忍者ブログ

資源ゴミ置き場

あまり健全ではない文章を置いていく場所だと思います。

[1]  [2]  [3]  [4

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


水と芸術の街に赤い花を(前半)

 
 (まえがきのような何か)
 この文章はイルヴァ資料館(など)で明らかにされていたレントンとグレースさんの設定を元に書いていたものでした。
 何かどうも色々なところでまどマギの影響を受けている感が否めない。
 語り手はまたしてもレントン教授。それからおはながいっぱいでてくるよ。
 文中にはややグロテスクな表現を含むので閲覧はご注意ください。特に後半はだいぶグロテスクな表現が増えているのでなおのことご注意ください。あと、レヴラスさんがすごくうるさい&口が悪い。
 (2014年9月20日追記)
 文章を少し改造しました。レヴラスとレントンのやり取りがかなりえぐくなっている。
 (2016年2月2日追記)
 更に改造しました。
 

  
 私は目の前に咲く赤い花を、遥か昔にどこかで見た覚えがあった。
 その花は葉を持たない茎だけが地面から伸びており、赤くて細い花弁と花糸が放射状に広がって車輪のようとも血飛沫のようとも言える独特の形を構成している。
 その花が「死人花」や「幽霊花」、「地獄花」といった、いかにも不吉な異名をいくつも持つと私が知ったのは魔術士ギルドにある書斎で薬草に関する書物を読んだ時のことだった。
 その書物によれば、死臭の漂う異名をいくつも背負わされたこの植物は毒を持つためネズミ除けに利用されていたようである。そして、人がこの植物を口にした場合は嘔吐や下痢を引き起こし、最悪の場合は死に至ることもあるという。
 その一方、この毒は長時間にわたって水にさらせば水に溶け出してしまうので飢饉時には水で解毒した球根を食して多くの人が餓死を免れたようだ。
 私は今、この美しくも奇妙な形の花が一面に咲き乱れる地に一人立ち尽くしていた。
 私が今いるこの場所は此岸なのだろうか。それとも此岸のまた向こうにある地なのか――――。
 
 
 重い瞼を開くと、私は白いシーツの上に枕を抱いて横たわっていた。
 窓の外では小鳥がさえずり、朝日が部屋を照らしている。
 そうだ。私は眠っていたのだ。先程まで私が見ていたものは夢だったのだ。
 それにしても、奇妙な夢を見たものだ。あの夢には一体何の意味があるというのだろう。
 ぼんやりとした頭で寝床を出た私はスリッパを履いて洗面所へと向かう。
 そして、いつものように歯を磨いて髪を梳き、顔を洗って洗面所を後にした。
 台所に行くと、見慣れた顔の少女が朝食の準備をしていた。彼女は六つ歳の離れた妹だ。
「兄さん、おはよう」
 妹は私を見ると優しく微笑んだ。
「ああ、おはよう。グレース」
 私もまた、妹へと微笑みかける。
 テーブルに目をやると、その上にはこんがり焼けたパンとトマトサラダの皿が置いてある。
「兄さんが起きるの、準備して待っていたわ。朝ご飯にしましょう」
 グレースはにっこりと微笑んだまま、椅子に座った。
 そして、私もそれに続いて妹の斜め前の椅子へと腰をかけた。
 食前の祈りを終えると、私はふとサラダの皿へ目をやった。これはグレースが作ったようだ。
 私がサラダへ手を付けたことに気付くと、彼女はやや慌てたような顔を見せた。
「あ、あのね。そのサラダ、私が作ったんだけど上手くトマトが切れなくて……いびつな形になっちゃって。いくつかは潰れちゃったからごめんね……」
 確かによく見ると、皿の上で切り分けられたトマトはいささかいびつな形をしていて潰れているものもある。
 いびつに潰れたトマトからは、慣れない手つきでトマトを切ろうと頑張る妹の姿が容易に想像できた。
「いやいや、謝らなくてもいいよ」
「でも……」
 グレースはしょんぼりとした顔で俯く。そんな彼女へ、私はトマトを咀嚼して飲み込みながら微笑んだ。
「グレース、失敗したとしても今回は確かに頑張ったのだろう? 今回は失敗してもこれから上手くなっていけばいいんだ。確かにトマトは潰れているが、味はとても美味しいよ」
 そう諭す私の声は、自分自身でも驚くほどに優しかった。
 私は、これまで妹にこんな優しい声で語りかけたことがあっただろうか。あったとすれば、最後にこんな声で語りかけたのはいつだったのか。
 ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
「……ふふ、そうね。兄さんの言う通りね」
 グレースの顔もまた私と同じくほころんでいく。
 そんな彼女の笑顔を前にすると、先程の疑問などどうでもいいことだった。
 これからはもっと、グレースとこんな風に話をしよう。もっと話を聞いてやろう。
 そんな決意が、私の中では芽生えていた。
 そうして、私と妹は談笑しながらの朝食を楽しんでいたのだった。
 
 
 ギルドでの講義を終えて自宅へ戻った頃には夕方になっていた。
 私は玄関に入ると、そっと扉を閉めた。
 部屋ではグレースが絵を描いているようで、こんこんと筆を動かす音が聞こえてくる。
 私はその音をやけに懐かしいものに感じた。毎日聞いているはずなのにどうしたことなのか。
 私は何か大事なことを忘れているような気がする。
 だが、それは気のせいだろう。気のせいだと思いたい。
 私は首を振ると、脱いだコートをハンガーにかけて壁に下げた。
 やはり、何か「気のせい」では片付けられないことを忘れているような違和感がどこかにある。
 それが思い過ごしであるなら全く構わないのだが、心の隅にぼんやりとした不安が渦巻いているようだ。
 私が「忘れていること」というのは早く思い出さなくてはいけないことなのではないか。
 いや、今日は大講義室での講義を行ったから疲れているのだろうか。疲れていると全くろくなことを考えないものだ。
 先程まで着ていたコートの裾の縁に施されている刺繍をぼんやり見つめていると、不意にグレースのいる部屋の扉が開いた。
「兄さん……? 帰っていたの? おかえりなさい」
 その声は、思考の中をさ迷っていた私を再び現実へと引き戻した。
「……ああ。ただいま。今帰ってきたところだよ」
 ペインティングナイフを片手に持ったままの妹へ私は微笑んだ。
「あのね、兄さん」
 グレースが再び口を開く。
「ん、どうしたんだ?」
「今日の朝から描いていた絵が完成して乾かしているところなんだけど、ちょっと兄さんに見てほしいなって……」
「ああ、いいぞ。乾かしている途中なのに大丈夫なのか?」
「うん。触らなければ大丈夫。もし触ったら絵具が指に付いて取れなくなっちゃうわ」
 そう言いながら笑うグレースの両手は様々な色の絵具で汚れている。
 私はグレースに続き、そっと彼女の部屋へと足を踏み入れた。
「この絵なんだけど、兄さんから見てどうかな」
 グレースの指差すカンバスには赤い色の丸い果物と、それより少し黒い果物が二つ描かれている。
「これは何ていう果物なのかな」
 私は尋ねた。
「これはね、『ラズベリー』と『ブラックベリー』いう花の実。机の上にあるそれ」
 妹の指差す方へ目をやると、絵に描かれた果実と同じ形の小さな実が机の上に三つ置かれている。
 それらの果実は指でつまむ程度の大きさしかない。これを大きく描くのは私が思っているより難しいはずだ。
「おお……この赤いのがラズベリーで、黒いのがブラックベリーというのか。こんな実、どこで成っていたんだ?」
「家の近くにたくさん生えていたのを取ってきたの」
「そうか。こんな小さい実なのによく頑張ったな」
「ふふ、お世辞はやめてちょうだい。あ、そうそう。ラズベリーとブラックベリー、たくさん採ってきたから台所で洗っているの。ジャムにしたりパイを作ったりして、それで、パイはわたしと兄さんとで半分こにしましょう」
 妹は照れくさそうに笑いながら台所のある方向を指差した。
 ――ああ、そうだ。私はこの笑顔が「もう一度」見たかったのだ。
 ギルドでの業務を終えて妹との時間を過ごす。これは、私がかつて夢見た理想の日常だったのだ。
 それが手に入った今、私が「幸せ」だと感じていたことは確かなことだった。
 
 
 それは妹との生活を送る日々が一ヶ月ほど続いていた頃だった。
 その日の私は講義を行うため、魔術士ギルド内の講義室へ足を踏み入れた。
 それから程なくして、講義の始まりを知らせるベルが室内に鳴り響く。
「今から今日の講義を始める。くれぐれも講義中の私語や飲食は慎むように」
 壇上から前方の生徒たちへ呼びかけると、私はいつものように喋り始めた。
 講義を始めてからどれくらいの時間が経ったのか。壇上で喋り続ける私の声に混じって私語をする生徒の小さく囁くような声が聞こえ、いびきまでもが微かながらも聞こえ始めた。
 どうしても講義というものは生徒たちにとって退屈らしい。それ故に居眠りや私語をする者が出るのは避けられないようだ。私自身、講義を受ける側の人間だった頃は講義に退屈して眠ることは幾度かあったはずだ。
 かつて、助教授として教壇に立つ側となったばかりの頃の私は生徒が退屈しない講義をいかに行うか、いかに生徒の立場に寄り添う講義を行うかと心を砕いていたような覚えがある。だが、いつしか私はそれを諦めてしまったのだ。
 いつだっただろう。私が教壇に立つ者としての努力を諦めてしまったのは。
 果たして、講師とはただひたすら退屈し続ける生徒たちを前にそんなものだと諦めながらただ一方的に喋り続ける存在でいいのだろうか。
 教壇という舞台の上で相手が自分の話を真面目に聴いていないことを知りながらも、だからといってどうすることもできず一方的に喋り続けるだけの存在になりたいなんて過去の私は思っていなかったはずだ。
 もしかすると、私という人間は所詮講義室という空間を構成する舞台装置の一つでしかないのかもしれない。舞台装置であるという点は生徒たちも私と同じだ。
 つまり、この舞台を構成するものとしての講師役は必ずしも私である必要などない。
 それにしても、講義室という空間は途方もない魔力に満ちている。足を踏み入れた人間を片っ端から舞台装置として取り込んでそれぞれの役割を強いてくるのだから。
 舞台を操っているのは決して私ではない。そして、生徒たちでもない。敢えて言うとすれば「講義室」自体が強大な魔物のように私たちを現実から疎隔して舞台装置たらしめているのだろう。
 私はとことん無力だ。そして、生徒たちもまた無力である。
 生徒たちに見えるよう黒板に魔法の呪文を白墨で書き殴ると、私は振り返って生徒たちへ目をやった。
 彼らは相変わらずだ。やはり、そんなに私の講義はつまらないだろうか。
 その時だった。講義室の様子がおかしいことに私が気付いたのは。
 講義室にいる生徒たちは皆一様にのっぺらぼうだ。その様子はまるで人形が並んでいるかのようで非常に不気味でもある。
 そして、窓の方に目をやると外の風景も歪んでいる。
 先程までこの生徒たちは皆「顔」を持っていたはずなのに、それが突然無くなるだなんて一体どうしたことか。
 ふと床に視線を落とすと、床もまた液体のように揺らいで波打っていた。
 これは何なのだろうか。目に見えるもの全てが変な風に見えるほど私は疲れているのだろうか。
 何かに縋るように、私は古びた懐中時計へ目をやった。
 ――時計の針は正しく動いている。そうだ。間もなく講義を終える時間だ。
 これで私たちはこの苦痛に満ちた舞台から降りることができる。
 もし、講義というものに終了時刻がなければ私たちは永遠の絶望ともいえる舞台に閉じ込められたままも同然だ。舞台装置として永遠に続く無力感を噛み締め続けなければいけないだなんて恐ろしい話だろう。
「これで、今日の講義を終わりにする」
 私が壇上から叫ぶと、舞台装置の生徒たちはそれぞれが蜘蛛の子のようにバラバラに散っていった。
 再び生徒たちに目をやると、彼らはそれぞれの顔を持ち、全くもってのっぺらぼうなどではなかった。
 ――――先程のは何だったのだろう。きっと疲れているのだ。
 これからは終演を迎えた舞台の後始末をしなければいけない。それが私の役割なのだから。
 解体されていく舞台装置の中、私は一息ついて伸びをした。
 
 
 講義の後片付けを終わらせた後、私は街に出ていた。
 この街は相変わらず吟遊詩人と芸術家で賑わっている。そして、至るところに女神の石像が立っている。
 空は不気味なほどに青く、雲一つない。ただただ青だけが私の頭上を埋め尽くしているのである。
 そして、一面の青にぽつんと開いた穴のように黒い太陽が光を放っている。
 思わず手で右目を押さえると、私はそのまま空から視線を外した。
 太陽の光はまるで眼球を突き刺すようで、長く見つめてはいられない。
 だが、かつて太陽を見ていてここまで目が痛むことはあっただろうか。まるで文字通り眼球を刺されたかのようで、ずきずきと脈打つような痛みに涙まで出る始末だ。
 もう私もいい歳をしている。そろそろ身体にもがたが来る頃なのだろうか。
 視力を失ってしまえばこの目に映る世界をも失うことになってしまう。
 私は、出来ることならこの世界を失いたくない。
 そこで、ふと目を押さえていた右手に目をやると、その指の隙間は赤く染まっていた。
 ――これは一体何だ。何故目から血が出てくるのだ。
 驚きながら、止めどなくこぼれる涙を左手で拭うと、それもまた右手の指に絡む色と同じだった。
 そうするうちにも、血は両目からぽたぽたと落ちて地面に赤い斑点を作り続けている。
 視界が塗り潰されようとする中、私は近くにあった建物の窓へと縋りついて助けを求めた。
 窓には叫ぶ私の顔が映っている。だが、視界が赤に侵食され出しているせいなのか、その顔は顎から上が見えなくなっていた。
 ガラス窓の向こうに人はいるのかいないのか。それすらも分からない。
「誰か助けてくれ!! 助けて……っ!」
 叫び続けるうち、私は不意にひどく咳き込んだ。その時、鼻と喉から血が噴き出したのが分かった。
 今や、私は両目からだけでなく顔中の穴という穴から血を垂れ流しているのだろう。
 間もなく、この目にはもう何も映らなくなる。この喉からはもう声は出なくなる。
 再び咳き込むと、窓に赤い血が飛び散った。
 それにしても、これだけ叫び続けているのに何故誰も助けを求める私に気付かないのか。
 普通ならば、路上で顔から血を流して助けを求める人間がいれば野次馬の一人や二人くらい来てもいいはずだ。
 私はそのまま街の隅に倒れ込み、顔から地面に叩きつけられた。
 私が倒れてもなお、血は顔から止めどなく流れて地面を赤く染め続けていた。
 意識が途絶える直前、視界の隅にごろごろと転がる球状のものが見えたが、それが何かは分からなかった。
 
