間を更に言葉で虐げることに何の意味があるというのだろうか。
 その一方、彼がこうした厳しい言葉をかけることで私の尻を叩こうとしていることは理解していた。
 だが、その上で奮い立とうとすることについては既に限界だった。
 その日以来、私はギルドへ赴くこと自体をひどく躊躇するようになっていった。
 何度ギルドに足を踏み入れようとしてもその前で足が止まってしまい、一歩が踏み出せないのだ。そして、一歩を踏み出そうと努力するほどに一歩一歩は鎖で縛られたかのように重くなっていった。
 とある日の朝にはギルドへ向かおうと玄関に立った瞬間に突然気分が悪くなって食べたものを吐いてしまったこともある。
 やがて、自分などが魔術士ギルドにいても迷惑なだけだという思いが私の頭を支配していき、心折れた私はそのうちギルドに全く足が赴かなくなってしまった。
 そんな私は魔術士ギルドの人間としての地位を失うことになってしまったのだった。
 
 
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約束。

 (前書きのような何か)
 1.この文章はこの文章の続きになっています。例によってほぼ全てがねつ造です。
 2.バルザックさんとレントンさんがぐだぐだと喋っているだけの文章です。ごく僅かに下品な表現を含むのでご注意ください。
 3.文中のバルザックさんもレントンさんもまだ若いです。
 

 
 その日、僕はいつもの習慣である街の掃除を早めに切り上げて自宅に戻っていた。
 窓の外を見ると、空には僅かに灰色がかった雲が広がっている。暫くすれば雨が降りそうだ。
 やがて、僕が予想したとおりに雨が降り始めた。
 やれやれ。今日は掃除を早めに切り上げていて良かった。もしいつもと同じように街を回っていたら雨に降られて大変だっただろう。
 そんなことを考えながら窓を眺めていたその時、不意に誰かが玄関の扉を叩く音が響いた。
 玄関の扉を開くと、そこには見覚えのある男が立っていた。
 その男――レントンは茶色い紙袋を大事そうに抱えている。その黒髪は僅かに雨で濡れていた。
「おう、君か。こんな雨の中どうしたんだ?」
 僕は尋ねた。
「五日前に借りたままだったタオルを返しに来たんだが。道に迷っている間に雨に降られて」
「ああ、そうだった。忘れていたよ。雨も降っているしとりあえず上がっていくか?」
 僕は紙袋を受け取りながら、レントンが喋り終えるのを待たず言葉を続けていた。
「……そうだな、今日はギルドを黙って飛び出してきたわけでないから大丈夫だろう」
 そう言いながら、レントンは僅かに頷いた。
 
 
 茶を淹れながら窓の外を見ると、空は先程よりも暗い灰色の雲に覆われていた。雨音も先程よりずっと強くなっている。
 レントンは椅子に座りながら窓の外をぼんやりと眺めている。
「こりゃひどい雨だな。それはそうと、お茶が入ったぞ」
 僕の呼びかけに振り向いたレントンの表情はどこか夢想から覚めたかのようだ。
 そして、彼は思い出したかのように口を開いた。
「ああ、そうだ。あなたに渡した紙袋だが……タオルと一緒にクッキーが入っているんだ。お礼にというのは何だが」
「おお、お茶を入れたところだから丁度いいな」
 椅子の上に置いていた紙袋を開くと、小さな箱が入っていた。その中に入っていたのは甘い匂いがする七枚のクッキーだった。
「これは美味しそうなクッキーだ。お前さんが焼いたのか?」
 僕が尋ねると、レントンは答えた。
「いや。最近ギルドマスターがクッキーを作るのにはまっていて、そのお裾分けに貰ったんだ」
「ほう、魔術士ギルドも面白いことをするんだな。ギルドのマスターとなると魔法の研究ばっかりしていると思っていたが」
 魔術士ギルドのマスターといえば日がな魔術の研究と古書物の解読に没頭していそうだと思っていたが、意外だ。
「それがどうも、最近のギルドマスターはクッキーを増やす魔法の研究にはまっていたみたいなんだ。どうやら、思っていたよりもクッキーが増えすぎて彼一人では食べきれなくなったらしい……」
 レントンの言葉に、思わず僕は吹き出した。
「お前さんのところのギルドマスターもお茶目な人なんだな」
「そうだな」
 レントンは顔をほころばせた。
 ――この人もこんな風に笑うのか。
 レントンの笑顔を前に、僕はそんなことを思っていた。
 その時、僕は五日前にレントンが忘れていったスカーフのことを思い出した。昨日までは椅子にかけていたのだが、部屋の掃除をするのにどけていたのだ。
「そうだ、ちょっと待ってくれ」
 僕は棚の上に畳んであるスカーフを取りに立ち上がった。
「このスカーフだが、前に忘れて帰っていたんじゃないか」
 畳んだスカーフを差し出すと、レントンはそれを受け取りながら頭を小さく下げた。
「ああ、どうやら忘れていたみたいだ。ありがとう」
「そのスカーフ、いい色をしているな。スミレみたいだ。好きな色なのか?」
 僕は何気なく尋ねた。
「ああ……私にこの色が似合うと言ってくれた人がいるんだ」
 レントンはそう答えながら、何故だか少し悲しそうな表情をした。
 ――もしかすると、この人は過去にとても悲しい目に遭ったのかもしれない。
 ふと、そんな考えが頭をよぎった。
 五日前は彼をとても面倒くさい人だと思っていたが、元々はそんな人ではなかったのかもしれない。
 僕の考えはそんな風に変わろうとしていた。
 
