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資源ゴミ置き場

あまり健全ではない文章を置いていく場所だと思います。

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遺書。

 
 (まえがきのような何か)
 この文章は大体全てがねつ造だったり暗かったりなので留意していただけたら幸いです。
 文中のレントンさんは40歳すぎています。時系列はヴィンデール焼失後くらいか。
 

 
 
 ――もう水はたくさんだよ。溺れてしまいそうだ。
 いつだったか、あの人はそう言っていた。
 僕が最後にあの人と会った時、ルミエストは雪の代わりに桜の花弁で埋め尽くされていた。
 その時の僕は街のゴミ拾いをしている途中だった。
 そして、魔術士ギルド前にいたあの人は何かを思い詰めたような表情で湖畔に座っていた。
 彼は小石を手に取りながら低い声で歌を口ずさんでいる。異国の歌なのか。その内容は理解できなかったが、陰鬱な調子の歌だ。
 水辺には美しい歌声をもつ精霊がいるという。その精霊たちは若い女の姿をしているというが、もし男の姿をした精霊がいるとすればあの人はまるでそのような存在のように思えた。
 水の精霊たちの中にはその美しい歌声や魔力で人を惑わし、そのまま水へ引きずり込んで殺してしまうものもいるらしい。
 喪服のような真っ黒なローブを身に纏い、水辺で陰鬱な歌を口ずさむ髪の長い男の姿はいかにも人を水へ引きずり込みそうで不吉だ。
 事実、その頃のあの人はそのような危うさを帯びていた。四十を過ぎた頃からか、彼はめっきり快活さというものを失って周囲から孤立するようになっていた。
 何があったのか見当は付かないが、元々閉じこもりがちな面があったあの人はますます自閉的になって取りつく島をなくしていった。彼は僕に対しても段々と冷淡な態度を取るようになり、僕と彼とは疎遠になっていたのだ。
 この時、僕は暫くあの人に声をかけるべきか迷っていた。あの人はもう既にどこか遠くの存在になってしまったかのようだ。僕が声をかけても前と同じように冷淡な態度を取られるだけなのではないか。そう思うとどうしても声がかけられなかった。
 だが、暫くして僕に気付いたあの人は歌うのをやめて僕に向けて手を振った。
 ――バルザックか、久しぶりだな。丁度あなたと久しぶりに話をしたいと思っていたところなんだ。
 そう口にした彼からは先程に僕が感じた不吉な雰囲気は全く感じ取れなかった。僕の姿を認めた彼は水妖から人間へと姿を変えた。
 僕は今まであの人のことをどこか遠くに行ってしまった人だとか人ならざる存在になってしまったかのようだと思っていたが、それは思い違いだったのではないか。彼はこうして僕に笑いかけてくれるじゃないか。
 その時の僕はあの人が自ら声をかけてきたのを吉兆だと思い、ある種の安心を覚えていた。
 そうして僕は暫くあの人とは他愛のない話をしていたのだと思う。
 ――こんなに桜の花弁で埋め尽くされていたら掃除をするのも大変だろう。この時期は花弁を踏まないように気を使うので苦手だよ。
 あの日の彼はやけに多弁で、そんな風に僕たち清掃員を気遣うようなことも言っていた。それは今でも覚えている。
 最後にあの人が見せた、感情を取り戻した人間の姿はただの幻想だったのだろうか。それは分からない。
 それから一週間後のことだった。僕は朝にガードから「湖で人が死んでいる。その死体の処理を手伝ってくれ」という依頼を受けた。
 ガードの言うことによれば死体はおおよそ三十から三十八くらいの年齢になるであろう男で、どうやら湖に転落して溺れ死んだようだとのことだった。
 桜が咲く頃は誰もかれもが浮かれて突拍子もない行動に走りがちだ。浮かれた酔っ払いが湖に落ちたのだろうか。その時の僕はそんな風に思っていた。
 若い清掃員の仲間二人と共にその現場に赴くと、湖には淡い紫色の霧がかかっていた。
 何もこんな時期に死ぬことはないだろうに。僕はそんなことを思いながら群がる群衆を掻きわけてガードの元へ向かった。
 そして、湖に沈む仰向けの男を見たその時、僕は心臓の辺りを鉄の棒で殴られるような衝撃を覚えた。