 
 目を覚ますと、私は真っ白なベッドの上に寝かされていた。
 身体を起こして辺りを見回すと、部屋は天井も壁も真っ白だ。
 そして、先程まで寝ていたベッドの縁には転落防止のためなのか真っ白な柵が取り付けられている。
 その様子からして、この部屋は病室なのだろうか。
 その時だった。部屋中に奇妙な音が響き続けていることに私が気付いたのは。
 その音は耳鳴りの音ととても似ているが、まるで心臓の鼓動のように拍子を刻み続けている。
 やがて、その音は拍子を刻むのを止めて延々と連続する耳鳴りのような音へと変わった。
 この音は一体何なのだろうか。できれば長く聞いていたくない非常に不愉快な音だ。
 何故なら、この音を聞き続けていると何か思い出したくないものを思い出してしまいそうだからだ。
 ――思えば、この「思い出したくないもの」とは一体何なのだろうか。私は一体何に怯えているというのだろうか。
 私はそれを思い出さなくてはならないと考えている。だが、その反面で思い出すことを拒絶し続けている。
 いつだったか、魔術士ギルドの講義を終えて自宅へ戻った時に襲ってきたぼんやりとした不安もこの「思い出したくないもの」に由来するものだったのではないか。
 暫くベッドの縁に座って茫然としていると、扉の開く音が耳鳴りを遮った。
「……兄さん?」
 聞き慣れた細い声に振り返ると、そこには真っ白な花束を抱えた妹が立っていた。
 長い裾の真っ黒なドレス。顔を覆うための黒いベールが付いた帽子。両手にはめられた黒いレースの手袋。
 その姿はまるで喪服のようだ。いや、喪服そのものだと言っていい。
「グレース……?」
 私は妹の名を呼んだ。その声は、声の主である私自身も驚くほど虚ろだ。
「兄さん……」
 私を呼ぶグレースの声はとても悲しげだ。そして、その目には僅かに涙が滲んでいる。
「グレース、一体ここはどこなんだ。そして、どうして喪服を着ているんだ。それから、どうして泣くんだ」
 私は状況が飲み込めず、次々にまくし立てた。
「兄さん。今日は、とても大切な人を送る日なの。だから……」
 大切な人を送る日。それが何を意味するかはすぐに理解できた。
 だが、私はまだ混乱したままだった。
「送る……? 誰を送るのか、一体誰が死んだのか教えてくれないか、教えてくれ」
 私が尋ねても、グレースはただ首を横に振るだけで何も言わない。
 そして、彼女はその手にもつ花束を私へ手渡したのだ。
 一体どういうことなのか。どうして妹は花束を私に渡すのか。
「グレース、これは一体どういうことなんだ……?」
「これは『ネリネ』の花。違う国では『ダイヤモンドリリー』とも言うの」
 私の問いに、グレースはただ淡々と答えた。
 そして、彼女はまるで楽しげに踊るかのようにくるりと背中を向けた。
「あのね、兄さん。この花には『幸せな思い出』という意味があるんだって。わたし、とても幸せだった。本当に、本当にありがとう……」
「グレース、待ってくれ。私の質問に答えていないじゃないか。お願いだ、行かないでくれ。まだ行くな。私の傍にいてくれ」
 私は部屋を出て行こうとする妹を引きとめようと手を伸ばすが、何故か腰に力が入らず立ち上がれない。
 私の叫びに、グレースはただ一度だけ振り返った。
 そして、最後に微笑みながら言ったのだ。
「また会えるのなら、どうかその日を楽しみにしていて」
 と。
 白い扉が重い音を立てて閉まる。妹の足音が遠くに消えていく。
 そうして、真っ白な部屋には私とネリネの花束だけが残された。
 手の中に残る花束へと目をやる。
 この花はどうやらいくつもの花が集まって一輪の花を構成しているようだ。
 そして、「ダイヤモンドリリー」という異名に相応しく一枚一枚の花弁が光に透けて輝いている。
 暫くすると、グレースが残していったネリネの花は全て萎れて真っ白な灰になり、指の隙間をすり抜けていってしまった。
 そうだ。今になって思い出した。
 私の妹――グレースはもうこの世の人ではないのだ。
 今までの妹との楽しかった日々は私の絵空事にすぎなかったのだろう。
 それから、この世界にはどうも腑に落ちないことがある。少し考えてみれば矛盾に満ちているのではないか。とにかく、何かがおかしい。
 何かがおかしいというよりは、忘れたままのことがまだあるのではないか。
 そもそも、ここは一体どこなのか。それすらも分からないままではどうしようもない。
 私はやけに静かな胸に手を当て、息を吐いた。
 さて、一体何から思い出そうか。
 まず、私が今までこの世界で一緒に暮らした妹の存在は確かなことだ。妹の名はグレース。彼女は私が六歳になろうという頃に生まれたのだ。
 目を閉じると、ゆりかごの中で眠る妹の顔を丸い目で覗き込む幼い私の姿が見えた。
 幼い日、妹と絨毯に寝そべって画用紙に絵を描いて遊んでいた時間はとても楽しかった。
 それから、いつの日だったか。半分こにしようと妹に手渡された赤黒いベリージャムのパイがとても美味しかったことを覚えている。
 だが、妹は何故私より先に死んでしまったのか。
 そこで視界が開け、棺に納められた妹を感情のこもらない目で覗き込む青年の私が見えた。
 そうだ。妹が物言わぬただの肉塊になってしまったのは――――――。
 気がつくと、私は発作的に立ち上がり、頭を壁に打ち付けていた。
 何度も頭を叩きつけ、眩暈に襲われたところで私は床にへたり込んで頭を抱え込んだ。
 これ以上は駄目だ。妹の死にまつわる出来事を思い出してしまえば私は自我が保てなくなるだろう。
 次は妹ではなく私自身のことについて思い出そう。
 私が住んでいた、吟遊詩人と芸術家で賑わう水と芸術の都は何という名前の場所だったのか。
 私はその街のギルドで講師をしていたはずだが、いつから私は講師をしていて何を教えていたのだろうか。
 私は一体何という名前を名乗っていたのか。そして、今の私は何歳だったのか。
 そうして思考を巡らせるうち、私は恐ろしい事実に気付いたのである。
 それは、私が自分の年齢、それに加えて自分の名前すら思い出せなくなっていることだ。
 今の私が思い出せることは六歳年下の妹が「グレース」という名前だったこと、絵を描くのが大好きだった妹がもう既に故人であるということだけだった。
 ベッドの脇にある小型テーブルに目をやると、その上には一つの花瓶が置かれていた。
 いつの間にこの花瓶はあったのか。花瓶にはほつれた錆色の包帯が巻きつけられている。そこに活けられているのは四枚の白くて丸い花弁をつけた花だ。確かこの花は「芥子」と呼ばれるものだったか。
 その白い花からは奇妙な匂いがした。
 その匂いは私から一つずつ記憶を奪っていく。
 そして、その傍には一枚の紙が置かれていた。
 縋るようにしてその紙切れへと目をやる。
 ――全てを忘れて安らかに眠れ。忘却の花と共に。
 紙切れにはこのような意味の言葉が、これまで見たことのない言語で書かれていた。
 何故見たことのない言語で書かれた文を読めたのか、そもそもこの文を書いたのは誰なのか、そんな疑問が湧いたが、それよりも私は憤慨せずにいられなかった。
 ふざけないでくれ。全てを忘れてここで眠り続けろというのか。私はそんなことなど望んでいない。
 まずはこの不気味な病室を出ていかなければ。そうしなければ本当に何もかもを忘れて永遠にこの部屋から出られなくなりそうだ。
 先程グレースが通った扉に駆け寄り、扉を開こうとするが全く開く気配はない。
「誰かここを開けてくれ……! ここから出してくれ!!」
 叫びながら扉を何度も殴りつけ、更には足で何度も蹴り続けるが、扉はびくともしない。扉の外を人が通る気配もない。
 そうするうちに両手足が重く痛み始め、疲れ果てた私はその場にへたり込んだ。
 扉からの脱出は無理らしい。それでも早く逃げなければ。
 ふと後ろを振り返ると、部屋に一つの窓があることに気付いた。
 再び立ち上がり、その窓を開く。
 私がいる部屋は一体何階なのか。窓の外を見下ろすと、地上が遠くに見えた。
 ここから飛び降りればまず助からないだろう。だが、他にどんな手段があるというのか。
 私は窓枠の上に立つと、左胸の辺りをぎゅうと強く握りしめた。
 その手のひらの中には、本来胸に手を当てたならばあるべきものがない。
 息を吸えば確かに胸は膨らむ。だが、それだけでは足りないはずだ。
 手の中に足りないものを考えるうち、背後からひたひたと絶望が押し寄せるのが分かった。
 この絶望の理由は考えればすぐに分かるはずだ。わざわざ手がかりを探す必要すらない。答えはこの身体が知っているのだから。
 でも、私はこの身の欠落をまだ認めたくない。どうか、今はまだ逃避させてほしい。
 私はそう願い、白い部屋から逃げるように身体を空中へ倒したのだった。 
    
PR

遺書。

 
 (まえがきのような何か)
 この文章は大体全てがねつ造だったり暗かったりなので留意していただけたら幸いです。
 文中のレントンさんは40歳すぎています。時系列はヴィンデール焼失後くらいか。
 

 
 
 ――もう水はたくさんだよ。溺れてしまいそうだ。
 いつだったか、あの人はそう言っていた。
 僕が最後にあの人と会った時、ルミエストは雪の代わりに桜の花弁で埋め尽くされていた。
 その時の僕は街のゴミ拾いをしている途中だった。
 そして、魔術士ギルド前にいたあの人は何かを思い詰めたような表情で湖畔に座っていた。
 彼は小石を手に取りながら低い声で歌を口ずさんでいる。異国の歌なのか。その内容は理解できなかったが、陰鬱な調子の歌だ。
 水辺には美しい歌声をもつ精霊がいるという。その精霊たちは若い女の姿をしているというが、もし男の姿をした精霊がいるとすればあの人はまるでそのような存在のように思えた。
 水の精霊たちの中にはその美しい歌声や魔力で人を惑わし、そのまま水へ引きずり込んで殺してしまうものもいるらしい。
 喪服のような真っ黒なローブを身に纏い、水辺で陰鬱な歌を口ずさむ髪の長い男の姿はいかにも人を水へ引きずり込みそうで不吉だ。
 事実、その頃のあの人はそのような危うさを帯びていた。四十を過ぎた頃からか、彼はめっきり快活さというものを失って周囲から孤立するようになっていた。
 何があったのか見当は付かないが、元々閉じこもりがちな面があったあの人はますます自閉的になって取りつく島をなくしていった。彼は僕に対しても段々と冷淡な態度を取るようになり、僕と彼とは疎遠になっていたのだ。
 この時、僕は暫くあの人に声をかけるべきか迷っていた。あの人はもう既にどこか遠くの存在になってしまったかのようだ。僕が声をかけても前と同じように冷淡な態度を取られるだけなのではないか。そう思うとどうしても声がかけられなかった。
 だが、暫くして僕に気付いたあの人は歌うのをやめて僕に向けて手を振った。
 ――バルザックか、久しぶりだな。丁度あなたと久しぶりに話をしたいと思っていたところなんだ。
 そう口にした彼からは先程に僕が感じた不吉な雰囲気は全く感じ取れなかった。僕の姿を認めた彼は水妖から人間へと姿を変えた。
 僕は今まであの人のことをどこか遠くに行ってしまった人だとか人ならざる存在になってしまったかのようだと思っていたが、それは思い違いだったのではないか。彼はこうして僕に笑いかけてくれるじゃないか。
 その時の僕はあの人が自ら声をかけてきたのを吉兆だと思い、ある種の安心を覚えていた。
 そうして僕は暫くあの人とは他愛のない話をしていたのだと思う。
 ――こんなに桜の花弁で埋め尽くされていたら掃除をするのも大変だろう。この時期は花弁を踏まないように気を使うので苦手だよ。
 あの日の彼はやけに多弁で、そんな風に僕たち清掃員を気遣うようなことも言っていた。それは今でも覚えている。
 最後にあの人が見せた、感情を取り戻した人間の姿はただの幻想だったのだろうか。それは分からない。
 それから一週間後のことだった。僕は朝にガードから「湖で人が死んでいる。その死体の処理を手伝ってくれ」という依頼を受けた。
 ガードの言うことによれば死体はおおよそ三十から三十八くらいの年齢になるであろう男で、どうやら湖に転落して溺れ死んだようだとのことだった。
 桜が咲く頃は誰もかれもが浮かれて突拍子もない行動に走りがちだ。浮かれた酔っ払いが湖に落ちたのだろうか。その時の僕はそんな風に思っていた。
 若い清掃員の仲間二人と共にその現場に赴くと、湖には淡い紫色の霧がかかっていた。
 何もこんな時期に死ぬことはないだろうに。僕はそんなことを思いながら群がる群衆を掻きわけてガードの元へ向かった。
 そして、湖に沈む仰向けの男を見たその時、僕は心臓の辺りを鉄の棒で殴られるような衝撃を覚えた。
 何故なら、その男の姿に見覚えがあったからだ。見覚えがあるも何も、一週間前に会ったばかりなのだから見間違えるわけがない。
 ――そんなことがあるなんて嘘だと思いたい。これは何かの冗談だ。
 僕は両目をこすり、再び死体に目をやった。やはり、僕が見ているものは夢でも幻でもない。目の前に横たわるのは、一週間前にこの湖の傍で歌を口ずさんでいた男だ。
 湖で死んでいた男とは、紛れもなくあの人――レントンだった。
 これは悪夢なんじゃないか。僕はそう思わずにいられなかった。
「おい、どうした。早く終わらせよう」
 二人の清掃員が呆然とする僕に声をかける。
「あ、ああ……」
 僕は掠れた声で返事をすると、両手に手袋をはめて清掃員と共に湖へ入った。
 何とか湖から引き上げたレントンを地面に横たえると、その鼻と口から泡状の白い液体がどろりと漏れた。そして、それに加えて鼻からは血までが流れ出している。
 その氷のように冷え切った白い手首に指を当てて脈を探るが、脈は全く見つからない。
 やはり、もう駄目なのだろうか。
 その時、僕は彼の衣服にごろごろとした重いものが入っていることに気付いた。
 これは一体何なのだろうか。
 僕はその衣服のちょうどポケットになっているところに手を入れた。何だか硬いものがいくつも入っているようだ。
 そして、そのままポケットをひっくり返す。
 ――ポケットに詰め込まれていたものは、大量の石だった。それも、クズ石や鉱石の欠片など種類を問わず無造作に詰め込むものを選んだらしい。石はコートのポケットからも、ローブの下に穿いたズボンからも出てきた。
「これは多分自殺だろう。多分、この大量の石で身体を重くして飛び込んだんじゃないか」
 僕の傍にいた、眼鏡の清掃員が呟いた。
 そして、もう一人のにきびが目立つ清掃員もまた口を開く。
「どんなつらいことがあったのかは分からないが、よりによって入水自殺なんて勘弁してくれよ」
 一方、僕は目の前の現実を受け入れられそうになかった。
 しどけなく解け、桜の花弁が絡みついた黒く長い髪。縁が赤い真っ黒なコートにも菫色のスカーフにも桜の花が纏わりついている。そして、力なく解けた両手の指にまで桜だ。
 目の前の男がもう既に死んでいることは頭では分かっている。だが、本当にこれは何かの間違いではないのか。まだどうにかしようがあるのではないか。
 気が付くと、僕は二人の清掃員に向けて言っていた。
「この人はまだ蘇生できるかもしれない。だから、魔術士ギルドへ行こう」
 と。
 ガードと清掃員はそんな僕を怪訝そうな表情で見た。
「何をしているんだ。早く、この人を連れて行かなくちゃ間に合わないんだ。お願いだから手伝ってくれ」
 僕は三人へ懇願するように言葉を続けた。
 だが、ガードも清掃員も首を横に振るだけだった。
 ガードは僕に向けて言う。
「君は何を言っているんだ。この人はもう死んでいる。見れば分かるだろう」
 と。
 二人の清掃員は言う。
「その死体は早く死体袋に入れて運び出さなくては駄目だ」
 と。
「嫌だ。そんなことは認めたくない。納得できない。できそうにない」
 僕は首を横に振りながらその場で泣き崩れた。
 三人はそんな僕を納得させるよう取り計らったのか、死体袋を魔術士ギルドまで運んでくれた。
 だが、もちろんのこと死体が息を吹き返すことなどなかった。
 ――彼が自ら命を手離して拒む以上はもう私にも手の施しようがない。彼の死を受け入れて楽にしてやることが、あなたが彼のためにできる最後のことなのではないか。
 死体の手を握りながら泣き崩れる僕を諭すように癒し手は言った。
 そうして、僕は鼓動を失ったレントンの手を手離した。その時の体温を失った彼の手の冷たさは一生涯忘れることができないだろう。
 
 
 それから数日後、レントンはルミエストの西にある墓所へと葬られた。
 棺に入れられた彼の顔は死化粧を施され、まるで眠っているかのようだった。彼が湖から引き上げられた時には鼻血を垂れ流していたと言われてもそれを信じられる者がどれだけいるだろうか。
 かつてのティリスでは、自殺は最も非倫理的な死であるとされていたらしい。
 もしその時の時代であればあの人の死体は埋葬すら許されずに街で晒し物にされ人々に石を投げつけられることとなっていただろう。
 だが、今のティリスにおいては自殺も数多ある手段の一つでしかないとされている。神ですらそれを認めているのか、望む者には神自らの手で死を与えてくれるという。
 今のこの世界は、自ら命を絶った者も、病で命を落とした者も、天寿を全うした者も平等な死者として埋葬される世界だ。
 もちろん未だに自殺者を毛嫌いする者はいるが、名目上は自殺者も病死者も平等になったと言ってもいい。
 かつて、レントンは精神を病んだ妹を自殺で亡くしたと語っていた。
 また、彼女が自殺者であることもあってその葬儀はひどく手短であった、人々は表向きではわざとらしいほどに妹の死を悲しむ振りをしていたが、それが却って死者を蔑んでいるのを隠しているようで非常につらい気持ちにさせられたと彼から聞いた覚えもある。あの人の妹は埋葬の前に死化粧を施されることもなかったはずだ。
 今から二十年ほど前はまだ精神病者に対する偏見は根深いものであり、自殺者に対する偏見もまた相当に根深いものだったような気がする。もっとも、さすがに自殺者を街で晒し物にするなどという表立った迫害はなかったが。
 おそらく彼は自分の妹が死後もなお偏見や侮蔑の目に晒されるのを目の当たりにしていたのだろう。
 妹の死から年月が経ち、ティリスの倫理観が少しずつ変化していくにつれ精神病者や自殺者に対する偏見が和らいでいくのを見ていて彼は一体何を思っていたのだろうか。
 そして、あの人自身は「自殺」という行為に対してどんな思いを抱いていたのだろうか。自分自身が自殺によって愛する人を失ってひどく悲しい思いをしたというのに、彼はどうして自殺なんてしてしまったのか。
 それは今となっては分からない。
 ただ、レントンは最終的に入水という手段をもって自ら命を絶ってしまった。それだけが確かなことだ。
 