 
 窓の外からは雨音が聞こえる。雨はまだ止まなさそうだ。
 茶を片手にレントンが持ってきたクッキーを口に運ぶ。どうやらクッキーの中には甘くてほろ苦い何かが入っているらしい。香料だろうか。
「さすが魔法といったところだな。美味いよ」
「そうか、それなら良かったよ。そのクッキーは『カカオ』というノースティリスでは珍しい甘味が入っているそうだ」
「カカオ……か。聞いたことがないな」
「その辺りは私もあまり分からないんだが。珍しい甘味が入っている菓子を増やそうとしたのだろう……」
 レントンは茶を一口飲むと、再び顔をほころばせた。その笑顔はとても優しげだ。
 その笑顔を見るうち、僕は胸の内に滲む黒い染みのような何かが自分を苛んでいることに気付いた。
 ――そんなに生きるのが嫌なら、俺は君を止めはしない。
 五日前、僕はこの人に対してこんなことを言ってしまったのだ。
 その時のレントンは確かに取り乱していて穏便なやり取りをするのは難しい状態だった。そうだとしても僕が言ったことはあんまりだ。
 思えば、レントンに会ったのは今回が初めてではない。
 最初に彼と会ったのは雨上がりの下水道で、あの時の僕は彼に生きてほしいと思っていたのではないか。
「すまない、どうかしただろうか……?」
 その声に顔を上げると、レントンはいささかきょとんとしたような顔で僕を見ていた。
「あ、いや。その、五日前なんだが……」
 ――ひどいことを言ってすまない。
 そう言いたかった。それなのに、言葉が続かない。
「ああ……五日前は本当にすまない」
 暫く沈黙が続いた後、僕が言葉を続けるより先にレントンが口を開いた。
「いや、そうじゃなくてな。それはいいんだ。そうじゃなくて……」
「もしかして、手のことだろうか……?」
 レントンはいささか不安そうな顔で尋ねた。
 そういえば五日前の彼は左手を怪我していたのだ。それも、僕が見る限りでは相当に深い傷だった。
「ああ、そうだそうだ。レントン、あれから手の具合はどうだ? それで……体調の方も大丈夫か? この間は今にも倒れそうだったからな」
「今日の体調はまあまあかな。手は、あの後に癒し手の処置を受けたよ。やはり怒られてしまったが……」
「傷は処置が遅れたら後が厄介だからな。菌が入れば膿んでしまう。それから、エーテルが入り込めば傷から目玉が生えてしまうぞ」
 僕は左腕の袖をまくると、右手で毛むくじゃらな自分の左腕を指差した。
 この世界には冒険者と言われる人間がたくさんいるが、エーテルによる病のせいで身体中が目玉だらけになった女冒険者を見たことがある。
 元々は中々の美人だったのだろうが腕から足、それから首や顔までもが目で覆われているのだ。そのせいで彼女を見る人たちの目は嫌悪感に満ちていた。
 本人はというと、まるで身体中の目を見せつけるかのように袖が短いブラウスに裾が短いスカートを穿いていた。
 普通の人ならそんな姿になれば人前に出るのも嫌になりそうなものだが、彼女はそんなことなど気に留めていない様子だった。
「いつだったか、この街でエーテルの病で全身が目だらけになっている女冒険者を見たことがあった。俺もついびっくりしてしまってだな」
「目か……全身ということは顔や手足も全部目だらけだったのか?」
「ああ。元々その目は多分刃物での傷か何かだったのだろう。その女はまるで目だらけの身体を美術作品かのように人目に晒していたんだな」
「もしかすると、彼女は見られるためじゃなくて『見る』ために身体を晒していたのかもしれないね。あるいは『泣く』ためか……」
 レントンはそう言いながらローブの襟元を指でいじった。
「泣くためというのは一体……?」
 僕が話が理解できず、尋ねた。
「人は目がなければ泣くことができない。もし、二つだけの目では足りないほどに泣かなくてはならない理由があったとすれば……」
 レントンは黒いローブの袖で隠したままの左腕に視線を落とした。袖の隙間からは、腕に巻かれた白い包帯が覗いている。
 そして、更に話を続けた。
「開いた切り傷は目に似ている。違いといえば眼球があるかないかということと、流すものが血か涙かということくらいだろう」
 なるほど。確かに目とは皮膚の裂け目から眼球が覗いている器官だ。そして、傷も皮膚が裂けてできるものだ。
 あの女も手足の目から血とも涙ともつかない液体を流していたような覚えがある。そのせいで彼女が歩いたところには点々と水の跡が残っていた。
「そういえば、その女の目からは血とも涙ともつかない液体が流れ続けていたな。ただでさえ女は血や涙で汚れるものなのに」
「男なのに血や涙で身体を汚すのはおかしいことなのだろうか」
 レントンはそう言いながら悲しそうな顔をした。
「あ。いや、男も女も関係なく生きている限りは汚れ続けるものだろうよ。男だけが流すものもあるしな、下品な話だが」
「……考えてみれば、そうだな」
 レントンは隠すように口元へ右手をやりながら笑った。
 そして、ぽつりと呟いた。
「例え偽物でも目を増やせば、二つだけの目で泣くよりずっと早く涙を流し切れるんじゃないかと考えてしまうんだ。そうすればいつまでも悲しみ続けることをやめられると……」
「だから自分から傷を作るというのか……? 」
「……そうなのかもしれない」
 僕の問いに、レントンは悲しそうな顔で答えた。
「ところでレントン、一つ聞きたいことがあるんだがいいか」
 僕はそう切り出した。
「あ、ああ。別にいいが、何だろうか」
 レントンは不意を突かれたような顔をしながら尋ねた。
「五日前のことを蒸し返してすまない。俺に『話しておきたいことがある』と言っていたのは覚えているか? どうもそれが気になってだな」
 僕は五日前の彼が言っていたことをぼんやりと思い出していた。
 ――この街は多くの人やものが人知れず失われていく場所なのか。
 確か、レントンは泣きながらこんなことを言っていた覚えがある。僕が例の暴言を吐いてしまったのもこの時だったのだが。
「ああ。それなんだが、話してしまってもいいのだろうか」
「お前さんが話せるのならいいんだ。それと、俺が孤独死した絵描きの話をした時にとても辛そうにしていたのが気になったんだが、まさか……」
「それは……妹が絵描きを志していたんだ。歳は離れていたが、仲は決して悪くはなかったと思う。先程話した、『紫が似合う』と私に言ってくれたのも妹だったんだ」
 レントンは躊躇いがちにそう語った。彼には妹がいたのか。
 レントンの話を聞いていると、僕は彼の話すことが全て過去形であることに気付いた。そして、話すのを躊躇っていた様子からはそれが意味することの予想はついた。
「妹は絵描きとして常人離れしたと言っていいほどの情熱を注いでいたよ。人に認められたい、憧れの絵本作家みたいになりたいと。でも……」
 そこまで語ったところでレントンは言葉を詰まらせて顔を伏せた。
 言葉が続かなくても、その様子からは彼が言おうとしたことの察しはついた。
「そうか。妹さんがいたのか」
 僕はまるでおうむ返しをするかのように呟いていた。
「妹は美しいものを愛していた。それから、とても生真面目で努力家だったよ。妹がもし今も生きていたらまだ絵を描き続けていられただろうか」
 そう語るレントンは確かに「兄」の顔をしていた。とても悲しい兄の顔だ。
「歳が離れていたということは、妹さんはまだ若かったんだな……」
「そうだな、妹はまだ十四歳だった」
 レントンは悲しそうな顔を隠すように俯いた。
 あの孤独死した絵描きもまだ若い青年だった。そして、レントンの妹もまた夭逝した絵描きだった。
 絵描きの青年の家の掃除に赴いた時、僕は彼が遺した絵の中で損傷が少ないものを一枚だけ引き取っていた。
 どうしてそうしようと思ったかは分からない。彼の生きていた証を自分の元に留めておこうという意図でもあったのだろうか。
 僕は美術作品に対して疎いが、街の掃除に力を入れる理由にはこの街の美しい景観を守りたいという思いもある。
 こんな僕は芸術家たちとは違う形で美しいものを愛していると言ってもいいのだろうか。
「いつか、妹さんの絵を俺にも見せてくれないか。見てみたいんだ」
 僕は言った。この時、僕はレントンの妹が遺したもの、生きていた証をこの目に留めておきたいと思っていた。
 だが、レントンは首を横に振った。
 そして、言ったのだ。
「それはできない。妹の絵はもう処分されてしまって私の手元には一枚も残っていないんだ」
 と。
 その時、僕は胸の辺りを手で掴まれるような衝撃を覚えた。
「処分してしまったって、それは一体どうして……」
 僕は震える声でレントンへ尋ねる。
 それに対し、彼は躊躇いがちに話し始めた。その声は感情が抜け落ちてしまったかのようだ。
「妹は精神を病んでいた。何がきっかけになったのかは分からない。自分の才能の限界に気付いてしまったのだろうか」
「……」
「妹は厄介払いにと両親によって遠くの療養所へ連れていかれた。療養先で妹が死んだという知らせを聞いたのは冬の日だった。湖への身投げだった……」
 レントンは感情がこもらない声で喋り続ける。まるで無表情の仮面が貼りついたかのような顔だ。
 僕は彼の表情を見るうち、どうしようもない胸の苦しさを覚え始めた。
「妹が死んだ後、この街にやってきた芸術家が天才だと持てはやされて成功しているという噂を耳にしたんだ。それから私は無気力になってしまったせいで何かを決断することもできなくなっていた。その間に妹の絵は処分されてしまった」
 亡き人の遺品や墓石はその人が生きていた証だ。そして、遺された人にとって縋るべきものという意味でも墓石に近い役割を持つ。
 墓石の不在が人に寄る辺なさをもたらすのと同じく遺品の不在もまた人に寄る辺なさをもたらす。その寄る辺なさはそれこそ独りで水の上を漂うようなものだろう。
「妹を埋葬する時、身体は涙を流そうとしてくれなかった。本当は弔いの時に涙を流し切って、そこで別れを告げなければいけなかったはずなのに」
 僕はレントンの話に耳を傾けながら、どういうわけか幼い頃に見に行った演劇のことを思い出していた。
 その演劇にも妹を水辺で亡くした兄が出てきた覚えがある。
 ――可哀相に。水はもうたくさんだろう。
 確か、その兄は劇中で妹を前にそう言っていた。涙を流しながら。
「私は妹の後を追えないまま生きているが、今となってはもう水はたくさんだよ。溺れてしまいそうだ」
 レントンは頻りに瞬きをしながら苦しげに呟いた。既にその目は涙に溺れ始めている。
 この男は水から引き上げられてもなお水に呪縛され続けているのだろう。
 そんな彼を水のない場所へ連れて行っても無駄だ。水はその身体からも出てくるものなのだから。
 この人に一体どんな言葉をかけたらいいのだろう。
 目の前の壁が、窓が、レントンの顔が水に揺らぐ。
「バルザック?」
 レントンは顔を上げ、驚いたような表情で僕を見た。
「レントン、駄目だ。お前は水に飲み込まれちゃ駄目だ。また溺れてしまったらお前を水から引き上げた意味がないだろう」
 気付けば、こんな言葉が漏れていた。その声はひどく震えている。
 泣き出しそうな僕を前に、レントンは狼狽した表情を見せた。
「すまない、こんなひどい話をしてしまって本当にすまない」
「いや、謝らなくていい。すまん。つい感情が昂ってしまってだな。俺が泣いても仕方ない」
 ポケットから取り出したハンカチーフで口と鼻を押さえ、僕は咳き込んだ。
 そして、暫く沈黙が続いた。外からは静かに雨音が響いてくる。
 二年前に下水道で藻まみれになって倒れていたレントンは妹の後を追おうとしていたのか。
「……ところで、私からも一つ聞いていいだろうか」
 不意に、レントンが口を開いた。
「ああ、構わないが」
 それに対し、僕は答える。
「先程あなたは私を『水から引き上げた』と言ったが、それは一体……?」
 レントンの問いに、僕は言葉が続かず口をつぐんだ。
 僕は本当のことを言うべきなのだろうか。本当のことを言ってもそれは相手にとっては恩の押し売りでしかないのではないか。
「……ああ、それはだな。ある種の例えだ。水は悲しみだとか憂鬱だとかいうものの元素だとか言うが、それはつまり…………」
「まさか、あなたが私を引き上げようとするとでも言いたいのか……?」
 レントンはやや訝しげな顔で尋ねた。
「いや、そうだな。だが、俺一人だけではお前を引き上げてやるのは無理だ。他にもお前を引き上げようとしてくれる人はいるだろうよ」
 僕は咄嗟に答えていた。咄嗟に出てくる言葉はあまりにも陳腐だ。
「なるほど。でも、水はとても深くて冷たい、悲しい元素だ。水に侵された者はゆっくり体温を奪われてやがては無力感に深く沈んでいく。そして、いっそう押し寄せる水に神経を蝕まれるせいで幻しか見えなくなるんだ。私がそうだった。妹と同じ運命を辿ろうと水に身を投げたこともある。されるがままになってしまえばいいと自棄になって自分を殺すだけの水を受け入れるような人間なんだよ、私は。そんな痴れ者を引き上げようなんて思えるのか?」
 レントンは僅かに笑った。その笑顔と言葉からはあくまで人を拒絶しようという意思が垣間見える。
 彼の言うことはあまりに寂しい。僕は納得できなかった。
「そんな寂しいことを言ってくれるなよ、何なら俺一人でもお前をまた引き上げてやる」
「そうか。だが……一つだけ私から言っておくよ。水に溺れる者は藁だろうと何だろうと半狂乱で掴もうとする。そのままでは相手を道連れにしてしまうと分かっていても、それでは自分も相手も助からないと分かっていてもだ。私はあなたの足を掴んで水に引きずり込むかもしれない。それでもいいなんて言うのは許せないよ」
 レントンはまるで妹か弟を諭す兄のような厳しい顔をした。
 彼は這い上がりたいという願いを完全には捨てていないと仄めかしている。だが、そのために他人を犠牲にすることまではしたくないとも言いたいらしい。
「そうか、分かった。それなら、俺の手足はお前に貸さない。その代わりに紐で繋いだ浮き輪を貸してやる。それならいいか?」
「なるほど、面白くていいね。あくまで私を水に沈めたままにはしてくれないのか」
 レントンは再び不器用に笑った。その笑顔は「仕方ないな」とでも言いたげだ。
 そして、ぽつりと呟いた。
 ――ありがとう、と。
 