 
 それはレントンが埋葬されてから一月ほど経った頃のことだった。
 いつもの習慣としている街の掃除が終わった後、僕はレントンが死んでいた場所へと足が赴いていた。
 桜は全て散り、花弁は殆どがどこかへ消えてしまった。そこはもう死体が見つかった時の面影など残っていない。タイルの上にあの人が流した鼻血の跡がうっすらと残っているだけだ。
 僕はそのまま血の跡の傍に腰かけた。弱い風に揺られて擦れ合う木の葉の音を聞いているとますます憂鬱な気分にさせられるものだ。
 あの人はどうしてここを死に場所にしようと考えたのか。あの人は妹の後を追うつもりで水に身を投げたのだろうか。本当にどうにかしようはあったのではないか。
 もしかすると、あの人が僕に声をかけたのは別れの言葉を告げようと思っていたからなのかもしれない。もしそうだとすれば僕はどうしてそれに気付けなかったのだろうか。
 暫くその場でうなだれていると、不意に背後から人の気配を感じて僕は顔を上げた。
 振り返ると、そこには長い金髪を一つにまとめている男が立っていた。彼は一つの花束を手にしている。
「すみませんが、そこに花を手向けてもいいでしょうか。そこで知り合いが亡くなったのです……」
 男はおずおずと僕に尋ねた。
「全く構わないが……俺もここで知り合いを亡くしたんで、ちょうど立ち寄ったところなんだ」
 僕は頷きながら言った。
「では、少し失礼しますね」
 男は軽く頭を下げると、タイルの上に座り込みながら花束を水に浮かべた。
 この男は一体誰なのだろうか。丈の長い緑色のローブを身に纏っている辺り、その風貌は魔術士のようだ。ということは、彼も魔術士ギルドの人間なのだろうか。
「あなたもここで知り合いを亡くされたのですね。この都はこの時期になると水で亡くなる人が多くてとても悲しい場所です」
 男は悲しげに呟いた。
「ああ……俺の知り合いはここで溺れ死んでしまった。どうやら服のポケットに石を詰め込んで身を投げたみたいなんだ」
「そうなのですか……私の知り合いは魔術士ギルドで部下にあたる人間でした。彼も水に入って死んでしまったのです。一ヶ月前のことでした」
 男はどうやら魔術士ギルドの人間らしい。もしかすると、この人もレントンを知っているのだろうか。
「俺の知り合いが死んだのも一ヶ月前だが、彼も魔術士ギルドの人間だったんだ。『レントン』という名前の男なのだが、もしかしてお前さんの知り合いというのはまさか……」
 僕が尋ねると、男はやけに驚いたような顔を見せた。
 そして、明らかに動揺した様子で僕へ尋ねた。
「え。あの、あなたはレントンをご存じなのですか?」
「ああ。黒い髪に赤い目のいつも紫色のスカーフを着けていた男のことなら間違いない」
 男は驚きと悲しみが入り混じった面持ちで話し始めた。
「ああ……そんな。本当に間違いなさそうです。レントンは私のところのギルド員でした。私がまだ若い頃は同期の関係だったのです。その頃の彼は本当に優秀で、妹思いの心優しい人でした。それが……」
「俺も、あいつの妹さんの件は本人から聞いたことがあるよ。彼が変わってしまったのはその頃だったのか」
「……そうですね。ちょうど私がギルドマスターとして着任した頃でしょうか。妹が公に話すことを憚られる亡くなり方をしたようで、レントンが変わってしまったのはその頃でした。その頃は私も多忙だったので詳しいことは分からないのですが。一時期、精神のバランスを大きく崩してしまった彼への対応に骨を折られることもありました」
 その時、男が自身を「ギルドマスター」と言ったことを聞き逃さなかった。まさか、この人が魔術士ギルドの長だというのだろうか。
「おい。ちょっと待ってくれ。さっきお前さんは『ギルドマスター』と言ったが、まさかお前さ、いや。あなたは……」
 僕が尋ねると、男ははっとするような顔を見せながら再び頭を下げた。
「ああ、すみません。名乗り忘れていましたね。私は『レヴラス』といいます。一応、魔術士ギルドのマスターです。あ、呼び方については気にしなくても結構ですよ」
 かつてレントンから魔術士ギルドのマスターについて話を聞いたことはいくらかあったが、ギルドマスター本人に会うのは初めてだ。仮にもギルドをまとめる人間なら大層プライドも高そうなものだが、本人は謙虚そうな印象だ。
「いや、ギルドマスターたる人を相手にお前呼ばわりはあまりに失礼すぎだ。すまない」
「いいえ、いいのです。そういえば、あなたのお名前を聞いていませんでした」
「ああ、俺も名乗り忘れていたな。すまない。俺は『バルザック』という」
 僕もまたレヴラスへ頭を下げた。
 暫く湖をぼんやり眺めていると、不意にレヴラスが口を開いた。
「そういえば、あなたがレントンと知り合ったのはどういった経緯でしょうか。詮索するわけじゃないのですが、少し気になるのです」
「あいつと初めて知り合ったのは確か……ああ。そうだ。街の掃除をしている時に偶然体調を崩したあいつが路地でゴミ箱の影に座り込んでいるのを見かけて声をかけたんだ。あいつと関わるようになったのはそれからだったな」
「そんなことがあったのですか。彼は時折行き先も告げずフラフラとどこかに行って私や番人を困らせることがありました。私も私で不甲斐ないところはあったのですが、どうやらレントンはだいぶあなたのお世話になっていたみたいですね。もし迷惑をかけたことがあったなら本当にごめんなさい」
「いやいや、迷惑だなんてことはなかった。お前さん……失礼。あなたも相当の苦労をしていたんだな。レントンは何だかんだ言って面白い奴だったと思うよ。近年はどういうわけかあいつの方から距離を置かれるようになって疎遠になってしまっていたが……最初は俺の方が何か嫌われることをしたのかと思っていたんだがそれだけでは説明できないような嫌な感じがしていたんだ」
 レヴラスは僕の話に耳を傾けながら頷いた。
「……確かに私も近年の彼からは冷淡な態度を取られ続けていました。あなたに対しても同じような状態だったのですね。皆に冷たい態度を取る理由を聞いてみてもそれに対してどこか見当違いなことを言われるばかりで会話が成立しなかったのです」
 かつてのレントンは陰気な印象こそあったが喋ってみれば面白いことを言ったり面白いことに笑ったりしていた。だが、近年の彼からは傍にいてもどこかよそよそしいような嫌な感じがしていた。
 まるで人間の姿をしたまま非人間的な存在に変わってしまったか、あるいは自分たちとは違うどこか遠い場所へ行ってしまったかのような異様な雰囲気を放っていたと言ってもいいだろう。
「レントンには失礼だが、まるで俺たちと同じ人間の姿をしたまま非人間的な存在、例えば幽鬼とか、そんなものに変わってしまったかのようだったな。最後にレントンと会った時、あいつは湖を眺めながら暗い調子の歌を歌っていたよ。それを見た時、これまた失礼だが水に棲む妖怪かと思ってしまった」
「まるでニュンペーみたいですね。もし男の姿をしたニュンペーがいるならですが。最後には水の中へ還ってしまう辺り、ニュンペーそのものです」
「結局、レントンは水では生きられなかったみたいだがな……あいつが死ぬ一週間前、珍しくあいつの方から声をかけられたんでいくらか他愛のない話をしたんだ。今思えば、俺に声をかけてきたのはその時点で入水を決めていたからだろうか……」
「そういえば、レントンの遺体がここで見つかる二日前にギルドで突然私の部屋に彼が来たのです。彼は私と暫く他愛のない思い出話をして帰っていったのですが、部屋を出る時にやけに丁寧な挨拶をしながら私へ手紙が入った一枚の封筒を手渡しました。『これは別にあなたに宛てたものではない。そのまま捨ててしまっても構わないが、もし封を切るなら一ヶ月後にしてほしい』と言いながら。どうして一ヶ月後なのか、どうして私宛てではないものを私に渡すのかと聞いてみても理由は教えてくれませんでした」
 思えば、僕が最後にレントンと言葉を交わした時もあの人は僕へ何だか妙にかしこまった挨拶の言葉を口にしていた気がする。
 最後にあの人が僕へ見せた笑顔は吉兆などではなく、凶兆でしかなかったのではないか。
 レヴラスは沈痛な面持ちで呟いた。
「それから、部屋を出る時にレントンは何故だか少し泣いていました。これまた理由は教えてくれず、私はそのまま彼を帰してしまったのですが。その翌日にレントンがギルドへ顔を出すことはありませんでした。おそらく、彼が私の元を訪れたその日が彼の自殺を止める最後のチャンスだったのでしょう……もし別れの時がそこにあると分かっていたなら、結果は違ったのでしょうか」
 あの人は、死の前日に思い出話のためギルドマスターの元を訪れて別れの言葉を告げる時に一体何を思っていたのだろうか。その時、あの人の心には自殺を躊躇おうという意思が芽生えることはなかったのだろうか。
 この街を吹き抜ける風は木の葉を揺らし、湖面に細かい波を作っていく。見上げる空は雲ひとつない。
 この世界でも水の中でも生きられなかったレントンは今どこにいるのだろうか。
 この街にはいくつも風の女神の像が立っている。死して身体からも引力からも解放された者は風と共にどこへでも行けるのだろうか。
「レヴラス。一つ聞きたいことがあるんだが……」
 僕は尋ねた。
「ええ。構いませんが……」
「さっき、レントンがあなたへ封筒を渡していったと言ったがその中身は……」
「実は、封筒の中身はまだ見ていないのです。レントンが亡くなった後、私はその封筒の中身が遺書だと気付きました。既に封筒を渡されてから一ヶ月経っていますが、彼が最後に残した言葉と一人で向き合うのが恐ろしく思えて封筒を開くのを躊躇ったままになっているのです」
 レヴラスはそう答えると、首を横に振った。
 死者が残していった言葉は生きた人間のそれよりもずっと重い。それは、死者の言葉が死者自身の全てになるからだ。一人の人間が死者の全てを背負うなど到底無理だ。
「その封筒の中身なんだが、俺も読ませてもらって構わないだろうか。レントンがどんな言葉を最後に残したのか知りたいんだ。それに、こんなことを言うのはおこがましいが、一人で死者の言葉に向き合うのはやはり危ないと思う。一人で背負い込むには重すぎる」
「確かにあなたの言うとおりですね……情けない話ですが、正直に言えばこの一ヶ月のうちに私も精神が参ってきているのです。もちろんレントンを止められなかったことへの後悔はあります。それから、私は今までギルドで魔術実験と銘打って多くの命を奪ってきた身ですが、身近な人に死なれたことで『死』というものが自分のすぐ隣にあるのだと気付かされて恐ろしくて仕方ないのです。次は自分だろうか……と」
 レヴラスは再び顔を伏せると、頭を抱え込んだ。
 僕の横で魔術士ギルドを統治しているという男が震えている。
 翌日に湖へ身を投げるつもりでいるあの人からそれと知らず遺書を渡されたというこの男はこの一ヶ月の間にどれだけ苦悩していたのだろうか。それは分からない。
 僕はそれ以上の言葉が見つからずそのまま黙り込んだ。
「すみません。喋りすぎましたね。そろそろ失礼することにします。それから、あなたのお家はどちらでしょうか。ギルド内部にはあなたを入れることができないので明日そちらへ伺いたいのですが……」
「俺の家はギルドから少し北へ歩いたところにある。朝と昼は掃除に出ているかもしれないが、夜なら居るよ」
「分かりました。ありがとうございます。では、明日はよろしくお願いします」
 レヴラスは立ち上がると、僕に向けて深く頭を下げた。
「ああ、こちらこそ」
 僕もまたレヴラスへ頭を下げる。
 そして、レヴラスは魔術士ギルドへと戻っていった。
 
 
 
 レヴラスが僕の家を訪れたのは翌日の夜だった。
 僕が玄関から居間へと招き入れると、レヴラスは頭を下げた。
 居間にはかつてレントンを招き入れた時に彼と共に言葉を交わしたテーブルと椅子がある。
「とりあえず、適当に座っておくれ」
「では、失礼しますね」
 レヴラスは再び頭を下げながら椅子に座ると、懐から一枚の白い封筒を取り出した。
 手渡された封筒を手に取る。封筒はしっかりと糊付けがされ、その隅に小さくレントンのサインが書かれていた。
「しっかりと封がされているな。少し切ってもいいだろうか」
「ええ。どうぞ、このはさみを使ってください」
「おお。すまないな」
 レヴラスに手渡されたはさみでその封筒の端を慎重に切っていく。紙の切れる音がやけに大きく部屋に響いた。
 開いた封筒を逆さまにし、その中身を手に取る。
「これが……」
 この便箋こそがあの人の「遺書」なのだろう。
 僕もまたレヴラスと同様に死者の最後に残した言葉と向かい合うことへの恐怖はあった。
 だが、それから目を背けてはいけない。
 便箋の上には、封筒の隅に書かれたサインと同じ黒いインクで書かれた文字が並んでいた。
 
 
 まず、この手紙は特定の誰かに宛てたものではないと読み手のあなたへ伝えておかなければならない。
 この手紙を読んでいるのは誰だか分からないし別に誰でも構わない。誰にも読まれず捨てられたとすればそれもまた幸いなことだ。
 いずれにせよ、あなたがこれを読んでいる時にはもう私はこの世にはいないだろう。
 だが、私が死んだのは別に私の他のあらゆる者の責任でないことだけは保証しておく。だから、あなたが私の死に対して責任を負う必要はない。敢えて私の死を何かのせいにするとすれば「運命」などという曖昧なもののせいにするのが最も適当なのかもしれない。
 運命といえば、この世には幸運の女神というものがあるというが、彼女を恨むのもお門違いなことだろう。それでも人というものは理不尽なことを何かのせいにしなければ生きていけないのだから非常に大儀な生きものでしかない。
 近年までの私もまたそうして理不尽なことを全て何かのせいにしようと足掻きながら生きていた人間なのだが。思えば、それを意識するようになったのは絵描きを目指す妹を亡くしたことが大きなきっかけだっただろう。
 私は妹の入水自殺という理不尽な出来事を何かのせいにしようとしていた。妹が精神を病んだのは才能の限界に気付いたからだ、才能がないばかりに努力が報われなかったからだ、妹が湖へ身を投げなければいけなかったのは誰も理解者がいなかったからだ……と。
 一時期はそんな自分に嫌気が差して「私がこの手で妹を殺した」という現実離れした妄想に逃げ込んだこともあるが、それは傍から見れば狂気としか言いようがないことだったはずだ。そのせいで多くのものを失ったし、迷惑をかけた多くの人には詫びなければいけない。もしかするとあなたもその時に私が迷惑をかけた人の一人かもしれない。もしそうだとすれば、あなたにはいくら詫びても詫びきれない。
 
 今まで私は「自分自身さえ変わればかつてと同じように自分が生きる価値を認めることができるようになる」と信じた上で何度も変わりたいと望んできた。そのために魔術へ頼ったこともある。だが、生まれ変わりを望むことは今の自分をとことん否定して破壊する行為でしかなかったのだ。あなたには自分自身を再構築して新たな自分を確立する力のない人間が自己の変容を望むことはとても危険だということを分かってもらいたい。
 そのうち、私の心に棲みついた「自己の変容を望むもう一人の私」は何かにつけ私へ残酷な言葉を吹き込むようになっていった。
 もし、あなたの傍にあなたへ残酷な言葉を囁き続ける人間がいたとすれば、ましてやその人間が自分自身の心に棲みついて出ていってくれないとすれば、あなたはどれだけ耐えられるだろうか。
 私はそんな残酷な自分の声を相手にし続けることに疲れ切ってしまったのだ。
 また、もう一人の私は時に私以外の誰か――例えばギルドで顔を合わせる人間や妹といった人間の声を借りることさえあったのでそれもまた耐えられなかった。近年の私があなたたちとの関わりを避けるようになったのはそれと無関係ではないはずだ。かつて関わりのあった人と疎遠になっていくのはとても寂しいことだったが他人の声を借りた私に惑わされて人間嫌いをひどくするよりはずっと良かったのだ。
 
 それから、私が数ある方法の中でも入水を選んだのもまた悲しいかなある種の「宿命」としか言いようがないだろう。
 あなたたちに黙っていたことを一つ打ち明けると、近年の私はどうしたことか別に喉が渇いているわけでもないのに毎日大量の水を飲み続けてしまうことに悩まされていた。水など欲しくないと思っていても強迫的に飲み続けて制御が利かないのである。
 どうも、エーテルの病の中には欲しくもない水薬を飲み続けてしまうものがあるという。そして、神経の病の中にも進行するうちに大量の水を飲み続けるという症状が現れる病があるらしい。私がどちらなのかは分からない。
 エーテルの病は一度発病すれば多彩な症状を呈しながら進行する一方で二度と治らない。私の多飲がエーテルの病によるものなのだとすれば、私の身体が使い物にならなくなる日はもうすぐそこにあるのだ。
 私は今でさえ神経を病んで他人を煩わせる人間だというのに、それに加えて進行していく病によってますます他人を煩わせる存在になることはもう勘弁だった。他人がどう言おうと私自身が嫌なのだ。
 そして、私は妹を水で失ったことを期に、水という元素の恐ろしさに気付いた。大部分の生きものは体内に水を孕む存在であり、ありとあらゆる体液は水という元素がなければ作り出せない。私もまた水を体内に取り込んでは吐き出すのを繰り返しながら生きている存在である。
 その一方、水は人をいとも簡単に殺してしまえる元素である。生きものは水を失いすぎても飲み込みすぎても死んでしまう。
 妹を失って以来、私は頻繁に涙を流すようになったが、それもまた苦痛だった。私はもう泣きたくないのに涙は流れ続ける。
 涙から遠ざかるために身体を傷付けてみてもそこから出てくるのは赤い色をしただけの水だ。自身を慰めてみても出てくるものは子種を含んだ水でしかない。とことん私は水に縛り付けられている。生きている限り水からは逃げることができない。
 生きるということは所詮、水を取り入れて吐き出して……の繰り返しだ。人は言うだろう。それ以上の意味はあるはずだと。だが、今や私にはそれ以上の意味を見出せないのだ。
 そんな私が妹との思い出にすがるのをやめられず、水に囲まれたこの街で暮らし続けていたというのも皮肉な話なのだが。
 
 最初、私は水を失いすぎる方法で死のうと考えていた。具体的にいえば自刃によって動脈の血液を捨てて死のうと思った。だが、それではこの街の清掃員たちをあまりに煩わせてしまう。
 どうやら私にとっては水を失いすぎて死ぬのより過剰な水で死ぬ方が簡単らしい。そこで考えた方法というのがこの街の湖に身体を沈めるというものだった。しかし、あまり深いところに沈んではそれまた清掃員を煩わせることになるのでこれまた望ましくない。
 ――――。
 私は大量の石をポ  トに詰め 重くなった衣服を着て眠  を飲み、この街の湖の浅い 所へ身を沈める。
 死ぬ方法なら他にあるではないかとあ  は思うかもしれないが、私はどうしても水との決着をつけたかったのである。そこだけ 譲れなかった。そこは勘弁願いたい。
 ――――――――――――。
 この手紙を書いている今、運の巡  わせが少し違えば私はあと少しだけ長く生き れ のではないかという考 がふと頭をよぎった。結局、私は自ら命を絶つことを決  くせにその選択もまた幸 の女神のせいにしたいらしい。
 ――――――――――――――――。
 ――――視界が滲んでまともな字を書くことも難しくなってきた。そろそろこの手紙も終わりにしなければならない。
 あなたには、このようなくだらない内容の手紙に最後まで付き合って れて本当に感謝する。そして、それと同時に詫びなければ  ない。
 わたしは、あなたには自殺などというかつて最も非倫理的だとされた方法では命を終えてほしくない。
 どうかあなたの   生が安らかでありますよ に。
 さようなら――――。
 
 
 そこで手紙は終わっていた。文字がギチギチに詰まって余白がなくなったせいなのか、署名はない。
 あの人は結局水から逃げられない運命だったのだろうか。彼が水から逃げるには生命を捨てるしか手段がなかったのだろうか。
 もう一度手紙に目をやる。すると、ところどころが水の滴を落としたようになって文字が潰れていることに気付いた。そして、インクで塗り潰されて読めない行もいくつかある。
「この手紙、最後の辺りが滲んでところどころ読めなくなっている……」
 僕は便箋をレヴラスへ手渡した。
 レヴラスは便箋に目をやりながら呟く。
「レントンはこれを書きながら泣いていたんでしょうか……」
「あいつ、最後まで迷っていたんだろうか。結局、突っ走ってしまったみたいだが……」
 あの人は最後に自分が流した涙が何を意味するかということに考えを巡らせることはなかったのか。
 それとも、その意味を理解した上でそれを無視して死へ突っ走ることにしたのだろうか。
「あの人は本当に愚かなことをしました。泣くくらいならそのまま踏み止まれば良かったんじゃないですか。そんなに死に急ぐ必要があったのですか」
 レヴラスは悔しげに呟いた。
「むしろ、もう泣くのが嫌だからこそ決行してしまったんだろうか……」
 僕は呟いた。
「それはどういうことでしょう……?」
 レヴラスは掠れた声で尋ねた。
「手紙に書いているように、レントンはずっと水に苛まれ続けていたんだろう……自分の身体から出る水も妹が身を投げた水も違いはあるまいと。あいつが死んだ日、俺は死体を前にしてもあいつがもう死んでいることを認められなかった。だから、ギルドの癒し手のところへ駆け込んであいつを蘇生してくれと頼んだんだ。その時に癒し手には言われたよ。死んでしまった本人が生きるのを拒む以上手の施しようはない、死を受け入れることだけがあいつのためにできることだって。俺は今もまだあいつが死んだことを受け入れられないよ。できれば生きていてほしかった。でも、少しずつでも受け入れなくちゃいけないのだろう……」
「ああ……ギルドの癒し手から、レントンの遺体を蘇生するよう頼み込んできた人間がいたと聞きましたが、あなただったのですね。彼はこちらへ戻ってきませんでしたが。それがあくまで彼の意思なら、私も少しずつ彼の死を受け入れなくてはいけないんでしょうね…………すみません。少し失礼します」
 レヴラスは僕から顔を背け、懐から取り出したタオルに顔を埋めた。
 僕はその背中をただ見つめることしかできなかった。
 この人は今、悲しんでいる。悲しんでいる人間を前に悲しむのをやめるよう言うことに何も意味はない。僕もまた、悲しい。
 暫くして、レヴラスは呟いた。
「私は、生きなければいけません。私はまだこの世界でやり残していることがたくさんあるのです。ですが、生きるためには今悲しむ必要があるのでしょう……」
「そうだな……」
「私たちがあちらへ行く頃、レントンはどうしているでしょう。迎えに来てくれるでしょうか」
「妹と仲良くやっていればいいがな。もしかしたら、あいつのことだから猫にでも生まれ変わっているかもしれん」
「猫になればあの人もギルドのノルマに縛られず自由にどこかへ旅立っていそうですね。もしかしたら、魚欲しさにこの街に留まっているかもしれませんが……でも、こんなことを勝手に話していたらあの人は怒りそうです」
 レヴラスは涙を拭いながら少しだけ笑った。
 そして僕に向けて言った。
「バルザック。私からこんなことを言う必要はないと思いますが、生きてください。どうか」
「ああ、生きるよ」
 僕は答えた。
 
 
 それから、年月だけが過ぎた。
 僕がその墓所へ足を踏み入れたその時、空には鉛色の雲が広がっていた。
 ルミエストからここまでの途中の道のりはとても険しい。
 ――あの人は妹の墓を訪れる時、いつもこの道を一人で歩いて来ていたのか。あの人と一緒に歩いていた時は道の険しさになど気付かなかった。
 そんなことを考えながら、僕はかつてレントンと共に花を手向けた彼の妹の墓を探した。
 あの人と共にここへ来る時はいつも軽く言葉を交わしていた。言葉を交わす人間がいない今、そこにあるのは沈黙だけだ。歩くたび、石畳がこつこつと無機質な音を立てる。それがこの墓所の静寂に後を押しているような気がした。
 ほどなくして、その墓は見つかった。あの人の妹が眠る墓の隣にあるまだ新しい墓であの人は眠っている。
 僕は手にしていた二つの花束を二つの墓の前に一つずつ手向けると、祈るように手を合わせた。
 もしあの世というものがあるなら、彼は今どうしているだろうか。妹と再会を果たすことはできただろうか。
 いつの間にか、僕はあの人と同じくらいの年齢になっていた。だが、生きていた頃の彼が抱えていた苦悩は未だに理解できそうにない。
 これからも、僕はあの人の年齢を追い越して歳を重ねていく。その中で彼の苦悩を理解する日は来るのだろうか。いや、むしろ理解してはいけないのだろう。
 そんな風に考えを巡らせていると、涙が頬を伝っていた。
 歳を重ねたせいか、僕もひどく涙もろくなったものだ。人とはかくも涙もろくなるものなのか。
「レントン。もう水なんて要らないよな。それなのに泣いてしまって本当にすまない」
 僕は墓を前に一人呟いた。
 そして、そっと目を閉じながら祈りの言葉を呟く。
 ――どうか、お前がもう苦しむことなくいられるように。せめて、水から自由であってほしい。
 空を見上げると、白い雪がちらつき始めていた。
 多分、これがこの冬に降る最後の雪だろう。
 もうすぐルミエストにも春がやってくる。
 あの人がいない春がまた――――。
 
 *おしまい*
 

 
 あとがき

Reborn

 (まえがきのような何か)
 この文章は『仄暗い下水道の底から』の続きのような文章です。
 散々書いている通り全てはねつ造なので留意ください。こちらの文章はレクサス視点。
 

  
 バルザックとガードがレントンを魔術士ギルドまで運んできてから二日が経った。
 私はベッドに横たわるレントンを見つめ、考え込んでいた。
 目の前の男は未だ眠ったまま目を覚ます気配がない。その腕、足、首には包帯が巻かれている。包帯の下の無数の傷は一体何なのだろうか。
 バルザックとガードの言うことによればこの男は下水道で見つかったという。
 この男は何故下水道なんかで見つかったのか。まさかそこに身を投げたというのだろうか。
 ふと、最後にこのギルドでこの男と顔を合わせた時のことが頭をよぎる。それは去年の夏から秋の頃だった。
 その頃のレントンはどういうわけか体調を崩しがちになっていたらしい。私自身も頻繁に彼が苦しそうにうずくまる姿を目にしていた。
 その姿は陸にいるのにもかかわらず水に溺れて呼吸ができなくなっているかのようだった。
 私は彼へ癒し手の処置を受けるよう勧めたが、本人の言うことによれば何度も癒し手の処置を仰いだが全く効かないとのことだった。
 やがて、彼は理由が分からない身体の不調に怯えるあまりその他のことが手につかなくなっていった。
 そんなある日、痺れを切らした私はレントンを部屋に呼び出した。
 その頃はギルドマスターが多忙で不在がちになっており、私は彼がいつもしていた雑用の仕事が回ってきたのもあって苛立っていた。
 そんな中でレントンが小さな失敗を繰り返していたことが鼻についていたのだ。彼に対する私の呼び出しはただの八つ当たりでしかなかった。
 だが、あの時のレントンは私に当たり散らされていることをつゆ知らず、愚直にも私の理不尽な糾弾に泣き出しそうな顔で頷くばかりだった。
 私はそれもまた妙に気に食わず、さらに問い詰めたのだ。ただ頷くだけならかたつむりのような愚鈍な者でもできる、本当に話を聞いているのかと。
 相手は曲がりなりにもギルドマスターが優秀だと認めていた魔術士であり、本人にもそれなりの自負があった。そんな人間にかたつむりなどと言うのは相手の鼻をへし折るも同然だ。
 そうするうち、レントンは本当に泣き出した。それも、自分の意思に反して涙が溢れ出したとでもいうような泣き方だった。まるで失禁してしまったかのように。
 そして、彼は私に何かを言おうにもひどい嗚咽のせいで物が言える状態ではなくなった。
 本当はそこで彼に対する暴力をやめておくべきだったのだろう。だが、私はそうしなかった。
 涙というものは時に人がもつ加虐心などといったものにますます火を点けるらしい。
 私はレントンに対してさらに追い打ちとなる言葉をかけたのだ。
「魔術を操る者は心を強く持たねばならないはずだ。自身の心を満足に制御できないのでは魔術の制御もできないであろう」
 と。
 その時にレントンが見せた、まるで顔を拳で殴られたかのような表情が目に浮かんでくる。
 私は分かっていた。相手がもはや涙を制御できる状態でないことを。それを無視して敢えて「心の制御」などという言葉を吐いたと言ってもいいだろう。
 そこまで言われても何も言い返して来ないレントンを見るうちに私はやりきれなさと諦めが入り混じるような不愉快な気持ちになり、彼に対してもういい等と吐き捨てて部屋を出ていったのだ。
 その一方で私の言葉にはレントンの尻を叩こうとする意図がなかったと言えば嘘になる。
 私は彼の愚直な性格を分かっていたので厳しい言葉をかければ勝手に奮い立ってくれるだろうとどこかで勝手に信じていた面がある。
 だが、私がとった一連の行動は思わぬ結果を招いてしまった。
 その日以来、レントンはこのギルドに全く姿を見せなくなってしまったのだ。
 それからの再開がまさかこんな形になろうとは思いもしなかった。
 あの日に泣き崩れるレントンを置いて部屋を出て行った時、ドア越しに聞こえた彼の呻く声が耳の奥で残響する。
 私は悲しみと後悔の念に力を奪われ、腑抜けになりそうであった。 
 そこで突然、背後からレヴラスが私に声をかけてきた。彼はこのギルドのマスターだ。
 彼もまた今回の件については相当心を痛めているのだろう。その面持ちはやや沈痛に見えた。
 レヴラスはレントンを一瞥しながら私へ尋ねた。レントンが姿を消した頃の彼は多忙だったが故にギルド内での出来事を把握できていなかったらしい。
「彼は行方をくらます前、体調を崩して塞ぎ込んでいたと聞きましたが。本当なのですか?」
「ああ。そうみたいだ」
 そして、レヴラスは私に尋ねたのだ。
「あなたは彼の話を聞いてやったことがありましたか。そして、彼にはどんな言葉をかけたのですか」
 ――何故そんなに人前に出ることを恐れるのだ。何をそんなに塞ぎ込んでいるのだ。全ては気の持ちようだろう。
 私はレントンを前にそう思っていたことは否定できない。
 レントンが姿を消した後になって、私は彼が人前に出ることを極端に恐れるあまり頻繁にトイレで嘔吐していたこと、時には壁に何度も頭をぶつけていたなどということを聞いていた。
 そういえば、小さな報告会の時に何故だかレントンは頭から血を流しながら壇上に立っていたことがあった。
 確か私はレントンにその傷はどうしたのかと尋ねたのだが、彼はただ階段で転んだとしか答えてくれなかった。
 あの時の彼は血まみれになるまで頭を壁にぶつけなければならないほどに人前に出ることを恐れていたのだろうか。
 他のギルド員から聞いたことや自分のレントンとのやり取りのことを包み隠さず話すと、レヴラスは沈痛な面持ちで洩らした。
「人の心というものはいとも簡単に壊れてしまうものです。今回の件は私にも責任はあるのでしょう」
 私は自分を責め始めるレヴラスを前に、ただ自分が情けなく思えて仕方なかった。
 あの時に私があえて厳しい言葉をかけることはレントンをここまで追い詰めることだったというのだろうか。
 それとも、他に何か彼を追い詰める事柄があったというのだろうか。
 あの呼び出しをする前に、もう少し話を聞いてやっていればこんなことにはならなかったのだろうか。
 次々に様々な問いが頭の中で渦巻くが、その答えは分からない。
 考えたくもないことだが、もしものことがあれば答えはずっと分からないままとなるかもしれない。
 そうすれば私は胸の内でどろどろと渦巻くこの苦々しい感情を死ぬまで抱え続けることとなってしまうだろう。
 ここでふと、一年ほど前にこの街で自殺者が出たという話が頭をよぎった。
 記憶は曖昧だが、この自殺者は年端もいかぬ若い女だったと聞いた。
 自殺者の家族はそれをひた隠しにしようとしたそうだが、不思議とこの手の話は当事者が隠そうとすればするほど迷信や偏見に満ちた噂として知れわたる。
 今では自殺者の亡霊がこの街の湖に現れては人を引きずり込もうとするなんてことを街の子供が噂しているそうだ。
 また、残された家族はとうとうこの街を離れてしまったという話も耳にした記憶がある。
 その自殺者がどれだけ苦悩していたのかは分からない。だが、残されたものの悲しみや苦悩もまたとても深いものだったのだろう。
 目の前で眠り続けるこの男は、そんな風にして何も言わないまま私たちの心に爪跡を残して逝こうとするつもりなのか。
 それを思うと、私はこの男に対して憤りを感じずにいられなかった。
「お願いだから死なないでくれ、戻ってきてくれ」
 気が付くと、私は彼に向けて呟いていた。
 