 
 ふと窓の外を見ると、雨は既に上がっていて雲の切れ目から紫色の空が見えた。
「雨、上がったな」
 僕は窓を眺めながら呟いた。
「そうだな、そろそろお暇させてもらおう。長々と喋りすぎてしまったな。すまない」
「いや、全く構わんよ。今日は忘れ物がないようにな」
「ああ」
 レントンは椅子から立ち上がったところで椅子にかけたままのスカーフに気付き、それを手に取りながら小さく頭を下げた。
 彼を見送ろうとしたその時、僕は自分の中で何かが引っ掛かっているような違和感に気付いた。
 僕は彼に何かを伝え忘れているんじゃないだろうか。
 そうだ。それは――――――。
「ああ、そうだ。レントン、ちょっと待ってくれ」
 僕は、玄関の扉を開いて出ていこうとするレントンを引き止めた。
「バルザック? 何か忘れ物があっただろうか」
「いや、一つ言い忘れていたことがあったんだ。その、お前の妹さんのことについてだな」
「妹のことというのは何だろう……?」
 レントンはやや不安が入り混じる顔で僕を見た。
「ああ。ええと、妹さんのことなんだが、墓とかはどこにあるんだ? 妹さんの墓に花を手向けに行きたいんだが」
「妹の墓は、この街を出て東の墓所にある。だが、あなたが一人で行くには遠いかもしれない」
「そうか。迷惑でなければだが、妹さんの墓に行くことがあれば俺も連れて行ってくれないか。どうしても行きたいんだ」
「迷惑だなんてことはないよ。私の他に妹の墓を訪れる人は殆どいなかった。あなたが来てくれるならあいつも喜んでくれるだろうか……」
「喜んでくれたらいいが。妹さんが好きだった花を持っていこう。だから、それまでは生きていてくれよ」
「分かった、生きるよ」
 レントンはそう言うと、再び笑った。その笑顔は夕日に照らされ、とても眩しく見える。
 そして、僕は今度こそレントンを見送った。
 扉ががちゃりと音を立てて閉まった後、この家は再び静寂に包まれた。
 ――まるで今までの時間が夢か幻のようだ。
 僕は玄関の前でそんなことをぼんやりと考える。
 静かになった部屋に戻ると、テーブルの上には二人分の茶を入れていた空のコップとクッキーを入れていた空の皿が残されていた。
 レントンは確かに先程までここにいた。これは夢でも幻でもない。
 何故だかテーブルの上を暫くそのままにしておきたいと思ったが、そうするわけにはいかない。
 僕は何だか寂しいと感じながら二つのコップと皿を盆に乗せ、台所へと運んだ。
 
 *おしまい*
 

 
 (あとがきのようなもの)

 水=憂鬱の元素の下りはガストン・バシュラールの『水と夢』から。
 演劇で妹の死を嘆く兄の元ネタはシェイクスピアの『ハムレット』から。レアティーズさん。
 エーテル病で増えた目はやはり涙を流すんですかね。
 人と喋ったり人のところに行ったりして、その後にその人と別れて一人になるとそれまでの時間が夢か幻想の世界での出来事のように感じることはよくあることだと思います。

苦し紛れの暗殺者(秋のElonaSS祭作品)

 
 (注意書きのような何か)
 
 1.この文章はとても虚言と歪曲に満ちています。主に虚空さんの過去について。
 2.文中にややグロテスクな表現を含みます。閲覧はご注意ください。

 3.本文はメインクエストが終了した後(ヴィンデール焼失後)くらいを想定して書いています。
 

 
 oh_simileのお題は「苦し紛れの暗殺者」です。できれば作中で「笑い声」を使い、『虚空を這いずる者』(ヴェセル・ランフォード)を登場させましょう。
  
 
 どこかから笑い声が聞こえてくる。まるで私を嘲笑っているような声だ。
 この声が聞こえてくる時、私はとても苦しそうな顔をしているらしい。そのことを、私を匿って身の回りの世話をしているという見知らぬ顔の女に指摘されたのは最近のことだった。
 どうもその女は三年以上前から私の身辺の世話をしてきたらしい。
 彼女はことあるごとに私に向けて「可哀相なあたしのヴェセル」と言っていた。
 私の名前はヴェセル・ランフォードというらしい。そして、かつては「白き鷹」などと呼ばれていた記憶がずっと遠いところに残されている。
 だが、今の私はその「白き鷹」という名を捨てた。今の私は病みやつれて薬漬けになった薄汚い病人でしかない。
 今や私が私でいられるのは薬を煙管の中で燃やし、その煙を吸っている時だけだ。
 その時の私はいつも目の前で自分にとても似た姿をした男が燃えて灰に変わっていく幻影を見た。
 私は人が生きたまま肉を焼かれていく時の臭いを知っているが、その理由は語りたくもない。
 薬の煙を吸っている時に現れる男は、肉が焼ける時特有の忌まわしい臭いを放つこともなくいつも真っ白な灰になって崩れ落ちた。
 最初に燃える男が私の前に現れたのはいつだっただろうか。それはイェルスにいた頃だったように思う。
 イェルスにいた頃の私は士官学校の寮にいた。士官学生だった私はありとあらゆる手段をもって優秀な成績を修めていたのだが、その最中に破綻はやってきた。
 ある日、私は級友たちが奇妙な形をした管で何かの煙を吸っているのを目にした。
 好奇心から何をしているのかと尋ねると、彼らは疲れが取れて気分が良くなる薬を吸っているのだと答えた。
 彼らが毎日の苛烈な訓練を乗り切るためにその薬に頼っているのは以前からのことだったらしい。
 その頃の私は訓練に疲れていた。そこで、級友たちの誘いに乗って薬に手を出してしまったのだった。
 初めてその煙を吸った時、目の前に自分ととても似た姿の少年が立っているのが見えた。ただ、その少年は他人を利用することも厭わない冷酷な私と違ってとても優しい悲しげな目をしていた。
 やがて、優しい目の少年は足元から少しずつ燃えて灰に変わり、悲しそうな顔のまま崩れていった。
 私は、燃える少年の姿を眺めながらえも言えぬ解放感に浸っていた。
 それからの私は訓練に疲れを感じるたび、級友と共に薬を吸って疲れを誤魔化す日々を送った。
 だが、そんな日々は長く続かなかった。
 ある日の夜、私はいつものように煙管で薬を吸って眠りに就こうとしていた。
 その時だった。私が初めてあの笑い声を聞いたのは。
 そして、声は私に命令したのだ。「自分の腹を触ってみろ」と。
 声に従って自分の腹を撫でると、腹の中で何かが蠢いた。
 自分の体内に蠢く得体の知れない存在を認めた私は、自分が悪魔の子を孕んでしまったのだという考えに行きついた。
 ――お前は悪魔を産み落とす。お前は悪魔を産むと同時に無残な死を遂げる。
 声は私の頭の中へと直接語りかけ続ける。そして、声は恐怖する私に命令した。
 ――その腹を切り開いて悪魔の子を早く堕ろすんだ。
 その声に従った私は自分の腹に刃を向けた。
 部屋の見回りに来た士官学校の教官が腹から臓器を零して倒れている私を発見したのは次の朝だった。
 医務室に運び込まれた私は処置を受けながら医師に何故自殺しようとしたのかと問い詰められた。
 私が正気を失っていた時にしでかしたことは自殺と見られても何らおかしくない行為だったのだ。
 私は自分が無意識に自殺を図ったことを認めたくないあまり、深夜に何者かに刺された、暗殺者が刺したに違いないなどと苦し紛れの見え透いた虚言を並べることまでしてしまったのだった。
 いずれにしても、私が士官学校で訓練を受け続けることは不可能だった。
 神経を壊し、深手を負った私は士官学校を辞めて自宅へ戻ることとなった。
 それから数年後のことだ。私がイェルスを飛び出してザナンへ渡ったのは。
 そして、私は今ザナンでの輝かしい地位を捨てて薄汚れた中毒患者に身を落としている。
 いや、私はイェルスの士官学生だった頃から中毒患者だったのだろう。
 そうして今日も私は忌むべき炎と薬で自分の神経を燃やしながら生きている。
 また目の前に燃える男の幻影が見える。
 その薄汚いローブをまとった男は灰になりながら、私に向けて笑みを浮かべた。
 その顔はまるで煙管の中でくすぶる燃えかすのような私を嘲笑っているようだ。
 私はこの男がとても憎い。狂おしいほどに妬ましくて仕方ない。
 何故なら、私は炎に焼かれて死にたいからだ。私は炎によって大切な人を二度失った。大切な人はいともたやすく炎に抱かれながら逝ってしまった。
 だが、私は今日も自分を煙管の中の小さな炎でちびちびと燃やし、屋敷や森を焼き尽くす炎に身を投げなかったことを悔やみながら未練がましく生きている。
 煙管の中の炎は決して私を抱擁と共に焼き尽してはくれない。女に匿われながら酒と薬に溺れ続ける生活に希望がないことも分かっている。それでもそうするしかない。
 また、あの笑い声が聞こえてきた。この笑い声は今日も私を苛み続ける。
 それはいつかこの身が燃え尽きる日まで続くのだろう。
 それまで私は緩慢に自分を焼き続ける。
 いつか私が愛した二人のエレアの少女と同じ灰になれる日を夢見ながら――――。
 