 
 レントンが意識を取り戻したのはそれから三日後のことだった。
 だが、それを素直に喜ぶことができなかった。彼は完全に正気を失っている様子だったからだ。
 意識を取り戻したはずのレントンはただガラスのような虚ろな目で空中を見つめるだけで何を呼びかけても全く反応しなかった。
 どうやら、今自分がいる場所がどこなのかも私が誰なのかも理解できない様子だ。
 レヴラスに対してもそれは同じで、彼がいくら根気よく話しかけてもそれに答えることはない。
 日がな一日ただ焦点が合わない目で空中を見つめ続けるその姿は人事不省の白痴に限りなく近い状態だ。
 それに加え、レントンは食事を全く受け付けず、何を口にしても吐いてしまった。
 癒し手が病人用の食事を口に運んでやればされるがままにそれを口にするのだが、食べ終わったところで全て嘔吐してしまうのだ。
 それがノースティリスで「拒食症」と呼ばれている病によることだとはすぐに分かった。それは何らかの形で嘔吐を繰り返した時に発病する病であり、それに罹った者は食事をするたびに嘔吐を繰り返しやがて衰弱死してしまう。
 それ故にこの病に罹った者は神経と胃が調子を取り戻すまで飲み物でしか空腹を満たすことができない。
 レントンが魔術士ギルドから姿を消し、それから下水道で見つかるまでの間の数ヶ月に一体何があったというのか。
 本人がほぼ人事不省の状態で何も語ることができないのだから、今の私にそれを知る由はない。
 乳清や水薬といったものしか受け付けないその身体は痩せさらばえて今にも壊れそうだが、本人はそれでも全く構わないような様子だ。
 その姿は生きることを諦め、緩慢に死へと向かっていくように見えた。あるいは、自分が死に向かいつつあることすら理解していないかのようだ。
 このギルドに所属し立てだった頃の彼はまだ十五ほどの少年だったがその学習意欲は人一倍で、その才能も目を見張るものだった。それ故に私たちは彼の活躍を大いに期待していたのだ。
 そんな優秀な人物がかくも悲惨な状況に陥ってしまったことはこのギルドにとっても大きな痛手になる。
 今のレントンの姿を見て、彼がかつて魔術士としての将来が約束されていた男だったと誰が想像できよう。
 人というものはかくも変わってしまうものなのか。私には目の前の優秀な魔術士と言われていた男の変貌を信じることができなかった。
 果たして彼は元の彼に戻ることができるのだろうか。それも分からないままだった。
 
 
 それから、一月が過ぎさらに二月が過ぎようとしていた。
 だが、レントンは嘔吐する頻度こそ減ったものの相変わらず正気に戻る気配はなく、これまで長く続いた沈黙は狂乱へと形を変えた。
 この時のレントンは時折ものを言うようになっていたのだが、その時に口にするのは死を乞い願う言葉ばかりだった。
 ――何故わたしを生かし続けるのだ。このまま生きていても暗闇の中で苦しくて仕方ない。
 ――私は生きていてはいけない罪深い人間だ。お願いだから死なせてくれ。
 狂乱に陥った彼はそんな言葉をまくし立てながら癒し手や私といった目にするあらゆる者の腕にしがみ付いた。
 時には「人を殺してしまった」などこちらからは到底理解できないことを口走ることもあった。
 さらに、彼は自分を罰するかのように目にするありとあらゆるもので自傷を試みるようになった。
 紐を見ればそれで自分の首を絞め、薬瓶を見ればそれを叩き割ってはその破片で肌を深く切るというような具合であることから部屋には紐や割れ物といったものを置けなくなった。
 やがて、私はこうした状況にどうしようもない疲労感を覚え始めた。
 そして、それはレントンが下水道で見つかってから四ヶ月が過ぎようとしていた夏の日のことだった。
 この日の彼は両腕に包帯を巻かれたままベッドの縁に座ってうなだれていた。白い包帯には血が滲み、ひどくやつれた顔は死人のようだ。
 狂乱が治まっている時のレントンはいつもそのような調子だったのだが、その時もまた生きていたくないと呟くばかりだった。
 狂乱に陥る中では激しい焦燥に駆られて死を渇望し、狂乱が治まっていてもなお死を求める。いずれにしても彼は死を乞い願うばかりだ。
 今になって改めてレントンの顔を見ると、私はやけにげんなりとした気分にさせられた。
 私たちは一体何のためにこの男の世話をしているのだろうか。
 自ら命を断とうと下水に身を投げたこの男は、私たちが手を差し伸べてもそれに応えず死に向かおうとしていく。
 そうだ。この男は下水に身を投げた時からもう既に生きることを諦めていたのだ。このまま手を差し伸べ続けることに何の意味があるだろう。
 いっそ望み通りに死なせてやった方が彼にとっても幸せなのではないか。
 その時、私は何気なくまさぐった自分の懐に細い紐が入っていることに気付いた。書物を束ねていた紐だろうか。
 そうだ。この紐でその首を絞めてしまおうか。そうすればこの男は苦痛から解放されるだろう。
 そんな考えが頭をよぎる中で紐を片手にレントンの背後に回ると、彼は消え入るような声で呟いた。
「レクサス……?」
 突然レントンが私の名を呼んだことに私は驚いた。
 そして、彼は私に背を向けたまま尋ねた。
「包帯を代える時間だろうか?」
「いや、包帯を代えるのはまだだよ。それで、具合はどうなんだ……?」
「今日も最低だよ。わたしがわたしでないみたいだ」
 私の問いに、レントンは呟いた。相変わらず彼は私に背を向けたままで振り向こうともしない。
 そして、震える声で呟いたのだ。
「後ろに立たれると怖い」
 と。
 私は片手に握る紐に目をやってはっとした。
 私は紐を懐にしまい、レントンの横に座った。
「横なら大丈夫か?」
「ああ……」
 レントンは小さく頷くと、床に視線を落とした。彼が瞬きをするたびに上下する長い睫毛は苦悩にやつれた横顔をより強調するかのように見える。
 彼が口を開いたのは暫く沈黙が続いてからのことだった。
 だが、それを聞き取ることができなかった私はどうしたのかと尋ねた。
 レントンは再び懇願するように口を開いた。
「私を縛ってほしいんだ。動けないようにしてくれ。殺したくはないのに本当に自分をこの手で殺してしまいそうで怖いんだ……」
 その時、私はすぐ傍の男が抱える根深い苦痛の片鱗に触れたような気がした。
 私は思うままに事態が進まない状態に一方的な苛立ちを覚えていた。だが、この男自身も私が想像するよりずっと深く苦しんでいたのだろう。
 私はそんなレントンを殺そうとしていた。彼に「死なないでくれ」と言ったはずだったのに。
 私は今の自分がしようとしていたことを見つめ、愕然とした。
「そうか。レントン、本当にすまない……」
 私はただ謝ることしかできなかった。
 
 
 それから五日経った日のことだった。
 私が部屋に入ると、レントンは両手を頑丈な布の包帯で縛られたままベッドに横たわっていた。彼は、食事と排泄以外の時は拘束されているらしい。
 だが、四六時中身体を拘束しているのでは身体を傷めてしまう。だから食事や排泄の時に拘束を解くとはいえ、それ以外の時もたまに拘束を解いてやる必要はあった。
「そろそろ痛いだろう。包帯を解くから暴れないでおくれ」
 私が呼びかけると、彼は黙ったまま気だるげに頷いた。その様子は「言われなくても暴れない」と言いたげだ。
 レントンのの身体を起こして腕を拘束している頑丈な布の包帯を解くと、その下に巻かれた傷を覆う包帯は開いた傷からの出血で血だらけになっていた。時間が経って変色した血はとても不衛生な色になるものだ。
「この包帯はもう替えねばならないな」
 赤茶色に染まり硬くなった包帯を解いていくと、傷跡だらけの腕が露わになった。深い傷はどうしても傷跡として残ってしまうらしい。
 その傷跡の上には新しい傷が重なっている。いくつかの傷は深すぎることから糸で縫うという処置が施されていた。それは肌の上を這う赤黒いムカデのようでとてもグロテスクだ。
「改めて見ると、ひどい傷だな」
 新しい包帯を巻きながら、私は思わず漏らした。
 レントンは俯いたまま自分の両手に包帯が巻かれていくのを見ている。長く伸びた髪のせいでその顔はよく見えないが、その姿は物思いに耽っているような様子だ。
「一体何があなたをそうさせるのか。どうか教えてほしい」
 包帯を巻き終えると、私は尋ねてみた。どうにかしてレントンのことを理解したい。私はそう思うようになっていたのだ。
 ところが、彼は口を固く閉じたまま何も言おうとしない。
 やはり、まだ何も話してくれないのだろうか。そう思った時、彼は両手を見つめたまま呟いた。
「こうして……他人に見られたうえ手当てをされた傷は痛むものなんだな」
 その口ぶりはあたかも今初めて痛みというものを知ったかのようで、とても奇妙だ。
「こんなひどい傷だというのに、痛いはずだろう」
「確かに身体は『痛い』と感じているはずだよ。痛いはずだ。だが……」
「まさか、痛みを感じていないと言いたいのか……?」
 私は不穏な気持ちの中で尋ねた。傍から見ていて目を背けたくなるような傷だというのに痛みを感じないなんてことがあるというのか。
「何かに取り憑かれたように何度確かめても同じだ。人に言われなければ何も感じないんだ」
 レントンは嘆き悲しむように俯きながら頭を横に振った。
 もしかすると、彼は痛みを感じないのではなく、本当は痛みを麻痺させなければならないほどに痛がっているのではないか。
 一体何が彼をここまで追いやるに至ったのだろうか。
「あなたは確かに痛がっていると思う。限界を超えるほどに痛いから何も感じなくなったようになっているだけで……」
「そうだろうか……」
 暫く沈黙が続いたその時、レントンは突然に頭を抱えながら苦しみ出した。
「一体どうしたんだ。頭が痛いのか」
 呼びかけても、彼は呻きながら顔を苦痛で歪めるだけだ。
「本当にどうしたんだ」
「私から離れてくれ……!」
 叫ぶレントンが思い切り私を突き飛ばすと同時に轟音が響き、視界が弾け飛んだ。 
 
 
 気が付くと、私は見知らぬ部屋にいた。いや、私が部屋にいるというよりは幻灯機に映し出された風景を見ているような感覚に近い。
 ここは絵描きの部屋だろうか。机の上には絵具や筆といった画材が散乱している。
 そこには、黒い髪の幼い少女と同じ髪色の少年の姿があった。
 私はこの少年を知っている。というより、毎日顔を合わせていたのだから見間違えるはずがない。彼はレントンだ。
 私が見ているものは現か幻か。レントンと少女は私がいることに気付かないようだ。
 二つ結びにされた黒い髪。深い赤色の目。この少女はどこかレントンと似ている。この二人は兄妹なのか。
 少女は満面の笑みで画用紙に描いた絵をレントンに見せている。そして、その絵を見るレントンも幸せそうに笑っていた。あの男にもこんな風に笑っていた頃があったのか。
 やがて、目の前の景色は水に映る影のように揺らぎ消えた。 
 再び、私の意識は水の底に沈む。それは私には抗えない。
 そして、私の前でいくつもの幻灯が明滅を繰り返した。
 画材が散らかり荒れ果てた部屋。割れたガラス窓と床に散らばるガラス片。泣きじゃくる少女。
 大きな湖が見えるサナトリウム。雪が積もる花壇。小さく白い花。花壇の前に座る少女。
 降り積もる雪。灰色の湖。雪を被りながら水に浮かび眠る少女。
 空を舞う風花。丘の上にある墓所へと向かう葬列。運ばれていく白い棺。
 花束と共に埋められる白い棺。それをただ見つめる一人の喪服の男。
 男は仮面が貼り付いたような無表情のままだ。その目は何も映さない。
 現れては消えていくこの幻灯は一体誰のものなのだろうか。
 暫く続いた明滅が止むと目の前の景色は一変していた。
 だが、そこが先程見た絵描きの少女がいた部屋だということはすぐに分かった。
 部屋の隅に置かれた机、空の本棚とクローゼット。何も敷かれていないベッド。それ以外は何もない。
 割れたままのガラス窓からは風がひゅうひゅうと音を立てて流れてくる。
 かつてこの部屋の主がいたことを示すのは、壁に僅かに残る絵の具の染みだけだ。
 この何もない部屋を見つめるうち、私は胸を深く刺されるような悲しみに襲われた。
 この痛みと悲しみは一体何なのだろうか。まるで自分にとってかけがえのない何かを失ったようだ。
 一体何故この部屋にいるとこんなにも悲しい気持ちにさせられるのだろうか。
 そこでふと、私は目の前で黒いローブの男がうずくまっていることに気付いた。
 この男は先程の明滅の中で見た喪服の男だ。この男はレントンだ。
 彼は泣いている。ただ一人悲痛な叫び声を上げて泣いている。
 彼にとってかけがえのない存在だったあの少女はここにはいない。
 彼女はもうこの世界に存在しないのだ。
 ――それは、湖に身を投げて死んでしまったからだ。
 その時、ガラスが砕け散るような音が響き、目の前の景色が壊れ出した。
 全てが音を立てて崩れていく。
 そして、私はなすすべもなくどこかへ落ちていく。
 
 
 再び目を開くと、そこは魔術士ギルドの廊下だった。ここは「私」の部屋の扉の前だ。
 だが、今の私が「私」だというにしては何かがおかしい。まるで自分が「私」ではない他人に変身したかのようだ。
 私はどうやら「私」に用事があってこの部屋の前に立っているらしい。私は呼び出しを受けたのだ。
 重い扉を開くと、私の目の前に「私」その人が立っていた。
 長く伸ばされた明るい青緑色の髪。黒いローブに赤いスカーフ。その顔からは苛立ちと落胆が滲んでいる。
 そんな「私」は私を一方的になじり始める。だが、「私」が呼ぶのは私の名前ではなかった。「私」は私のことを「レントン」と呼んでいる。
 そうだ。今の私はレントンに変身しているのだ。そして、私は彼の意識を介して彼の記憶を見ている。
 私がギルドでの務めに支障をきたし始めたレントンに痺れを切らし、彼を呼び出した日の記憶。
 他人の意識を介して見る自分の顔とはなんとグロテスクなものなのか。鏡で自分の顔を見るのとはわけが違う。
 気味が悪く、そしてとても恐ろしい。
 鏡よ鏡。私は幼い頃に読んだ異国の童話に出てくる魔女のように心の中で問いかける。
 あの日の私は、レントンの目にはかくも恐ろしく映ったのだろうか。
 目の前で喋り続ける「私」の言葉は私から言葉を奪った。
 全てが歪み、揺らぐ。「私」の顔が。魔法書が並ぶ本棚が。壁と天井が。
 胸が張り裂けるように痛み、呼吸が詰まる。先程から噛み締めていた歯は鈍く痛み始めている。
 ――ただ頷くだけなら子供やかたつむりでもできる。本当に話を聞いているのか。
 眉間にしわを寄せる「私」は私を睨んだ。
 一体この人は何を言っているのだろう。私はあなたの話を聞いているからこそ反論せずに頷いているのだ。
 あなたの話は聞いている。聞いているからこそ頷いている。
 私は心の中で反論を叫ぶ。だが、それは声にも態度にもならない。
 この時の「私」は仮にレントンが反論を声や態度で表してきたとしてもそれが気に入らず攻撃し続けていただろう。
 息を吸おうと歯を緩めたその時、目頭から零れる水が鼻の横を滑り落ちた。声を出そうとしても、それは嗚咽にしかならなかった。
 ――何故泣くんだ。子供じゃあるまいし、言いたいことがあるならはっきり言え。
 「私」は私がレントンに浴びせた言葉をそっくりそのまま私に浴びせ続ける。
 言いたいことは何もない。まず、言おうとしても言葉を声にすることができない。
 泣くという行為はかくも苦しいものだったのか。そんな中でまともに喋るなんてとても困難だ。そして、相手の言葉に耳を傾けるのもまた難しい。
 それを私は分かっていなかったのではないか。そして、あろうことか相手からますます多く涙を搾り出すような言葉を浴びせたのだ。
 ――魔術を操る者は心を強く持たねばならないはずだ。自身の心を満足に制御できないのでは魔術の制御もできないであろう。
 人の話に耳を傾けるのが困難な中でも「私」の言葉は私の耳にしっかりと届き、胸に突き刺さった。
 あの日のレントンは相当耐えていたのだろう。そして、八つ当たりでしかない私の話に耳を傾けすぎたのだ。
 ――これ以上言っても無駄みたいだな。もういい。
 そう吐き捨てた「私」は部屋を出ていった。
 扉が閉まる音が部屋に響いて消えた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
 嗚咽は止まる気配がなく、涙は何度拭っても拭っても零れ続ける。
 もはや、私の目はただ塩水を吐き続けるばかりで物を見るという機能を果たしていなかった。今の私の目はまるで血を噴く傷のようだ。
 そうだ。言葉による暴力は身体には見える傷を残さないが、その代わり心を引き裂くものだ。
 今血を噴いているのは紛れもなく心というものなのだろう。
 どれだけの間泣き続けていたのか。床に目をやると、ほぼ水溜まり同然になった床の染みが鏡のように私を映し出している。そこに映るのは「レクサス」の顔だった。
 今の私にとって「レクサス」の顔は最も見たくないものだった。この男の顔を見ると再び胸が縦に裂けそうになる。
 私は全てから目を背けるように目を閉じた。
 
 
 そして気が付くと、私は暗闇が広がる空間にいた。
 今の私はレクサスなのだろうか。それともレントンなのだろうか。
 次第に、周りからひっきりなしに誰かの声が聞こえ始めた。それは全て呪いの言葉、罵りの言葉だ。
 ――お前は何もできない。お前は生きる価値なんてない。
 ――妹殺しのくせに、お前はどの面下げて生きているというのだ。
 ――分かっているのだろう。お前は身体も心も醜い。人ですらない。
 ――お前は人として生きることができない怪物だ。
 やめてくれ。私はただ耳を塞ぎ、声から逃げようと闇の中を這いずった。
 そうするうちに、一つの扉の前に辿り着いた。
 助けてくれ。誰か助けてくれ。
 私は何度もその扉を拳で叩き続けた。だが、それに誰かが答えることはなかった。
 ほどなくして、扉の向こうから先ほどとは別の声が聞こえてくることに私は気付いた。数人の男と女の声だ。
「もう『あれ』はあいつみたいに然るべき場所に送るべきだ」
「いや、どこも『あれ』を受け入れるのは無理だろう。まずどうやってここから連れ出すというんだ」
「まるであいつが取りついたみたいでおぞましい。これほどの不名誉がどこにある」
「『あれ』はもう人の形をした怪物同然だ。いっそ死体さえ残さずに死んでくれないか」
 扉の向こうから聞こえる心ない言葉が次々に私へ突き刺さる。誰も彼も保身ばかりで私を助けてくれない。
 いや、それは当然のことだ。私は日に日に狂い、誰にも手に負えない存在へと変わっていく。それはもう私自身にも歯止めが利かない。
「もうこの家ごと『あれ』を捨てるしかない」
 そうだ。私は誰からも見捨てられて当然の存在だ。こんな自分を私一人で持て余すなんて到底耐えられない。
 それなら、この命を捨ててしまおう。そうすることが私にできるただ一つのことだ。
 深い絶望の中、顔を上げると首吊り台が目に留まった。いつの間にこんなものがここに置かれていたのだろうか。
 私はふらふらとした足取りで踏み台に上り、ぶら下がるロープを首にかけた。
 自殺とは、一人の人間が死刑執行人と刑死者という二人の役を同時に演じる行為だ。それはとても悲劇的であると同時にとても喜劇的でないか。
 私は全てが滑稽に思え、笑みを浮かべた。
 足場が落ちる。私の身体が落ちる。そして、私の意識も落ちる。
 落ちていく先は深く暗い闇の中だ。
 私はなすすべもなく、暗闇に飲み込まれていった。
 
 
 重い瞼を開くと、私は魔術士ギルドの一室でベッドの上に寝かされていた。
「レクサス、気が付きましたか」
 その声で、私は正気に戻った。ベッドの傍には声の主――レヴラスが立っている。
 今まで見ていたものは夢だったのか。あまりの疲労感で身体が鉛を乗せられたかのように重く、頭が痛い。
「マスター、私はレントンの部屋にいたはずだ。何故私はここに……」
「レクサス、落ち付きなさい。あなたはレントンとともに気を失って倒れていたのです」
 これは一体どういうことなのだろうか。そこで、私が意識を失う前にレントンが突然苦しみ出したことを思い出した。
「レントンは……?」
「彼のことなら大丈夫ですよ。彼は別の部屋で眠っています」
 レヴラスの言葉に、私はひとまず安堵した。
「そうか。それなら良かった」
 私がことの顛末を話すと、レヴラスは呟いた。
「あの部屋は念のために一切の魔法が使えないよう封印をかけていたのですが、それが破れていたのですね。封印が機能しているかチェックをし忘れていたのです。ごめんなさい」
「では、レントンが起こした魔力の暴走のせいで私は気を失ったというのか」
「おそらくそうでしょう」
 私は改めてレントンという男が持つ魔力を知らしめられた。
 だが、高い魔力を持つ一方で精神が不安定になり魔力を制御する力を失った人間ほど恐ろしいものはない。
「あれほどの魔力の暴走に巻き込まれたのに大怪我せずに済んだのは幸運としか言えません。それにしても、随分うなされていましたね。突然あなたの悲鳴が聞こえてきたのでこの部屋に来たのですが」
 レヴラスは私を心配するような目で見た。
 私は眠りながら叫んでいたのか。そういえば、両手の袖がいやに湿っている。まさか、私は眠りながら涙を流していたというのか。
「まさか私は、眠りながら泣き叫んでいたのか……」
 私は両手に目をやりながら呟いた。
「ええ。私がいくら呼びかけてもあなたは泣くばかりでどうしようもありませんでしたよ。一体どうしたのですか」
「とても奇妙な夢を見たんだ。レントンの記憶が頭に直接流れ込んでくるような……」
 私の答えにレヴラスは暫く考えこんだ後、目を伏せながら呟いた。
「……それもおそらくは魔力の暴走が引き起こしたことでしょう。あなたの様子からして、見た夢は相当ひどいものだったのでしょうね」
 確かに、私が見た夢はとても恐ろしいものだった。しかし、現実の私までもが眠りながら泣き叫んでいたとは驚き呆れる。
「……そうだな。夢の中で最初のうちは私がレントンを見ていたのだが、そのうち意識が……」
 夢の内容を話そうとしたその時、先程から続く頭が割れるような頭痛にくわえ、喉元に胃液が込み上げて私はむせ返った。
 レントンの目を介して見た自分のグロテスクな顔、レントンに変身した私を罵る声が脳裏に焼き付いて離れない。
 そして、まるで本当に首を吊ったばかりかのように首がズキズキと痛む。
 気が付くと、私は胸を押さえながらぜえぜえと息を荒げていた。
「レクサス、無理に話さなくてもいいのです。嫌なものを思い出させてごめんなさい。無理は禁物ですから、あなたはゆっくりお休みなさい」
「すみません。マスター」
「では、私はレントンの様子を見てきますね」
 レヴラスは小さく頭を下げると、部屋を出ていった。
 
 
 五日後、身体の調子を取り戻した私はレントンの様子を窺いに部屋に入った。
 あれ以来の彼は殆ど暴れなくなったようで、両手の拘束は解かれていた。
 彼はベッドの脇に腰をかけたまま壁を見つめている。その顔はひどく悲しそうだ。
 私の姿を認めると、レントンはまるで親に殴られる前の子供のような怯えた表情を見せた。
 私を見る彼は今にも泣き出しそうな目をしている。そして、まるで身を守るかのように柔らかい枕を両手で抱きかかえている。
 そんな彼の姿はいささか幼児退行でもしてしまったかのようだ。
「私はあなたに何もしないよ。だからそんなに怯えなくても大丈夫だ」
 私は呼びかけた。
 だが、レントンは枕の端を手で強く握ったまま何も言おうとしない。
「まさか、五日前のことを気に病んでいるのか?」
「本当にすまない。あなたをあんな目に遭わせて……」
 レントンは声を絞り出すように呟いた。
 五日前にあの事故が起きたのはレヴラスの不注意があったからだ。だからレントンが責任を全て背負う必要はない。
「……あれは魔法の封印が破れていたそうなんだ。だから事故みたいなものだ」
 ――あなたが責任を全て背負うことではない。私のこの言葉はレントンの耳に届かなかった。
 彼は喋り始めると同時に泣き出した。
「ずっと前にあなたが言った通りだ。今やわたしには自分の心の制御も魔力の制御も満足にできない」
 レントンのこの言葉に、私は改めて自分の言葉がどれだけ彼に深く突き刺さっていたかを知ることとなった。
 もしかすると、彼が起こした魔力の暴走が悪夢という形で私を襲ったのは私が彼に働いた暴力のしっぺ返しなのかもしれない。
「こんなわたしは魔術士であってはいけないし、ここにいるべき人間でない。わたしは自分自身にとっても手に負えない人間なのだから、他人に見捨てられて当然だ」
 レントンは涙をぼろぼろと零しながらまくし立て続けた。
「私はこの通り無事だったんだ、そんなに自分を責めなくていい。泣かないでくれ」
 いくらなだめようとしても彼は落ち着きを取り戻そうとせず、ますます激しく泣く始末だ。
 どうしてあなたは自分を責め続けるのか。そんな風に私が暴力を働いた時と同じように泣かれるとまるで私が責められているようだ。
 あなたの涙を見ているとそれが重苦しい感情に変わってひたひたと私に押し寄せてくる気がする。
 その時、私はその重苦しい感情が罪悪感であることに気付いた。
 私が言葉でレントンを立ち上がれないほどに打ちのめしたのもまた罪悪感の裏返しでしかなかったのだろう。私は逃げたかっただけだ。
 今の私はもう罪悪感から逃げるなどという臆病な真似をすることはできない。
 再びレントンに目をやると、彼は顔を隠したがるような様子を見せている。
 そこで、私は部屋の端に置かれた小さな台に下ろし立てのタオルが置いてあることに気付いた。
 そのタオルを手に取ると、私は再びレントンの傍へ歩み寄った。
「レントン、これを使えばいい」
 タオルを手渡すと、レントンは躊躇いがちに受け取ったそれへと顔を埋めた。
 暫くして彼に人の話を聞くだけの余裕が出てきたのを見計らうと私は静かに切り出した。
「レントン。あの時に私を突き飛ばしたのは、私が巻き込まれないようにするためだったのだろう?」
 彼はタオルで目から下を隠したまま小さく頷いた。
「もしあなたがそうしてくれなかったとしたら私は大怪我していたはずだ。尻もちはついてしまったが」
 事実、悪夢の件はともかくとして身体の方はレントンに突き飛ばされて倒れ込んだ時に尻もちをついた程度で済んでいた。
 もし突き飛ばされることがなければ至近距離で魔力の暴走を受けることとなり、どうなっていたか分からない。
「本当にすまない……」
 レントンはむせ返りながら俯いた。
「私はあなたを見捨てない。あなたはこのギルドにいるべき人間だ」
 私はきっぱりと言った。その言葉には何一つ偽りはないだろう。
 その時、不意に背後の扉をノックする音が響いた。
 扉が開く音に振り返ると、そこにはレヴラスが立っていた。
「マスター?」
「何だか騒がしいので様子を見に来たのですが、あなたはまたレントンをいじめたのですか」
 レヴラスのその口ぶりは半分冗談めいていたが私にはただの冗談だとは思えなかった。
 事の顛末を説明すると、レヴラスは黙って頷いた。
 一方のレントンはタオルで目から下を覆ったまますっかり縮こまっている。
 そんな彼へレヴラスは身をかがめながら語りかけ始めた。
「あなたは確かに魔術に関して相当な才能を持っていますが、まだ未熟なところはあります。ここで学ぶべきことがたくさんあるのです。それから、今の状態ではあなたを独りにしておくことはできません。だから、あなたはここにいなくてはなりません」
「わたしは……」
 レントンはレヴラスへ何かを言おうとしたが、言葉が続かず再び涙に沈んだ。
 レヴラスはそんな彼を優しく諭すかのように言葉を続けた。
「……何ヶ月もいなくなって心配しましたよ、もう勝手に姿をくらませるなんてことはしないでください。あなたは私にとって必要な人間です」
 私は二人をただ見ていることしかできなかった。
「レクサス、あとは私に任せておいてください。あなたは仕事に戻っても大丈夫ですよ」
「はい、失礼します。マスター」
 私はレヴラスに従い、部屋を後にした。
 その時、私は一つのことを理解した。
 レヴラスも私も同じ時間だけレントンの身辺の世話をしてきたが、レヴラスは私よりもずっとレントンにとって支えになっているだろう。
 それはひとえにレヴラスがいつでもぶれることがない人間だからなのだ。
 彼は優しさと同時に揺るがない強さをもっている。それ故に、どんなに絶望的だと思える状況の中でも最良の選択を見出そうとすることができるのだ。
 ここで私は改めて、レヴラスという人物を魔術士ギルドの長たらしめている強さを痛感させられることとなった。
 その一方で、私は自分という人間の矮小さを痛感させられることにもなった。
 あまりに自分が情けなくなった私はトイレの個室に入ると、壁に額を押し当てるようにうなだれた。
 ぼんやりと数ヶ月前の自分がレントンに言った言葉を思い出す。
 実に「心の制御」という言葉は都合がいい。あの時の私はただレントンが感情を剥き出しにする姿を直視したくなかっただけなのだろう。
 そもそも「心の制御」とはただ感情を表出させないよう抑え込むこととはまた違う。
 そんなことを続けていたら心というものはやがて破裂してしまう。それこそ、魔力を充填しすぎた杖や魔法書のように。
 思えば、苛立ちに任せてレントンを攻撃していた私こそ心の制御というものができていなかったのではないか。
 自分のことを棚に上げて相手に対してだけ心の制御を強いることはとてもずるい。
 気が付くと、私は冷たい壁に額を押し当てたまま嗚咽していた。

 *おしまい*
 

 
 (あとがきのような何か)
 レクサスさんの立場回復。相手が生きていたらやり直せることも死んでしまったら無理になってしまうのだと思います。レントンにはもうできないこと。
 そういえば"suffer"という単語には「耐える」という意味があるそうですね。その他は苦しむ、患う、傷付く、など。
 

仄暗い下水道の底から。

 (まえがきのような何か) 
 この文章は『』と『悩める魔術士の自虐癖と掃除屋の孤独』の間の話のようなものになっています。
 例によって全てがねつ造なのでそれを留意していただけたらこれ幸い至極です。こちらはバルザック視点。

 

 
 掃除のため暁闇の街を回り終わった頃にはもう既に朝日が昇ろうとしていた。
 昨夜はひどい雷雨だった。そのせいで外に出る者がいなかったからなのかゴミはとても少なかったように思える。
 バケツとモップを片手に街を歩いているとすれ違う人たちが僕に挨拶をしてくる。
「君はこんな朝早くから街中を掃除して回って偉いね」
 彼らは皆僕に向けてそんな言葉をかけた。
 僕はその度父が生きていた頃から清掃員という仕事がこんな風に感謝されるものだったら良かったのにとほろ苦い気持ちにさせられた。
 三年ほど前に病に倒れ墓中の人となった僕の父は水と芸術の都と呼ばれるこの街の美しい風景を愛し、街の清掃に一生を捧げた人だった。
 だが、清掃員という仕事はノースティリスではあまり尊敬されるものではなかったらしい。父が人から敬意を持たれることはなかった。
 それでも僕はそんな父に憧れ、自分も父のような掃除屋になりたいと思っていたのだ。
 あとは、この街の地下にある下水道を見に行くだけだ。昨夜の大雨を考えるとかなりのゴミが流れ込んでいることだろう。
 だが、雨が降った次の日の下水道は大抵水かさが増し、その流れも速くなっているのでとても危険だ。
 そのことを思えば今日は下水道へ入るべきでないが一つ気がかりなことがあった。
 下水道へと続く階段に、何者かが立ち入った痕跡があったのだ。
 下水道へ立ち入る者は僕の他にも何人かいる清掃員か僕くらいしかいない。
 他の清掃員については昨夜は大雨だったのでわざわざ下水道へ入るなんてことはしないはずだ。それはまさに自殺行為に等しいことなのだから。
 そして、たまに変わり種な冒険者が下水道に立ち入ることが全くないわけではないが、冒険者がこの街に来たという話は全く聞いていない。
 そうだとすれば、一体誰が下水道へ入ったというのか。
 そう思案するうち、僕は何とも言えない嫌な予感がした。
 その時、僕は一年ほど前にこの街で出た一人の自殺者の話を聞いたことを思い出していた。
 確か、その人は僕と同じくらいの年齢の少女だったと聞いた覚えがある。
 彼女は心を患い、近所では厄介者として嫌われていたそうなのだが療養先で突然湖に身を投げて死んでしまったらしい。
 もっとも、僕は彼女やその周囲の人間と面識があったわけでなかったので詳しいことは分からないが。
 その少女と同じように、もし誰かが自殺を図るためにこの下水道に入ったとしたら――――。
 あるいは、自殺ではなくても誰かが敢えて下水道に入り込みうっかり流されてしまったとすればそれはとてもまずいことだ。事実、何人かの清掃員はそうして下水道で命を落としている。
 そんなことは僕自身の思い過ごしであってほしいと思ったが、やはり確かめに行かなくてはいけないと思っていたのだった。
 