 *おしまい*
 

 
 (あとがきのような何か)
 虚空さんの鬱屈とか狂気と言えるものは炎と切っても切れない関係なのだと思います。レントンにとっての水と同じ関係。
 イルヴァ資料館では虚空さんがアテランの学生だった頃に患った重病=身体の病とは語られていない。
 アテラン然りザナン然り、あの手の規律が厳しい学校は訓練に耐えるために薬に走る人が多いイメージがあります。
 でも、薬に頼らないと訓練に耐えられないような人間はあの手の場所には必要ない人間だという悲しい話。

 それから、ヴィンデール焼失後の虚空さんはもう酒と薬で神経をズタズタにされてリアナのことも分からなくなっていそうなイメージがあります。薬物精神病も発症していそうな。
 

読めない絵本(再構築ver)

 
 この文章は去年の10月頃に書いた文章に色々追加したものです。きれいなレントンさんの話。
 特にまずい表現はないもののあまり明るい話ではないと思います。95%くらいは想像という名のねつ造。
 余すところなくネタバレを含むのでElonaのサブクエスト「幻の絵本」を終了させてから読むことをお勧めします。




 
 暖かな浮遊感が目を閉じたままの私を包み込む。こめかみに柔らかい痛みが走り、それが心地良い。
 何かに赦されるような安らかな感覚の中で、私は目を開けた。
 色鉛筆や絵の具など様々な画材が散らかる部屋。開いた窓からは柔らかな光が洩れて床に影を作っていた。
 その部屋の真ん中で少女が一心不乱にキャンバスに向かっている。彼女は私に背を向けたままだったが見紛うことなどなかった。毎日目にしていた背中なのだから。
 私は、彼女が一心不乱にキャンバスへ向かう姿が好きだったのだ。たった一人の大切な妹。
 画家を志す彼女の努力、情熱は私から見ても尋常でないものだった。
 そんな妹の姿は「輝いていた」と言っても過言でない。
 その背中を見ながら私はその努力が報われることを静かに祈っていたのだ。 
 どれだけの間その背中を見ていたのだろうか。不意にキャンバスに向かっていた妹が振り返った。
「お兄ちゃん、見て! 絵が完成したの」
 そう言うあどけない彼女の顔は満面の笑みをたたえていた。
 その絵はまだまだ拙さが残る物だったが妹にとっては一番の作品だ。そして、それは私にとっても同じく一番の作品だった。
「ああ。素敵な絵だ。よく頑張ったね」
 思わず私は顔をほころばせた。それは心からの言葉だった。
「あたし、レイチェルみたいに見た人の心が温かくなるような絵が描けるようになりたいな。なれるかな?」
 妹は私を前に無邪気に微笑んだ。
 レイチェルとは、その才能を惜しまれながら若くして亡くなった童話作家だ。妹は彼女が描く絵に憧れを抱いていた。
 この頃の私は魔術士ギルドの講義が休みの日に妹が絵を描くのを見守り、このレイチェルの話をする妹に耳を傾ける時間が大好きだった。
 そして、私は妹に言ったのだ。きっと素敵な画家になれるはずだよと。
 その言葉にもまた偽りは全くなかった。そう。この時は。
 幼い妹の頭を撫でようと手を伸ばした瞬間、突然目の前の景色が暗転すると同時に激しい耳鳴りが襲った。
 何かに赦されるような感覚が壊れていく。私が今まで見ていたものは幻だったのか。
 そう考える間もなかった。
 耳鳴りが引くと同時に視界が開けた。
 
 目の前に広がる光景は、先程とは一変していた。
 光を閉ざした窓。引き裂かれたカーテン。そして、埃にまみれ散らかる部屋に未完のまま破り捨てられた何枚もの絵。
 その部屋の真ん中で妹が泣き崩れている。その姿もまた何度も目にしていたものだ。
 そして、妹の傍には「私」がいた。今よりも若い頃の「私」だ。
 今、私はこの部屋で亡霊のように浮遊していた。身体はまるで凍り付いたかのように硬直し、動くことも声を出すことも出来ない。
 そもそも今の私は人の形をしているのだろうか。今の私はこの部屋の照明の一つでしかないのではないか。
 それは十四の誕生日を迎える前後のことだっただろうか。妹は自分の才能の限界を感じ次第に精神を病み始めた。
 その顔はやつれて髪は乱れ、血走った目だけがただぎらぎらと鋭い眼光を放っていた。
 そんな彼女が笑顔を見せることは殆どなくなり、その姿にひたむきに絵を描き続けていた頃の輝きを見出すことはできなくなっていた。
 妹は口を開くたびに自分には才能がない、レイチェルみたいな絵なんて描けないと繰り返していたが、「私」はそんな彼女をなだめようとすることしか出来なかった。 
 そして、その頃には、周りのあらゆる人間が彼女の当たり散らしの的となっていた。
 妹が周りの人間を罵る分、彼らもまた彼女へそれと同じだけ、それ以上の罵声を浴びせた。 
 目の前で妹が画材を投げつけながら「私」を口汚く罵っている。「私」もまた例に漏れず罵声の的となっていたのだ。
 怯えたような顔をしたままの若い「私」はそんな妹へ気休めの言葉をかけることしか出来ない。
 この頃の「私」は妹の気持ちを理解するにはあまりに若過ぎた。そんな「私」は取り乱す妹を前に泣き出す始末だった。
「ねえ、何でお兄ちゃんが泣くの? 耳障りなの! お願いだからもう出ていってよ!」
 そんな妹の刺々しい言葉に狼狽し、とうとう「私」は泣きながら部屋を出ていった。妹を一人置いて。
 暫らくすると、泣きじゃくっていた妹も部屋を出ていき、この部屋には誰もいなくなった。
 そして、再び目の前の景色が暗転し、激しい耳鳴りと共に白黒の砂嵐が広がった。相変わらず身体は凍り付いたように動かない。
 轟音のような耳鳴りが引いていくが、砂嵐のせいで何も見えない。
 闇の中で空中を舞う無数の白い粒子が私の視界を覆い尽くしている。それはとても冷たい。
 いや、これは砂嵐ではない。雪だ。
 視界が開けると、目の前には大きな湖が広がっていた。真っ黒な空と同じ色の湖には氷が張っている。
 そんな中、湖へと歩いていく一つの影が見えた。それもまた見紛うことなどなかった。
 妹が氷に覆われた湖に向かっていく。全てを終わりにするために。その歩みには全く迷いがない。
 お願いだから行かないでくれ。
 私は叫んだ。だが、それが声になることはなかった。そして、そこから動くことも出来なかった。
 その背中は氷を踏み割りながら歩みを進めていく。今、まさに妹は真っ暗な湖の底へと消えようとしていた。
 行かないでくれ。
 私はその背中に向けて何度も声にならない叫びを上げ続ける。だが、その叫びが届くことはない。
 程なくして湖は妹を飲み込み、その影を消していった。
 妹の姿が見えなくなっても、意味がないと分かっていても私はただ叫び続けた。
 降り止まない雪は私の視界を閉ざしていく。零れ落ちる涙は氷の粒になって雪と共に風にさらわれていく。
 そして、最後には何も見えなくなった。
 