 階段を降りていくと、下水道には案の定落ち葉や紙切れといったゴミがたくさん流れ込んでいた。
 しかし、どういうわけかその水量は想像したものよりは減っており、流れはさほど激しいものではなかった。
 それでも僕は足を取られ転ばないよう慎重な足取りでゴミを拾いつつ薄暗い下水道の奥へ奥へと進んでいった。
 今のところはこの下水道に人の気配はない。通路には水草や藻、魚の死骸が打ち上げられて今まさに干からびようとしている。
 その様子を目の当たりにすると、僕はそれらをバケツに放り込みながらげんなりした気分にさせられるのだった。
 魚の死骸はやがて腐って悪臭を放つ。そして、藻や水草は歩くたびに足に絡み付くので邪魔で仕方ない。
 だが、こうした水草や魚はこの水路の水質が良いことを証明するものでもある。
 ルミエスト下水道が「下水道」という名に似合わず魚が住むほどの場であるのは亡き父を含めたその他の清掃員の努力の賜物だ。
 だからこそ、僕は清掃員に憧れたのだ。
 水路を進んでいくと、通路の末端に打ち上げられた黒い影が目に留まった。あれは何だろうか。
 慎重な足取りで影に歩み寄ると、程なくしてそれが人であることを理解した。
 その人は水路の傍でうつ伏せになって倒れていた。黒く長い髪からして女だろうか。その女らしき人はひどく痩せた身体に黒く丈の長いローブと菫色のスカーフを纏っていて、全身は藻まみれだ。
 その肩を叩く。だが、相手は全く反応する気配がなく、全身はずぶ濡れで氷のように冷たい。
 この人は何故こんなところで倒れているのだろうか。間違ってここに入りこんだのか、それとも身を投げたのか。いずれにしても早くここから運び出さねばならない。
 僕はその人の身体を肩で支え、そのまま引きずるようして下水道の階段を目指した。
 だが、僕一人の力では階段の前までその人を運ぶのが限界だった。この人は僕よりもずっと背が高い。これ以上引きずったら余計に怪我をさせてしまうだろう。
 僕は階段の前にその人を横たえ、階段を駆け上がってすぐ傍にある宿屋に駆け込んだ。
 宿屋ではちょうど若いガードの男が一服しているとこだった。
「おい、どうしたんだ。一体何事だ」
 ガードはいささか眠そうな顔だったが、息を切らしながら宿屋に飛び込んできた僕に驚いたような顔を見せた。
 それに対して僕は状況を説明しようとするが、息が上がるせいで声が出てこない。
「げ、下水道で人が倒れて……」
 そこまで言ったところで僕はひどくむせ返った。
「大丈夫か、少し落ち着け。人が倒れていたんだな。その人の具合はどうなんだ」
「水に落ちたのか、反応がないんだ。早く運び出さなくちゃいけないが、俺一人では無理だ」
 尋ねるガードに対し、僕は息を整えながら答えた。
「そうか、こうしている場合じゃないな。早く行こう」
 ガードは椅子から立ち上がると、僕の手を引いた。
 ガードと共に階段を降りると、先程の黒ローブの女らしき人が横たわっている。
「この人だな。早く癒し手のところへ運ばなくては。僕は頭側を支える。君は足の方を支えてくれないか」
 ガードはあくまで冷静だ。僕はそれに応じて倒れているその人の足を支え、階段を上った。
 癒し手がいる魔術士ギルドの建物まで着いた頃には寒いにも関わらずガードも僕も汗だくになっていた。
「おい、誰か起きていないか。助けてくれ」
 ガードはギルドの建物内に向けて叫んだ。
 暫くすると、建物の奥から長い緑髪の男が眠そうな顔で出てきた。彼はこのギルドの番人だ。
「朝から一体何事だ」
 番人の男は片目をこすりながらガードに尋ねた。
「下水道に落ちた怪我人を運んできた。早く癒し手の処置を受けさせないといけないんだ」
「下水道だと? とにもかくにもその人を見せてくれ。私は癒し手を呼んでくる」
 よく見ると、番人の髪は寝ぐせでぼさぼさだ。先程起きてきたばかりなのだろう。
 番人が癒し手を連れてくると、ガードと僕は怪我人を床に敷かれた毛布の上に横たえた。僕がその人の顔を初めて白日の下で見たのはその時だった。
 その人は美系と呼ばれる部類の顔だったのだろう。黒く長い睫毛に鼻筋が通った顔だ。だが、血の気を完全に失った肌とひどく痩せた頬はまるで死人みたいだ。
 その時、僕は番人が顔を妙に引きつらせていることに気付いた。
「お、お前は……レントンなのか……? 一体何故こんな……」
 彼はわなわなと震えながら呟いた。
 番人の様子からすると、この人は彼の知り合いだったのか。「レントン」というのはこの人の名前なのか。
 癒し手は僕とガードが見ている前でその人の衣服を緩め、脈や呼吸を診始めた。一方、番人はその横でうなだれている。
「番人さん? この人は……」
 僕は尋ねた。
「この男は数ヶ月前にギルドから行方をくらませていたんだ。まさかこんな姿で見つかるなんて……」
 番人は鼻をすすりながら答えた。その時、僕は番人が「男」と言ったのを聞き逃さなかった。
 長い髪からして勝手に女かと思っていたが、あの人は男だったのか。早合点にもほどがあるんじゃないか。
 そこで、癒し手が番人に声をかけた。
「レクサスさん、もう一枚毛布を持ってきてください。それから担架も」
「ああ……」
 番人は力が抜けた声で答えると、地下へ続く階段を駆け下りていった。
 床に横たわるレントンという名の男に目をやると、首を隠していたスカーフは外されてローブの胸元もはだけさせられている。
 この人が女でなくて良かったのかもしれない。緊張した空気の中、僕はそんな不謹慎なことを考えていた。
 暫くすると、番人が地下から毛布と担架を運んできた。
 そして、僕に向けて尋ねた。
「君の名は何というのだ。この男をここまで運んできてくれたのだから、感謝しよう」
「俺……僕は『バルザック』です」
「バルザック君か。本当にありがとう」
 番人は緊張する僕に頭を下げると、癒し手と共にレントンを担架に乗せてギルドの地下へと運んでいった。
 僕たちの役目はどうやら終わりらしい。どうか。あの人が助かりますように。
 僕はそう願いながら、ガードと共に魔術士ギルドを後にした。
 そして、ガードは街の見張りに、僕は自宅にとそれぞれの生活へ戻っていった。
 
 *つづく*
 

 
 *つづきはこちらから*
 

水葬(再々構築ver・後半)

 (注意のようなもの)
 この文章は水葬(再々構築ver・前半)の続きです。前半から読んでいただけたらこれ幸い至極です。
 

 
 
 夏が終わって秋になった頃だっただろうか。その頃の私は家にこもりがちとなり、何故私でなく妹が死ななければならなかったのかという途方もないことを一人問うばかりだった。
 もちろん体調が良くなるはずもなく、明かりを消した部屋で一人塞ぎ込んでいることが多くなっていた。
 それはある日の夜、眠りに就こうとした時のことだった。
 部屋の明かりを消すと、私は部屋に人の気配を感じた。
 まさか、こんな時間に家族が部屋に入ってくるわけがないだろう。第一、家族は皆寝静まっているはずだ。
 では、この部屋にいるのは一体誰だというのか。その人は暗闇の中でずっと私を見ているような気がする。
 何とも言えない気味悪さと不安を覚えた私は部屋の明かりを点けた。
 すると、そこには誰もいなかった。辺りを見回しても誰もいない。机の下やベッドの下を見ても人など隠れていなかった。
 人の気配を感じたのは気のせいだったのだろうか。
 その日の私は再び明かりを消してそのまま眠りに就いた。 
 だが、その次の日の夜も私は明かりを消した部屋に人の気配を感じた。
 どうも、その人は背後から私を見ているらしい。
 だが、後ろを振り返っても誰もいなかった。
 やはり、気のせいだったのだろうか。それにしても、不気味で仕方ない。
 再び毛布を被ろうとしたその時、視界の隅に立つ女の影が鮮明に見えたので私は飛び起きた。
 女は長い髪を二つ結びにし、ひざ丈ほどの長さのワンピースを着ている。女というよりは少女と言った方がいいだろう。
 やがて、私はその少女が妹であること、全身がずぶ濡れになっていることに気付いた。妹は湖に身を投げて死んだ時の姿だった。
 私が見ているのは幻なのか。それとも、妹の亡霊が現れたというのか。
「あなたはグレースなのか……?」
 私は妹の影に問いかけた。
 だが、妹は黙ったまま口を開かない。その顔は影になっていて表情は分からなかった。
「許してくれ、助けられなくて本当にすまない」
 私はただ、妹に許しを乞い願うことしかできなかった。妹は私を見るだけで何の反応も見せない。
 しだいに、意識が朦朧としていく。私はそのまま、妹の足元に倒れ込んで目を閉じた。
 再び目を覚ました時、すでに日が昇っていた。部屋には妹の姿どころか、妹が入ってきたという痕跡すら残っていなかった。
 私の前に現れたのは妹の亡霊だったのだろうか。それとも、あれは夢や幻にすぎないものだったのだろうか。
 その日の私は釈然としない思いで一日を過ごすこととなった。
 そして、その日の夜も再び「人に見られている」という感覚が私を襲った。
 暗闇の中でベッドの傍に目をやると、昨日と同じようにずぶ濡れになったワンピース姿の妹が立っていた。
 濡れた前髪が貼りつき、影になってその顔はよく見えないが、ただ悲しそうな表情をしているということだけは分かった。
「……毎日私の前に現れるほどに、私のことを恨んでいるのか?」
 私は妹に向けて尋ねていた。妹はただその場に立ち尽くすだけで何も答えない。
「そうなのか? お願いだ、答えてくれ。本当にすまない」
 何も言わない妹に許しを乞い願ううち、涙が溢れ出した。
 真っ暗な部屋にはぽたりぽたりと水が滴り落ちる音と私の声が響くだけだ。
 その日も、妹は何も答えないまま姿を消してしまった。
 その日以来、妹は何度も私の目の前に現れた。
 妹はいつも一言も喋らない。それでもその姿は私を責め立てているようにしか見えなかった。
 何も答えないまま消えていく妹はまるで「あなたが私を殺した」と私に訴えかけているようだ。
 妹が現れるたび、私は半狂乱で許しを乞い願い続けた。
 時には妹を追いかけて家を飛び出し、湖に落ちてそのまま朝まで気を失っていることさえあった。
 そんな日々が続くうち、私は得体の知れない恐怖に苛まれ始めていた。
 ――妹が私を恨んで毎日私のところへやって来る。私が妹を殺してしまったも同然だからだ。
 たまに顔を合わせる近所の人間に対しても、私はこのようなことをまくし立てるようになっていた。
 だが、彼らは口をそろえて毎晩現れる妹は幻にすぎないと言い張った。
 ――あなたは妹を殺してなんかいない。あなたが言っていることは荒唐無稽だ。
 誰も彼もがそう言ったが、それを信じることなどできなかった。
 もし、私が自分の頭の中に芽生えつつあったある種の支配的な観念より周囲の人間のことを信じていたならば、これ以上の破滅は免れていたのかもしれない。
 だが、私は湧き水のように溢れ続ける恐怖に翻弄されるばかりで、そうすることができなかったのである。
 
 やがて、私は周りのあらゆる人間が私のことを「妹殺し」として見ていると確信するようになっていた。
 周囲からは否定されていたにもかかわらず、何故このような確信を持ち始めたのかは分からない。
 だが、それにはもう一つ思い当たることがあった。
 その頃の私は悪夢を繰り返し見るようになっていたのだが、その夢の中で私はいつも深く暗い湖の中にいた。
 水の中にいるのにもかかわらず、何故だか呼吸をすることはできたので息苦しさは全く感じなかった。
 そこで私は湖の底へと沈んでいく妹の幻を見るのだ。
 沈んでいく妹の手を掴もうとすると、その身体はバラバラの骨となり私の手をすり抜けていってしまう。
 妹の骨を追いかけて湖底へ沈んでいくと、そこには名も分からぬ人間たちの無数の骨が積み上がっていた。
 蟻が不要な土や砂を一つの場所へ捨てて塚を形成していくように、そこは死者が捨てられていく場所なのだろう。まさに人の「蟻塚」だ。
「お前は妹を確かに愛していた。だが、それと同時に憎んでいたのだ」
「お前は妹殺しだ。そんなお前は俺たちの仲間になる権利すらない」
「本当は分かっているのだろう。お前はあまりに無力で愚かだった」
 「蟻塚」に積み上がる死者の骨たちはまるで生きた人間のように私に向けて喋り続けた。
 そして、彼らはバラバラになった腕で一つの方向を指差しながら言ったのだ。
「あれを見ろ」
 と。
 骨たちが指差す方向に目をやると、岩陰から黒い衣服がひらひらと揺れている。
「近づいて、しっかりと見るんだ」
 骨たちの声にしたがって揺れる衣服の主の元へ向かい、それを見た私は息を飲んだ。
 私が目にしたのは、自分自身の腐乱した死体だったのだ。
 死体は一糸纏わぬ姿で湖底に横たわっている。衣服だと思っていたものは骨から剥がれ落ちた皮膚だった。 
 腐乱した私の、眼球を失って空っぽになった眼窩が私をただ見つめている。
 「蟻塚」を形成する妹を含めた無数の死者の中で、私一人だけが腐敗しながら肉体を保っている。
 これは、私の行く先を表しているのだろうか。私は耐え難い恐怖を感じ、悲鳴を上げた。
 そこで、いつも私は目を覚ました。
 その他には、妹の首を絞めて殺す夢や妹を湖へ突き落す夢を見ることまであった。
 湖の底に積み上がる無数の死者の骨、骨になった妹の亡骸、そして自分自身の腐乱した死体。
 私の手の中で消えていく妹の鼓動。悲鳴を上げ、もがき苦しみながら湖の底へ沈んでいく妹。
 夢の中で見るこれらの幻影は日ごとにより鮮明で生々しいものへと変わっていった。
 夢で見た名もなき死者たちが語るように、私は妹のことを愛していたと同時に憎んでいたのだろうか。
 本当に私はこの手で妹を殺してしまったのだろうか。
 そして、そんな罪深い私は死しても死者たちから疎外される存在なのだろうか。
 何が私の妄想で何が事実なのか。何が夢で現実か。その区別がつかなくなるのに長い時間は要さなかった。
 この頃にはもはや自分の中で狂気が幅を利かせ始めていることを周囲に隠せなくなっていたのだ。
 私は荒唐無稽な妄想の世界で生きようとする一方、その荒唐無稽な妄想を語ることで周囲に助けを求め続けていた。
 だが、それは人を遠ざけるばかりで助けを求める私の叫びは誰にも届くことがなかった。
 ――まるであいつみたいで気持ち悪いからやめてくれ。
 ――お前まで気違いになってしまえば家の恥だ。自分をしっかり保て。
 家族が私へと向けるこのような言葉もただ私を追い詰めるだけで何の薬にもならなかった。
 それどころか、彼らが妹を「恥ずべき存在」として見ていた事実を突き付けられてさらに絶望を深める結果となったのだった。
 そんな私は理由の分からない怒りに駆られて自室にあるものを発作的に壊し回るようになった。
 魔術士として駆け出しだった頃に大切にしていた何冊もの分厚い書物を力任せに破ってはそれらの残骸の中で茫然と座り込む。野獣のように呻きながら床を力任せに何度も殴りつける。そんな日が続いた。
 何故こうも破壊的な行動に走るのか。私にはもう自分の行動の意味が理解できなかった。私はただ絶望していた。
 自分はもはや精神を病み始めている。そのことに気付いた頃にはもう全て遅かった。
 そんなある日の昼のことだ。
 その日の私は気分がましな方だったので居間に行こうと部屋を出た。
 居間の前に立つと、扉の向こうで家族が会話をしているのが聞こえた。
 そういえば、私が最後に家族とまともな会話をしたのはいつだっただろう。
 まず、今まで物に当たり散らしたり妄言を吐いたりと散々振り回してしまったことを謝らなくては。
 扉に手をかけようとしたその時、私は扉の向こうの家族たちがやけにひそひそとした話し方をしていることに気付いた。
 一体何を話しているのだろうか。
 会話の内容が気になった私はそっと扉に耳を当ててみた。
「せめてあれをどうにかして部屋に閉じ込めておかねばならないだろう。兄妹そろって癲狂院送りだなんて不名誉なことこの上ない」
「いっそ虫にでもなってしまった方がここから追い出すか殺すかできるだけましなのに」
 ――扉の向こうから聞こえてきた会話の内容はこのようなものだった。
 この時に私が受けた痛手がどれほどのものだったかを語る必要はないだろう。
 私はかつての妹と同じだけ家族から蔑まれ、嫌われる存在になっていたのだ。
 私はもう家族との関係を修復できない。私に手を差し伸べてくれる人は誰もいない。それを改めて理解した私は目の前が真っ暗になる心地がした。
 心臓の音がうるさくなり出し、足ががくがくと震えて今にも崩れ落ちそうだ。
 もつれる足で逃げ込むように自室に戻った私は、机の上に置かれたペーパーナイフを左の手のひらに思い切り突き刺した。
 そして、それだけでは飽き足りず手の甲にもその刃先を何度も叩きつけていた。
 どれだけの間刃を振り下ろしていたのか。刃を握る手を止めた時には私の左手の皮膚は紫色に腫れて破け、血が流れては指を伝っていた。
 その場に座り込んで真っ赤に染まる指先を見るうち、部屋を荒した妹を叱りつけた日のことが頭をよぎった。
 あの日の妹も今の私と同じように自分へ刃を向けたが、あの時の私には自分自身に刃を向ける妹の気持ちなど理解できなかった。
 今の私は「全てはもう修復できない」という現実に打ちひしがれている。厄介払いにされる前の妹もこんな気持ちだったのだろうか。
 妹の壊したものが元に戻らなかったのと同じく、私がこの手で壊した全てのものも元に戻らない。
 そんなことを思ううち、喉がいやに引き攣り出した。
 そして、私はそのまま喉が潰れるのではないかというほどに泣き叫んだ。
 やがて、鍵を閉めた扉の向こうから扉を乱暴に殴りつける音が響き始めた。
 ――気違いみたいに泣くな、耳障りだ。
 誰の声かは分からないが扉越しに怒鳴る声が聞こえてくる。
 だが、私も好きで癇癪を起こしたかのように泣き喚いているわけではない。いくら歯を食いしばろうと全く歯止めが利かないのだ。
 いっそ泣くことができない虫けらになってしまいたい。それが無理ならこのまま息ができなくなって死んでしまいたい。
 私は耳を塞ぐように毛布を被り、水に溺れるような苦しみの中でただそう願った。
 
 その日の真夜中、私は家族が寝静まったのを見計らい、顔を洗おうと洗面所に立った。
 この時、歯を食いしばりすぎたせいで顎が重く痛み、喉も嗄れて声は殆ど出なくなっていた。
 そして、何度も手で擦ったせいで瞼と鼻の下はひりひりと痛み、頭痛のせいで足元はふらふらとしている。
 それに加え、冷たい水は散々泣き腫らした顔とぼろぼろに傷付いた左手にとても染みた。
 鏡を映る自分の顔を見ると、濡れた頬には前髪がべったりと貼り付いている。目は真っ赤に充血していて瞼も鼻の下も真っ赤だ。
 なんてひどい顔なのか。ここまで泣いたのだからもういいだろう。これ以上泣いたら目が潰れるか溶け落ちるかしてしまいそうだ。あるいは、涙の代わりに血が出てきてしまう。
 タオルで顔を拭って一息ついたその時、腹がぐうと音を立てた。
 思えば、今日は昼から何も食べていないのだ。それなのに今まで空腹を感じなかったのは涙や鼻水を大量に飲んだせいだ。
 だが、こんな時間に食事をするわけにもいかないだろう。空腹は部屋にある水薬でも飲んで誤魔化そう。
 そんなことを考えながら再び鏡に目をやると、私は思わず悲鳴を上げた。
 そこに泣き疲れた顔の妹が映っていたからだ。
 病み疲れた顔をした妹。目の前で苦しむ姿を見ておきながらも助けてやれなかった妹。
 グレース。何故あなたはいつもそんなに悲しそうな顔で私の前に現れるのか。やはり私を責め続けるのか。答えてくれ。
 ひどく掠れた声で妹の名前を呼ぶと、妹は私と同じように口を動かした。それは紛れもなく私の顔だったのだ。
 この時の私の顔はかつての妹とひどく似たものになっていたのである。
 妹が生きていた頃、周囲に「妹と似ている」と言われることはあったが、生き写しだと言われるほどではなかった。
 妹と同じように精神を病み出したことでそれが私の面相にも表れるようになったのだろうか。
 それとも、私は自分の顔を妹の顔と見間違えるほどに頭がおかしくなっていたのだろうか。
 あるいは、その両方なのだろうか。それは分からない。
 私は鏡に映るのが自分でしかないことに気付くと無性に自分が情けなくなり、力なく笑いながらその場にへたり込んだ。
 
 それから三日後の朝、私が目を覚ますと、家には誰もいなくなっていた。
 それも、家族の私物という私物までもが全て消えていたのだ。
 その時、私は全てを理解した。家族は私を一人置いてこの家を出ていってしまったのだ。
 かくして、私はとうとう独りぼっちになってしまったのである。
 半狂乱で誰もいない居間に駆け込むと、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれていた。
 ――もうこの都は我々にとって不名誉にまみれた場所でしかない。これ以上こんな忌々しい場所に住み続けろというのは酷な話だと思わないか。だが、お前はどうしてもこの都を離れたくないようなので、我々はその意思を尊重したいと思う。お前も二十を過ぎたのだから一人で暮らすくらいのことはできるはずだ。どうか、我々のことは探さないでほしい。
 紙切れにはこのようなことが書かれていた。
 家族は文面上では「意思を尊重する」などと書いているが、これは明らかに欺瞞だ。彼らは精神が使い物にならなくなった私を見捨てるつもりなのだ。
 私は家族の行為へ怒りを覚えた。だが、それ以上に耐え難いほどの絶望感が込み上げては黒い水のように私を飲み込んでいった。
 この数ヶ月のうちに、私は自分にとっても到底手に負えない人間になってしまった。こんな私のことが他人の手に負えるわけなどない。
 私と同じように当たり散らすことがあったとはいえ、妹はまだ十歳を過ぎたばかりだったのでまだ家族にとっては無理やり療養所へ送るなどの手の施しようがあった。
 だが、私は二十を過ぎたばかりの男だ。こんな私は妹と比べれば筋力がある分とても厄介だっただろう。
 さらに、私が魔術士であることを思えば私が魔力を暴走させることを恐れたのかもしれない。
 自分たちを殺すだけの力をもつ狂った人間と一つ屋根の下で暮らしたいと思う者がいるはずがない。
 したがって、私が見捨てられるのは必然だったのである。
 私は床に膝をつくと、手紙を前に頭を垂れた。三日前にあれだけ泣いたというのに、それでもまだ涙は出てくるらしい。
 止めどなく落ちる水は音を立てて紙の上の文字を黒く潰していく。滲んだインクはさながら黒い涙のようだ。
 妹を失って、魔術士としての地位を失って、家族も失って、これから私はどれだけを失うのだろう。
 黒い水は私の中から溢れ続けて止まらない。今の私はただただその奔流に弄ばれ続けている。
 私はあまりに無力だ。大切なものを守ることはおろか、自分という人間の始末すらできない。それ故に何もかもを壊してしまった。
 こんな私は大人の男として以前に人として出来損ないだ。「何の価値もない」としか言いようがない
 何もかもを失った今、頭に浮かぶのは自分自身を呪う言葉ばかりでしかなかった。
 
 この時、妹が死んでから間もなく一年が経とうとしていた。
 
 全てを失い、独りになった私に今や制御をかけてくれるものなど何一つなかった。
 したがって、私の中で幅を利かせていた狂気は孤独感と共に私を急速に蝕んでいった。
 そんな中で人らしい生活をすることなど到底無理な話だった。
 私は日がな鏡のない真っ暗な部屋に閉じこもり、その生活をより荒んだものへとしていった。
 そしてついに、夢の中で喋り続けていた死者たちは現実にまで現れるようになった。
 ――お前は妹の死を踏み台に悲劇の主人公を演じているにすぎない。
 ――お前は人の形をした怪物だ。死ぬ権利すらない。
 ――お前は不死者となって永遠に苦しむのがお似合いだろう。
 死者たちはそう言って私を罵り、そのたびに私はその声をかき消そうと何度も壁に頭を叩きつけた。
 もはや、正気を保とうとするには身体の痛みにすがるしか手段がなかったのだ。
 やがて、日ごとに私が痛みにすがる目的は自分が死ぬ存在であることを確かめることへと変わっていった。
 勿論それによって得られる安心は一時的なものにすぎず、より死に近い痛みを求めるうちに私は自傷行為を加速度的に悪化させていった。
 刃物で首や手足を深く切り刻む。毒薬を飲み干しては胃の中身を吐き戻す。紐で首を絞めつける。そんな行為が幾度となく繰り返された。
 自分が死する存在であることを確かめるために苦痛を求めて自分の身体をとことん傷めつける。いつの間にか私はそんな状態になっていたのである。
 そんなある日の夜、私は暗い洗面所の鏡に映る自分を見て我に返った。
 そこに映るのは、病み果ててひどく歪んだ面相に変わり果ててもなお生きている人間の姿だった。
 狂気を帯びて落ちくぼんだ赤い目、手入れを忘れられ伸びさらした埃だらけの黒い髪、ひどく痩せこけた頬、陽の光を避け続けて血の気を失った青白い肌。
 手当てをしないままの傷は膿んで焼けるように痛み、今にも白い蛆虫が湧き出しそうだ。
 こんな姿になっても人間は立っていられるものなのだろうか。ほぼ死人同然の態でないか。全てがおぞましい。
 その瞬間、立っていられないほどの眩暈と激しい吐き気に見舞われた私はその場に倒れ込み、胃の中身を床にぶち撒いた。だが、それでも吐き気は治まらず吐くものがなくなってもなお私は吐き続けた。
 全てを吐き戻して再び視界が鮮明になった時、私は自分の吐いたものがやけにどす黒いことに初めて気付いた。
 それは白日の下で見たとすると錆色をしているのだろう。口の中に広がる錆の味が何よりの証だ。
 毒薬や嘔吐によって傷めつけられ、全く食べ物を受け付けなくなった胃からはとうとう大量の血が吐き出された。
 再び膝立ちになって鏡に目をやると、歯もぼろぼろになり始めている。そして、鏡に伸ばされた腕は痩せ細って骨のようだ。
 今まで、鏡のない部屋に独り閉じこもっていた私は自分の手で自分の身体を壊しながらもその壊れ様というものが見えなくなっていた。
 誰も咎める者がいなかったが故に私の行為は制御が利かず、こうも取り返しのつかないところまでいっていたのである。
 こんな私の姿は大抵が醜い姿をしているという不死者たちと大差ないだろう。そして、全ては「身から出た錆」としか言いようがない。
 そこでふと、魔術士として駆け出しだった頃に書物で見た「狂気の杖」と呼ばれる杖にまつわる話が頭をよぎった。
 その杖は闇に堕ちた者だけが手にする資格を持ち、破滅を望んだとある魔術士が手にしたものだったと読んだ記憶がある。
 その魔術士は狂気に陥った末、不死者となってしまったという。
 その頃はその魔術士が辿った末路をなんて愚かなのだろうと一笑に付していたが、今の私には笑うことなどできなかった。
 その魔術士と今の私はどちらが愚かだろうか。
 私を罵る死者は存在しない。私は死のうと思えば死ねる存在だ。
 血を流す傷の痛み、嘔吐の苦しみ。これらは生きているからこそ感じるものだが、私はそれらをただひたすら嫌悪している。
 そこまでに死を求めるのなら、最初から私がするべきことは決まっていたのではないだろうか。
 そんな簡単なことに考えを及ばせることもなく、一人で死を追いすがって苦痛を求め続けていた私は非常に滑稽だ。
 そして、私は鏡に映る自分の姿を認識することで死が近いことを悟った。
 言うまでもなく、私が繰り返していた行為は死を早める行為である。
 私はもうじき衰弱が進んで立つことすらままならなくなり、血と吐瀉物の中で息絶えることになるだろう。
 実際、今の私は立っていることさえ苦痛になっている。
 いずれ死ぬのであれば、人の目に付く場で醜い死に姿をさらすより人の目に付かない場で消えるように死ぬ方がずっといい。
 だが、こんな身体で遠くまで行けるはずがない。
 この街の地下には下水道がある。そこであれば何とか辿り着けるはずだ。
 かくして、私は自ら命を断つために下水へ身を投げることに決めたのだ。
 それが、私の手で自分自身のためにしてやれる最後の施しだった。
 
 真夜中のルミエストは雷雨に見舞われていた。
 その中で私は身なりを整えて妹の形見であるスカーフを纏い、かつて妹と暮らした家に別れを告げた。
 激しい雨音だけが響く街を死人のようなおぼつかない足取りで歩いていく。街灯に照らされた黒い湖面にはそんな私の影が揺らいでいた。
 身に纏うローブは雨に濡れ、その重みを増して肌に纏わりついていく。しだいに全身の傷が開き、ひどく痛み始めた。
 だが、今の私にはもう傷の痛みなど全く怖いものではなかった。
 それよりも、途中で力尽きて無様な姿をさらすことの方が嫌であった。
 気を抜けばすぐにでもその場に倒れて動けなくなりそうだ。その前に早く辿り着かねば。
 ただそんな思いだけが私の身体を引きずっていた。
 下水道へと続く階段は宿屋のすぐ近くにあった。そこは管理が手薄なのか誰でも自由に入れるような様子だ。もっとも、下水道になんて好き好んで入っていく者がいるとは思えないが。
 そのまま階段をゆっくり降りていくと水路は雨で水かさが増していた。
 水路内には雨の匂いが漂っている。この水路は下水道というよりはむしろ雨水道の役割を担っているらしい。
 この水路がなければルミエストは頻繁に洪水に襲われることとなっていただろう。
 ああ。それにしても、この水路は「下水道」と呼ぶにはあまりに綺麗すぎる。下水道というより地下に造られた運河のようだ。
 そういえば、どこかでこの街を美しく保つために努力を注いだ清掃員の話を聞いたことがあった。だが、間もなく死ぬ私にはそんなことは今や無関係な話だ。
 水路で渦巻く水を前に、私は地面に座り込みながら目を閉じた。
 果たして、私は死後に妹と会うことはできるのだろうか。
 いや、もし妹に会えたとしても妹は私を拒絶するだろう。私は最後まで最低な兄であったのだから。
 そもそも、死後にまで「私」という意識に煩わされることは勘弁であった。私にはもう「私」という人間は手に負えない。だからこそ「私」の後始末のため私は死を選ぶ。
 死してもなお私が「私」であるのなら、私が命を断つ意味がなくなってしまうではないか。
 そして、行き場がなく誰の手にも負えない人間をこれ以上野放しにすることは自ら死を選ぶことと同じだけ非倫理的だろう。
 自分のためにも他者のためにも私が死ななければならないことは自明なのだ。
 どうか、これで全てが終わりであってほしい。
 私は心の底からそう願い、ゆっくりと身体を倒しながら轟音を立てる冷たい渦へ身を任せた。
 先程から雨水を飲み込み続けていたローブと髪はいとも容易く水に馴染んでいく。
 冷たいはずの水は私の身体を温かく抱き止め、その境界を曖昧にしていった。
 私は考える。もし、私の心にもこの下水道のような役割を果たすものがあったとすれば全てはここまで破壊されることなんてなかったのだろうか。
 あるいは、下水道たりうるものがあったとしてもそれだけでは間に合わず、どの道私は破滅する運命だったのかもしれない。
 ただ、私から溢れ出た黒い水は全てを破壊し尽くしてしまった。それだけが事実だ。
 私はもう全てを壊してもなお止まらない自分自身の奔流に飲まれるしかない。これこそ私の「絶望」だろう。
 ――――お兄ちゃん。
 その時、誰かが私を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
 ――もどっておいでよ。
 その声は、紛れもなく妹の声だった。
 グレース。あなたは一体どこから私に呼びかけているのか。
 戻っておいでなどと言われても、駄目なんだよ。私はもう戻れない。戻る場所なんてない。
 あなたを失ってから、周囲の人間の言葉に耳を傾けることもなく自己完結の世界で生き続けることを選んでしまった私はそれに相応しく自己完結の死を迎えなければならない。
 そして、私はあなたを守れなかった自分自身が許せなかった。だからこそ私は自分を処刑するという意味でも死ななければならないのだ。
 ――だめだよ。やめて。
 妹は私へ呼びかけ続けるが、私はそれを無視して深く暗い水の底に沈んでいく。
 そして、やがて何も聞こえなくなった。
 
 *おしまい?*
   


 
 (あとがきのようなもの)
  

 個人的にレントンさんと妹の年齢は8~10歳くらい離れているイメージがあります。この文章もそのつもりで書いていました。文中のレントンさんは22~25歳くらい。14歳と40歳では兄妹どころか父娘っていう年齢差になってしまいますし。

 イルヴァ資料館が更新されたことでレントンさんと妹の年齢差が6歳だと分かりました。そして妹の名前も判明しましたね。グレースさん、とてもいい名前だと思います。年齢差的に考えたらレントンさんはグレースさんを亡くした時点でまだ20歳にすらなっていなかった可能性があるんですね…。(2014年2月8日追記)


 狂気の杖のフレーバーテキストではレントンさんが同アイテムについてコメントをしていますが、「彼もきっと失いすぎたのだろうね」という言葉が何だか突き刺さります。レントンさんは妹の他に何を失ったのでしょうか。
 妹以外のもの(例えば地位とか家族とか健康な身体や心とか)を不運の連鎖で失い続けていたとしたら、それが40歳になってもなお影を落としていたとしてもおかしくはないような気がします。この文章はあまりに極端すぎる気がしますが。
 ちなみにスノードロップは修道院などでよく育てられていた花らしいです。その一方では花の色が死装束を連想させるということで嫌われることもあるとか。人に贈れば「あなたの死を望みます」という意味になってしまうあたり怖い花です。椿(カメリア)の花も「控え目な愛」とか「申し分のない愛らしさ」といった花言葉がありますが首が落ちるみたいな散り方をするのでそうした意味では…。
 蟻塚についてはdeadmanという今は活動休止してしまったバンドに同タイトルの曲があるのですが、同曲が収録されている"no alternative"というアルバムを聴いたら幸せになれるかもしれません。
 deadmanのボーカルの前バンドのKeinにも「一人になるくらいなら下水に…」と歌ってる曲があるんですよね。デモテープが入手困難なのでとてもつらい。
 前半の方でレクサス(番人)が「かたつむりでもできる」と言っているのは「そんなことはかたつむりのように学習力のない愚鈍な奴でもできる」という意味があったりなかったりします。
 声にするべき言葉を奪われ、声にならず頭の中に響く内省の言葉ばかりが増えていくという悲劇。鬱積し続けた激しい怒りや呪い≒絶望。
 嘔吐を繰り返すと胃酸で歯が腐ります。

 
 ついでに書くと、下水に飛び込んだレントンさんはまだ生きています。
 
 *おしまい*

前のページ | HOME | 次のページ


プロフィール

HN:
えりみそ
性別:
非公開

P R


忍者ブログ [PR]
template by repe