 再び重い瞼を開くと、そこは自室だった。机の上には読みかけの魔法書が散乱している。どうやら魔法書を読む途中でうとうとして夢を見ていたようだ。
 夢で見た妹の表情と声が頭を離れない。現実だけでなく夢まで私を苛むのだろうか。
 瞼をこすりながら椅子から立ち上がると、目眩と共に頭の中が脈打つような頭痛が襲った。
 そんな中で床に目をやると沢山の紙切れが散らばっていた。開いた窓からの風に吹き散らされたのだろう。窓を開けっ放しにしたまま眠っていたのは迂闊だった。
 私は床にしゃがみ込み、散らばる紙切れを拾い集め始めた。
 この紙切れはレイチェルによって描かれた絵本の切れ端だ。そして、それは妹が愛読していたものと同じものだ。
 私は以前、通りすがりの冒険者へレイチェルの描いた絵本を読みたいので探してほしいと依頼したことがあった。
 妹が追従し続けていたものを私自身も共有することで少しは救われるのではないかという気持ちがあったことは否めない。
 だが、冒険者が集めてきた絵本を目にしても私が救われることはなかったのだ。
 絵本を読んで私が理解したことはレイチェルが途方もなく素晴らしい絵を描く人物だったこと、彼女が「天才」と言っても過言でない才能の持ち主だったということだ。
 妹がそんな彼女を追従して彼女のような絵を描こうと身体を壊すほどに努力することは悲しいほどに虚しい行いだったのである。
 そのことを理解した私は耐え難い悔しさを覚え、冒険者の前でそれらの絵本を感情に任せて全て破ってしまったのだった。
 そうして、私の元にはページがバラバラになって読めなくなった絵本と行き場のない虚しさだけが残った。
 だが、私はその読めない絵本を今もなお捨てることができずにいた。
 こんな絵本を見てもただ辛いだけなので本当はもう捨ててしまった方がいい。それは分かり切っていた。
 それなのに私はこのバラバラの絵本を捨てるどころか、何かに取りつかれたかのようにその挿絵に見入ってしまうことさえある。
 その度に私は涙を流し、袖と絵本のページを濡らすこととなった。
 そんなことを繰り返すうちに絵本はインクが滲み、文字に至っては何が書いてあったかも分からなくなっている。
 ――レイチェルみたいな絵を描けるようになりたいな。
 まだ幼かった妹は笑顔で語った。
 あの頃の彼女は無邪気にそう語っていたのだろう。数年後にはその願いこそが自分自身を苦しめ、死に追いやることとなるのを知らずに。
 妹には最後までこの作家のような絵を描くことは出来なかった。これが才能、運の有無というものによることなのだろうか。
 妹の、私が愛したひたむきな姿から病み疲れた姿への変貌。それもまた運命だったのだろうか。
 妹があのような形で人生を終えなければならなかったことも運命のいたずらにすぎないのならば、幸運の女神はとても残酷だ。
「あなたが笑顔なら……」
 気が付くと、私はうつむきながら呟いていた。
 私はただ妹に笑顔を見せてほしかっただけのはずだ。だが、もう二度とあの笑顔を見ることは叶わない。
 妹が生きてさえいればあったはずの可能性は全て断たれてしまった。彼女自身が自ら断ってしまった。
 もし妹が今生きていればどんな風に暮らしていただろうということに思いを巡らせても虚しいだけだ。
 できることなら先程の夢に見た、暖かな陽の中で楽しそうに絵を描く妹を見守っていた日々に帰りたい。だが、それは妹がいたからこそ幸せだった日々だ。
 妹を失った今、そんなことを願っても意味なんてものはない。ただ虚しくなるばかりだ。
 やがて、胸の内で広がっていく痛み苦しさと共に喉から呻くような声が漏れた。
 瞬きの度に溢れる涙はもう読めない絵本の上にぽつりぽつりと落ちて滲んでいき、更に読めないものへと変えていく。 
 レイチェルの絵は色が水で滲んでもなお美しいことは変わらない。それがまたいっそう悲しかった。
 そうして何度も何度も涙を拭ううちにローブの袖はずぶ濡れになっていく。それでも嗚咽は止まらない。 
 歳を重ねるごとに、私は涙を堪えることも一度流し始めた涙を止めることもできなくなってきている気がする。
 そんな私はまるで古びて制御が利かなくなっていく機械のようだ。
 人はよく「涙が涸れる」という言葉を使うが、そんなことはないだろう。涙は涸れるどころか時が経つほどにその量を増していくではないか。
 この真っ黒なローブの袖もいずれ濡れ続けるうちに傷んで色が抜け落ちてしまいそうだ。
 気付けば私はもう四十だ。私はこれからもますます涙もろくなっていくのだろうか。 
 そう思考を巡らせていると、窓から吹き込む一際強い風が雪と共に絵本の切れ端を私の手からさらって散らしていった。
 白い氷の粒を乗せた風が涙で濡れた頬に冷たく突き刺さる。
 風が止むと、頬の冷たい痛みだけが残された。
 顔を上げ、窓の外を見ると空は厚い灰色の雲に覆われていた。
 この街にももうすぐ長い冬がやって来る。
  
 *おしまい*
 

 
 (あとがきのようなもの)
 
レイチェルの絵本の挿絵ってとても綺麗なものだったんですかね。
 Elonaのゲーム中で「天才」と称されるのは彼女くらいしかいない気がします。彼女がどんなに才能を持っていたかは幻の絵本クエストから推測することしかできませんが…。
 才能を求めた末路が才能をもつ者の後追い自殺とか兄からすればやるせない話だと思います。
 

悩める魔術士の自虐癖と掃除屋の孤独

 
 (まえがきのようなもの)
 この文章はの「水葬」の続きのようなものでした。やや痛々しい表現があるのでその辺りはご注意ください。
 文中のバルザックさんとレントンさんはまだ若いです。 
 (2014年6月21日追記)
 ところどころを修正したり加筆したりしました。
  

  
 
 それは晴れた夏の終わりの日のことだった。その日の僕は仲間の清掃員と共に宿屋のトイレの修理に赴いていた。
 最近はこの街にも水洗トイレが普及し始めており、トイレの修理を依頼されることが増えていた。
 宿屋にはトイレが二つあるのだが、今回はそのうちの一つが詰まってしまったのである。
 おそらくは、水洗トイレの使い方を知らない客がゴミを捨ててしまったのだろう。
 普及したばかりである水洗トイレの正しい使い方を知る者はあまり多くない。
 水洗トイレを噴水や泉の類と同等のものとみなしてはポーション類を投げ込む者が出るのは日常茶飯事だ。
 さらに、便器に顔を突っ込んでは水を飲み干そうとする者までもがいるらしい。
 水洗トイレの正しい使用法を知る者からすると、便器に顔を突っ込んで水を飲み干すだなんて正気の沙汰でない。
 誤った使用によって水洗トイレを壊してしまう者が多いことは嘆かわしい話だ。
 そして、水洗トイレで使用する水は汚水である。だからそれを飲み干すことは病気に罹る危険もあるのだ。
 トイレの詰まりを直すには「ラバーカップ」という、先端に半球状の樹脂が付いた棒状の清掃具を使って詰まっているものを吸い出す必要がある。
 今回の宿屋のトイレもラバーカップを使うことで詰まりを取ることに成功したのだが、それはひどく疲れる作業であった。
 ラバーカップで吸い出されたものを見た時、僕を含めた清掃員一同は目を点にした。
「おい。どういうことだ」
「何でこんなものがトイレの便器なんかに……」
 清掃員たちは驚きのあまり皆がそう漏らした。
 便器から吸い出されたのは可愛らしいレースの装飾が施された淡いピンク色のパンティーだった。それは「ギャル」と言われる年齢の若い女性が着用するものだ。
 このギャルのパンティーとは多くが専門の職人による手作りであるため、一般的に価値が高いものとして知られている。
 何故こんなものがトイレに流されていたのだろうか。盗品の証拠隠滅のために流されたのだろうか。それは分からない。
 結局、件の可愛いギャルのパンティーは奪い合いになった末に清掃員仲間のうちの一人が持ち帰ることとなった。
 僕はいくらギャルのパンティーとはいってもトイレに流されたものを持ち帰るだなんて御免だった。
 この街の人々にも水洗トイレの正しい使用法を広めなければいけない。
 僕は掃除屋の端くれとしてそんな使命を感じずにいられなかった。
 
 宿屋を後にした頃にはもう日は高くなっていた。朝の掃除も終わったので自宅に戻って何をしようか。
 ラバーカップを片手に魔術士ギルドの前を通り過ぎた時、ふと二年ほど前に下水道で助けた男のことが頭をよぎった。
 その男は雨上がりの下水道で意識不明の状態で見つかった。
 僕は癒し手の処置を受けさせねばとその男を魔術士ギルドへと運んだのだが、番人の様子からしてあのギルドの人間だったらしい。
 この数ヶ月の間にギルドへ男を見舞うべきかと考えることは何度かあったが、ギルド員でない僕には魔術士ギルドの中に立ち入ることはできない。
 ギルド番人に何度か男の容体を尋ねに行ったこともあったが番人は何も答えてくれなかった。それ故に男の状態を知ることはできなかったのだ。
 そうするうちに僕はギルドを訪れることもなくなり、男のことも忘れようとしていたのだった。
 あの後、あの男はどうなったのだろうか。まさかあのまま助からずに死んでしまったなんてことはあってほしくない。 
 そんなことを考えながら住宅街に入った時、僕は建物の間の狭い路地でうずくまる黒い影に気付いた。周囲の人間は誰もそれに気付いていないらしい。
 路地に足を踏み入れると、足元に散らばる空き瓶の欠片がバリバリと音を立てた。
 そして、その影の正体が人であることはすぐに分かった。
 空の大きなゴミ箱の傍で、丈の長い真っ黒なローブを着た人が座り込んで震えている。
 そして、黒いローブのその人は首に淡い色のスカーフを巻いている。夏の服装にしてはいささか暑苦しそうな格好だ。
 この街の気候は比較的寒冷であるが、夏はそれなりに暑い。この暑さで体調を崩したのだろうか。
「おい、こんな暗くて狭い場所で何をしているんだい。気分が悪いのか?」
 そう呼びかけると、その人は「ひい」と小さく悲鳴を上げた。それはひどく掠れた呼吸音のように聞こえた。
 どうやら相手は男のようだ。僕よりも十歳ほど年上だろうか。長い前髪越しに見えるその顔は何かにひどく怯えているように見える。
 そして、彼は気だるげな低い声で呟いた。
「大丈夫だ……だから一人にしてくれないか」
 だが、その様子はどう見ても大丈夫には見えない。
「どう見ても具合が悪そうじゃないか。一体どうしたんだ」
「……別に何でもない」
 頑なに何ともないと言い張る男は胸を押さえながら苦しそうに息をしている。
「まさか、息が苦しいのか?」
 僕が尋ねると男は途切れ途切れに答えた。
「これは……いつものことなんだ。だから放っといていい」
「いや、放っとけやしないよ。俺の家はすぐ近くだから休んでいけばいい。立てるか?」
 手を差し出すと、彼は思いの外素直に僕の手を取った。
 そうして、そのまま僕は男の肩を支えながら自宅へと向かったのだった。
 
 自宅に着くと、僕は玄関にラバーカップを置きながら男へ呼びかけた。
「いいベッドではないが……座っているのが辛いなら部屋にあるベッドで横になるか?」
 だが、男は黙って首を横に振った。 
「そうだ、冷蔵庫でお茶が冷えているんだ。一杯飲んでいけばいいぞ」
 僕は男を椅子に座らせ、台所へ向かった。
 冷蔵庫から取り出した茶をコップに注ぎながら、僕はあることに気付いた。
 どうも、あの男の顔には見覚えがある気がする。僕はどこかであの男を見たことがあったのではないか。
 だが、会って話をしたという覚えはない。では、どこであの男の姿を見たのだろうか。
 僕は茶が入った二人分のコップを乗せた盆を居間に運ぶと、それをテーブルに置いた。
「具合はどうだ。今日は暑いから喉も渇くだろう」
「ああ、ありがとう。……あ!」
 男がコップを手に取ろうとしたその時、コップがひっくり返り、中身がテーブルの上に零れた。
 零れた茶がテーブルの縁を伝い、床の上にぼたぼたと落ちていく。
 倒れたコップを前にした男はひどく引き攣った顔で、その両手はがたがたと震えている。
「あ、おい。大丈夫か?」
 僕は咄嗟に尋ねた。
「あ……す、すまない……」
 そう答える男の声はまるで熱に浮かされたようで、その顔はまるで取り返しのつかないことをしてしまったとでも言いたげだ。
 だが、茶ならまだいくらか残っているし、床に零れた茶なら雑巾で拭けばいい。僕はそう思っていた。
「お茶ならまた入れてこれる。床は俺が拭いておくからそんなに気にしなくていい」
「本当にすまない……」
 深刻な顔で謝り続ける男を前に、僕はいささか困惑した。
 茶を零すくらいの失敗なら誰にだってあるはずのことだ。それなのに、彼は何故それをこんなにも気に病むのだろうか。
 茶を零す程度の失敗をするたびにそれを深刻に受け止めていれば、それこそ心がもたないのではないか。
 僕は始末をやらせてくれと頼む男を無理やりなだめ、台所から持ってきた布巾で零れた茶を拭き取った。
 それを見ている男はまたしても謝り続けるばかりだ。
「具合が悪い人に始末させるなんてできないし、君は俺からすれば客みたいなもんだ。そんなに気にしなくてもいい」
 僕の言葉に対し、男は何かを言おうとしたがそのまま口をつぐんだ。
 しばらく沈黙が続いた後だった。
 男は再び顔を引き攣らせながら息を吸うと、その両目から涙を溢れさせた。
「お、おい。どうしたんだ」
「すまない、見ないでくれ」
 泣き出した男は僕から顔を逸らすが、それはほぼ意味をなしていない。
「ちょっと待て。手で拭うくらいなら、これを使ってくれ」
 男が鼻をすすりながら服の長い袖で顔を拭おうとするのを認めると、僕は咄嗟に彼の前へと真っ白なタオルを突きつけていた。
 男は申し訳ないという顔でタオルを受け取ると、それに顔を埋めた。
 僕は他人が泣いた顔を服の袖や手で拭う姿を見ていられない。相手には失礼だがどうしてもそれを不潔だと思ってしまうのだ。
 そして、涙や鼻水にまみれた人の顔とはおしなべて綺麗なものとは言えない。綺麗な顔で涙を流すのは演劇の舞台に立つ女優くらいだろう。
 そんな顔を人前にさらすのは泣いている本人も嫌なはずだ。それもまた、僕が男にタオルを手渡した理由だ。
 よく見ると、目の前にいる男のローブは胸の辺りに刺繍が施されており、上質のものらしいことが窺えた。
「そんな綺麗な服の袖で鼻を拭うのはやめてほしいな。汚してしまうのは勿体ないよ」
 僕はやや脱力するように呟いた。
 暫くすると、嗚咽していた男はいささか落ち着いたのか、タオルに顔を埋めたまま途切れ途切れに喋り始めた。
「わたしはやはり、何をしても駄目なんだ。今日はギルドを飛び出してきてしまって……」
 この街のギルドといえば魔術士ギルドのことだろう。この男は魔術士ギルドの人間だったのか。
 男の語ることによれば、彼はどうやらギルドから逃げ出して宛てもなく街をうろうろしていたらしい。
 そして、そうするうちに暑さで気分を悪くしてあの路地で座り込んだまま動けなくなってしまったとのことだ。
「俺にはギルドの事情は分からないが……どうして逃げ出してしまったんだ?」
「それは……」
 男は暫く黙り込んだ。ギルドで余程のことがあったのだろうか。
 そんなことを考えていると、男は掠れた声で答えた。
「特に何も理由はないんだ。ただ、突然何もかもが怖くなった。それだけだ」
「それであの路地でゴミ箱の傍に座り込んでいたのか」 
「あなたもこんなわたしを無様だと思うだろう。どうか笑っておくれ」
 男は自嘲的に呟いた。その口元は引き攣り、笑みを作るかのように歪んでいる。
「お願いだ、わたしを笑っておくれ。蔑んで笑ってくれよ」
 男はそう懇願しながらタオルを握ったままの左手に右手の爪を深く食い込ませ始めた。
 その赤い目は据わっていながらもどこか遠くを見つめるかのような不安定さに満ちている。
 僕は、男の爪が食い込む左手の甲からは血が滲み出していることに気付いたが、本人は右手の爪で左手を抉っていることに気付いていない様子だ。
 そうするうちにも、男の手の甲には赤い爪跡が増えていく。
「おい、やめろ」
 僕は思わずその右手を掴んで左手から引き離した。右手の長く伸びた爪は赤く染まっている。
 そのまま男の右手を見ると、やけに傷跡が目立つことに気付いた。
 それは歯で噛みついたようなものや爪や針など鋭利なもので引っ掻いたようなものだ。
 そして、その時になって初めて僕は彼のローブの左袖に暗い色の染みが広がっていることに気付いた。黒い衣服なので今まで気付かなかったのだ。
「おい、ちょっと左腕を見せてくれ。怪我しているんじゃないか」
 男が拒むより先に左手の袖を掴んで捲り上げると、手首の内側を縦に裂いたような傷が走っていた。
 彼は茶を入れたコップを手に取ろうとしてひっくり返していたが、それは傷が痛かったからなのではないか。
 僕が見る限りでは相当痛みそうな傷だ。ずっと耐えている方が難しいだろう。
「これは手当てしなければいけない傷だな。今まで気付かなくて本当にすまない」
「ああ……」
 もう隠しようがない。男はそう言いたげな気だるい表情だ。
「手当てをするからちょっと待っておくれ」
 僕は救急箱と水を取りに、席を立った。
 
 
 まず傷を濡れタオルで拭い、傷の状態を確かめた。傷口に汚れが入っているわけでないみたいだが念のため洗った方がいい。
 空き瓶に入れた水を傷の上に流すと、血を洗い流され開いた傷口からは桃色の肉が覗き、男は僅かに顔をしかめた。
「少し痛いと思うが、辛抱してくれ」
 傷口が洗われたのを確認すると濡れタオルで軽く拭い、止血するように包帯をややきつく巻いて処置を終えた。
 傷の処置には消毒液を使用する人が多いが、消毒液は傷の治癒を却って妨げることはあまり知られていない。
 これ以上の処置は癒し手に任せた方がいい。
「ひとまずは包帯で止血しておいたが、後で癒し手のところでしっかり処置をしてもらった方がいいだろう。もしかすると縫った方が治りが良いかもしれないしな」
「ああ……」
 さらに、僕は付け加えた。
「あと、それからだ。両手の爪はしっかり切っておいた方がいい」
 先程から僕は男の手を見ていて長く伸びた爪が気になっていたのだ。爪は切らずに伸ばしていれば不衛生だ。
「特に君はいらない傷を増やしかねないみたいだからな」
 そう言ったところでふと、僕は男の名前を知らないことに気付いた。
 思えば、今まで相手の名前を聞く余裕がなかったのだ。
「ところで、先程から君の名前を聞いていなかったな」
 名前を教えてくれないか。そう尋ねる前に男は答えた。
「わたしは……『レントン』という名前だ」
 男の名前を聞いたその時、僕ははっとした。というのは、その名前に聞き覚えがあったからだ。
 二年ほど前に下水道から助け出した行き倒れの男もレントンという名前だったはずだ。ギルド番人がひどく悲しそうにその名前を口にしていたことは今も覚えている。
 確かによく見てみれば目の前の男には下水道で倒れていた男の面影がある。
 では、あの時の男は生きていたのか。無事と言っていいかはやや考えものだが。
 レントンは動揺する僕の顔を見ながら怪訝そうに尋ねた。
「……すまない、どうかしただろうか」
「あ。いや、君とはずっと前に会ったような気がしてだな。俺は『バルザック』という」
「バルザック……か。あなたとは初対面だと思うが……」
 その口ぶりからして相手は僕のことを覚えてはいないようだ。
「しかし、こんな傷をずっと放っておいて痛かっただろう。何故こんな傷を……?」
 僕の問いにレントンは再び黙り込んだ。その表情はひどく困っているようにも考えこんでいるようにも見える。
「話したくない理由なら、無理に話す必要はない。すまない」
 先程の彼の状態からして、どうやらあまり深く踏み込むのは良くなさそうだ。
 暫く沈黙が続く中、不意にレントンが躊躇いがちに口を開いた。
「突然変なことを聞くが……あなたは、今までに死にたいと思ったことがあるだろうか」
 僕は突然の問いに不意を突かれた。この人は一体何を聞くのだろうか。だが、相手は真面目な顔だ。
「死にたいと思ったことがあるかって……そうだな。生きていればそりゃ辛いと思うことはあるが、死にたいとまで思ったことはないな」
「やはり、死にたいと思うのはおかしいことなんだろうか」
 レントンは爪が伸びた右手に目をやりながら話し始めた。
「先程にギルドを飛び出したと言ったが、街をさまよううちに全ての人がわたしを蔑んだ目で見ているような気がしたんだ。それがとても怖くて……」
「だからあんな怯えた顔をしていたのか……」
「そんな中でたまたま子供を連れた母親が通りかかったのだが、その子供が何かを言いながらわたしを指差したんだ。彼は笑っていた」
「ほう」
 僕はレントンの話に耳を傾けながら頷いた。
「その母親は彼の関心をわたしから逸らすようその手を引いていったが、彼女の態度もわたしを『みっともない男だ』と言おうとしているようだった」
 そう語る目の前の男の顔はとても悲痛だ。
 子供とはおしなべて無邪気なものだが、無邪気さゆえの容赦なさを見せることもある。
 そして、そんな子供の言動を咎めるべき大人もまた彼らと同じように容赦ないことを考えていることはとても多い。
 それを言動で示されることは心がひどく傷付きやすい状態にある人間にとってとても耐えられたものではないだろう。
「その子供にも悪気があったわけでないだろう。だが、そこでわたしは気付いてしまったんだ。この街の湖にとても醜い男が映っていることに」
「俺は君のことを別に醜いとは思わないが」
 僕から見ても目の前に座る男の顔は決して醜くはない。ただ、いやに神経質そうだとか陰気だというような印象は持たざるを得ないが。
「人目を避けて路地裏のゴミ箱の陰に座り込んでいても、子供の笑い声が頭を離れなくて気が変になりそうだった。そうしたらいつの間にか……」
 そこで、レントンは自分の左手に視線を落とした。
 ふと、路地裏でこの男を見つけた時のことを思い起こす。あの路地裏に足を踏み入れた時、僕は確か大量のガラス瓶の破片を踏みつけた覚えがある。
「その傷は……」
 思わず尋ねようとしたが、もう問う必要もなかった。
 レントンは消え入るような声で呟いた。
「ああ……だが、これはいつものことなんだ。とてもおかしい話だが、別に死ぬつもりでこんなことをするわけではないのだろう。こんな自分の全てが醜いことは分かり切っている。こんな人間など、死んでもいいとさえ思えてくる」
 そのうち、僕は胸のあたりがやけにむかむかすることに気付いた。この男は何故そこまで自分自身を無下に扱うのだろう。
 目の前の男を殴りたい衝動に襲われた僕はこぶしを強く握りしめ、それを抑え込んだ。
 ここで暴力に訴えても仕方ない。僕は深く息を吸い込んだ。
「レントン。俺からは君に死ぬなと言うことはできない。だが、君が死ねば俺たちがその死体の後始末をしなければいけないんだ」
「あなたが……死体を? 」
「言い忘れていたな。俺たちは普段この街の掃除をやっているんだが、必要な時は死体処理の仕事をすることもある。あまり褒められたような仕事ではないが……」
 この街では通常、死体の始末は清掃員が行っている。そうした事情もあってこの清掃員という仕事が尊敬の目を向けられることはない。
 だが、死体を放置しておけばそれはやがて腐敗し、人々へ様々な病をもたらす元となってしまう。それ故に誰かがしなければならない仕事なのだ。
「この街にも家などで誰にも気づかれないまま一人ぼっちで死ぬ人間がいる。大抵そんな人間の死体は外に腐敗臭が漏れたとか虫が湧いたとかで気付かれるものなんだが、彼らの家の掃除をしに行くこともあるんだ」
「この街には芸術家が多いことは君も知っていると思うが、あいつらは孤独を好む奴が多いから尚のことそんな風に死んでいく奴も多い。この間掃除に行った家も芸術家のだった」
 ――芸術家。この言葉を耳にした瞬間、レントンの表情が歪んだ。
「つい変な話をしてしまったな。すまない」
「いや、もっと聞かせておくれ……聞きたいんだ。続けてくれ」
 そう哀願するレントンの表情は苦痛に満ちていた。本当に話を続けてもいいのだろうか。
「……俺たちがこの間死体処理にあたった芸術家は誰にも気付かれないまま部屋で一人死んでいた。その死体はかなり腐敗が進んでいて、元の顔や年齢どころか男か女かすら分からなくなっていたんだ」
 部屋中を飛び回る羽虫。どす黒い体液が滲んだボロボロの絨毯。テーブルの上のカチカチになったパンと僅かな金貨。床に散らばる何枚もの絵とその上を這い回る無数の蛆虫。
 あの青年は生活にも困窮していたのだろうか。それでも彼は絵を描くのを最期までやめなかったらしい。
「死体を見るのはやはり辛いことなのだろうか」
 レントンは尋ねた。
 確かに、初めて死体処理にあたった時は食事もまともに喉を通らず、夜には繰り返し悪夢を見続けていた記憶がある。
 今では食事ができなくなるとか悪夢を見るといったことも減ったが街の清掃のかたわらで行っている死体処理の仕事には今もなお慣れることができない。
「そうだな。死体を見るのもその処理をするのも中々辛いものがある。俺は蛆虫にたかられながらボロボロに腐っていく君の姿なんて見たくないな」
 そう答えた僕に対し、レントンは恨めし気に問いかけた。
「それはやはり死体が醜いからなのか? それとも、死体になった人間に触れたくないからなのか?」
 僕を睨みつける彼の目はどんよりとした鈍い光を放っている。
 僕はその充血した目に何とも言い表せない恐怖を感じて震え上がった。
「いや、そんなことではないんだ。落ち着いて聞いてくれ」
「すまない……どうかしていた」
 怯える僕を認めたレントンは今まで僕に見せていたひどく悲しそうな表情に戻った。
 僕は囁くように話を続けた。
「さっきは一人で死んでいった芸術家の家の話をしたが、彼の部屋には何枚もの絵が残されていたんだ。あとは絵描き道具と僅かな金貨、硬くなったパンだけが残っていた」
「彼も、画家として成功しないまま人生を終えてしまったのだな……」
「そうだな……おそらく生活にも困っていただろうが、死ぬまで絵を描くことだけはやめなかったのだろう……」
 大抵の人々はかつて人間だったはずの死体を見ては「汚い」だとか「臭い」と言うが、腐乱した死体に対してそうした感想を抱くことは仕方ない。
 だが、もしその死体が彼らにとって顔見知りの人間であったとしたらそんなことを言えるはずがないだろう。
「例え見知らぬ人間の死体でも、蛆虫に食い荒らされて人の姿をやめてしまったような死体でも、かつては俺たちと同じような生活や人生があった」
 そこで、僕は思わず咳き込んだ。ずっとしゃべり続けているからだろう。
「すまん、喉がかれてだな。それからだ、俺たちは死体処理と同時に死人の遺品の処分もするのだが、それはその人の生きていた証を消していくようでどうにもやるせなくなるんだ」
「遺品……か」
 レントンは熱に浮かされたような顔で呟くと、それっきり黙り込んだ。
「おい、どうしたんだ?」
 僕が呼びかけても彼は呆けたまま返事をしない。光を失った目はどこか遠くへと向けられている。
「おい。大丈夫か?」
 先程より大きな声で呼びかけると、レントンの目に光が戻った。
「ああ……大丈夫だ」
 だが、彼の表情は引き攣り、視線はぐらぐらと揺らいでいる。
 何度も繰り返される瞬きと共に鈍い光が不安定に渦巻く赤い目は、もう話を聞き続けることに耐えられないと語っていた。
「すまん。こんな話、無理に聞こうとしなくてもいい」
「すまない……」
 レントンはそれ以上の言葉を続けることができず、そのまま泣き崩れた。
 そして、彼は激しい嗚咽の中で言葉を絞り出すように呟いたのだ。
「この街はやはり……多くの人やものが人知れず、失われていく場所なんだな。いや、この街だけでなくこの世界が…………」
「本当にすまん。もう泣かないでくれ」
 僕にはただ、そんな言葉をかけることしかできなかった。
 やがて、いくらなだめても泣き続けるレントンを見るうちに罪悪感がひたひたと押し寄せた。
 僕はどうしてこんな話をしてしまったのだろうか。
 ただ僕は死体と向き合う中で感じていた辛さを一方的に吐露したかっただけだったのではないか。
 それはこの人をさらに絶望させることになったのではないか。
 でも、そもそもこの人がこんな話を聞かせてくれと言ったのだ。
 話を聞いておいてなりふり構わず泣くくらいなら、最初から聞かせてくれなんて言わなければ良かったのではないか。
 自分のした話で相手にここまで泣かれるとこちらもつらくてしかたない。
「どうしてこの世界で生きていかなければいけないのか分からない、こんな世界で生きる価値が見出せないんだ」
 その言葉を引き金に、僕の抱いていた罪悪感は突然にレントンへの怒りへと形を変えた。
「……そんなに生きるのが嫌なら、俺は君を止めはしないよ。いや、俺なんかに君を止められないだろう。だが、誰も困らせないように死ねばいい。俺は君の死体の処理なんてしない」
 気が付くと僕は怒りにまかせてそんな言葉を吐いていた。
 僕の言葉に、レントンは目を見開いた。涙でぐしゃぐしゃになったその顔には濡れた前髪がべったりと貼りついている。
 彼は口を小さく開いたまま唇の端を引き攣らせるだけで、その様子からは大きな衝撃を受けていることが読み取れた。
 その大きく見開かれたままの目からは涙が零れては頬や顎を伝い落ち続けているが、それを拭うことも忘れてしまっているかのようだ。
 その様子を見るうち、僕は心底から目の前の男が哀れに思えた。
 一体何が悲しくて、自分よりかなり年上であろう男の泣いた顔を眺めなければいけないのか。
 でも、それは元々僕の蒔いた種だ。だからもう仕方ない。
 僕は何かを諦めたような思いでうんざりとしながら語りかけた。
「……君の死体を見ても放置するだなんて嘘だ。死体は放置していたら恐ろしい病気の元になるからな」
 いくら嫌な人間の死体でもそれを放置し、街の衛生を守るという責任を放棄すれば掃除屋として失格だ。
「それからだ。まさか、森の奥とか誰にも見つからない場所で死のうとか思っていないだろうな。そうすれば君は『行方不明者』になる」
 仮に森の奥など人が寄りつかない場所で死んだとしてもその人は「行方不明者」として扱われ、多くの人がその人を捜すこととなる。
 もし死んだ場所が危険な場所であれば死体を捜す中で犠牲になる人間が出ることもあるかもしれない。
「行方不明者を捜すのは危険が伴うこともあるんだ。そんな時は命を落とす人が出ることだってあるだろう。君だってそれは分かるはずだ」
「……」
「もちろん、この街にある下水道に身を投げるのも駄目だ」
 黙ったままのレントンに対し、僕はさらに毒づいた。
 その時、レントンが顔を妙に引き攣らせたのを僕は見逃さなかった。
 彼は何かを言いたげに口をぱくぱくと動かしたが、掠れた声を漏らすだけだった。
 少し言いすぎてしまっただろうか。
 そう考えたところで、先程自分の吐いた言葉に対する罪悪感がふつふつと湧き出てきた。
 死にたがっている人間に対して死ねばいいなどの突き放すような言葉を吐くなんてやってはいけないことのはずだ。
 仮に目の前の男が僕の前で死んでしまったとすれば、それは到底耐えられるものではない。
「……きついことを言ってすまん。俺は君が死んでしまうなんて考えたくもない。俺個人の気持ちとしては君には死んでほしくないんだ」
 僕のこの言葉には多分嘘はないはずだが、それを吐露したところで胸のもやもやは取れなかった。
 レントンは手で顔を拭おうとしたところでその手を止め、先程から右手に握っていたタオルの存在を思い出したかのようにそれで顔を拭った。
「わたしの方こそ取り乱して本当にすまない。そうだな、どんな方法で死んでもきっと誰かの手を煩わせることになってしまう。あなたには話しておきたいことがあと一つあるのだが、また話をする機会があった時に話してもいいだろうか……」
 レントンはそこまで話したところで口を閉じ、無理やり涙を止めようとするかのようにタオルを目と鼻の辺りへ何度も押し当てた。
 彼の話したいこととは何だろうか。やけにそれが胸に引っ掛かった。
 だが、今までの彼の様子からすれば無理に聞くことはしてはいけないだろう。
「ああ、いいんだ。話せるようになってから話してくれればいい……そんなに目をこするのはやめた方がいい。瞼が腫れてしまう」
 僕は、すっかり目を腫らしたレントンを軽く諌めながら窓の方へと目をやった。
 窓の外では、陽が傾き始めていた。
「ああ、そうだ。ギルドの方には戻らなくても大丈夫なのか?」
 僕が問うと、レントンはいささか怯えたような顔を見せた。どうやら大丈夫ではなさそうだ。
「どうやら早めに戻った方がいいみたいだな。そんなに怖がることはないだろうよ。ギルドの人間も君のことを心配しているんじゃないか」
「……そうだな。勝手に逃げ出してきたのだから咎められても仕方ない。そろそろ失礼させてもらおう」
 レントンは半ば観念したような表情をしながら椅子から立ち上がった。
「ああ。玄関のところまで送るぞ」
 そうして、僕はレントンを見送った。
 
 レントンを見送り、居間に戻った僕はため息をついた。
 家に人を招き入れるのはどれくらい久しぶりのことだっただろう。
 この部屋は人を招いてもいいように毎日綺麗に掃除していたが、人を招くことなど殆どなかった。
 清掃員の仲間とは少なからず関わりはあるが、それはあくまで仕事上での付き合いだ。
 決して知人がいないわけではない。だが、自宅に招き入れるほど親密な人間がいるわけでもない。
 そして、僕は特に職業ギルドに所属しているわけでもないのでそうした繋がりもない。
 そんな僕もまたあの孤独死した芸術家と同じように孤独なのではないか。
 僕がいつか死ぬ時、僕を腐乱死体になる前に見つけてくれる人間はいるのだろうか。
 そして、死んだ僕に花束をたむけてくれる人間はいるだろうか。
 もし僕が死んで腐乱死体になったとしたら、その死体はゴミのように片付けられていくはずだ。
 人は死んでただの肉塊になった瞬間から腐っては虫を呼び、街の衛生や景観を害するゴミでしかなくなるのだろう。
 そんなことを考えるうち、僕は妙な悲しさに襲われた。
 意味もなく部屋を歩き回ってみるが、それで胸のもやもやが晴れることはない。
 そこで何気なしにテーブルの方へ目をやると、椅子の背もたれに淡い紫色の布が引っかけられていた。
 それはレントンが身に着けていたスカーフだった。どうやら椅子にかけたまま忘れていったらしい。
 これは今ギルドへ届けに行くべきだろうか。だが、もう陽は沈みかけている。
 これはやはり本人が取りにくるのを待つべきだろう。それまではここに置いておいた方がいい。
 それにしても、今日は面倒くさい人と関わってしまったものだ。そのせいで普段よりも増して疲れた気がする。
 相手はこの家に忘れ物をしていったのだから最低でもあと一度ほどは顔を合わせることになるだろう。
 だが、それを別に悪いことではないと思っていたのだった。
 
 *おしまい?*
 

 

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