 何故なら、その男の姿に見覚えがあったからだ。見覚えがあるも何も、一週間前に会ったばかりなのだから見間違えるわけがない。
 ――そんなことがあるなんて嘘だと思いたい。これは何かの冗談だ。
 僕は両目をこすり、再び死体に目をやった。やはり、僕が見ているものは夢でも幻でもない。目の前に横たわるのは、一週間前にこの湖の傍で歌を口ずさんでいた男だ。
 湖で死んでいた男とは、紛れもなくあの人――レントンだった。
 これは悪夢なんじゃないか。僕はそう思わずにいられなかった。
「おい、どうした。早く終わらせよう」
 二人の清掃員が呆然とする僕に声をかける。
「あ、ああ……」
 僕は掠れた声で返事をすると、両手に手袋をはめて清掃員と共に湖へ入った。
 何とか湖から引き上げたレントンを地面に横たえると、その鼻と口から泡状の白い液体がどろりと漏れた。そして、それに加えて鼻からは血までが流れ出している。
 その氷のように冷え切った白い手首に指を当てて脈を探るが、脈は全く見つからない。
 やはり、もう駄目なのだろうか。
 その時、僕は彼の衣服にごろごろとした重いものが入っていることに気付いた。
 これは一体何なのだろうか。
 僕はその衣服のちょうどポケットになっているところに手を入れた。何だか硬いものがいくつも入っているようだ。
 そして、そのままポケットをひっくり返す。
 ――ポケットに詰め込まれていたものは、大量の石だった。それも、クズ石や鉱石の欠片など種類を問わず無造作に詰め込むものを選んだらしい。石はコートのポケットからも、ローブの下に穿いたズボンからも出てきた。
「これは多分自殺だろう。多分、この大量の石で身体を重くして飛び込んだんじゃないか」
 僕の傍にいた、眼鏡の清掃員が呟いた。
 そして、もう一人のにきびが目立つ清掃員もまた口を開く。
「どんなつらいことがあったのかは分からないが、よりによって入水自殺なんて勘弁してくれよ」
 一方、僕は目の前の現実を受け入れられそうになかった。
 しどけなく解け、桜の花弁が絡みついた黒く長い髪。縁が赤い真っ黒なコートにも菫色のスカーフにも桜の花が纏わりついている。そして、力なく解けた両手の指にまで桜だ。
 目の前の男がもう既に死んでいることは頭では分かっている。だが、本当にこれは何かの間違いではないのか。まだどうにかしようがあるのではないか。
 気が付くと、僕は二人の清掃員に向けて言っていた。
「この人はまだ蘇生できるかもしれない。だから、魔術士ギルドへ行こう」
 と。
 ガードと清掃員はそんな僕を怪訝そうな表情で見た。
「何をしているんだ。早く、この人を連れて行かなくちゃ間に合わないんだ。お願いだから手伝ってくれ」
 僕は三人へ懇願するように言葉を続けた。
 だが、ガードも清掃員も首を横に振るだけだった。
 ガードは僕に向けて言う。
「君は何を言っているんだ。この人はもう死んでいる。見れば分かるだろう」
 と。
 二人の清掃員は言う。
「その死体は早く死体袋に入れて運び出さなくては駄目だ」
 と。
「嫌だ。そんなことは認めたくない。納得できない。できそうにない」
 僕は首を横に振りながらその場で泣き崩れた。
 三人はそんな僕を納得させるよう取り計らったのか、死体袋を魔術士ギルドまで運んでくれた。
 だが、もちろんのこと死体が息を吹き返すことなどなかった。
 ――彼が自ら命を手離して拒む以上はもう私にも手の施しようがない。彼の死を受け入れて楽にしてやることが、あなたが彼のためにできる最後のことなのではないか。
 死体の手を握りながら泣き崩れる僕を諭すように癒し手は言った。
 そうして、僕は鼓動を失ったレントンの手を手離した。その時の体温を失った彼の手の冷たさは一生涯忘れることができないだろう。
 
 
 それから数日後、レントンはルミエストの西にある墓所へと葬られた。
 棺に入れられた彼の顔は死化粧を施され、まるで眠っているかのようだった。彼が湖から引き上げられた時には鼻血を垂れ流していたと言われてもそれを信じられる者がどれだけいるだろうか。
 かつてのティリスでは、自殺は最も非倫理的な死であるとされていたらしい。
 もしその時の時代であればあの人の死体は埋葬すら許されずに街で晒し物にされ人々に石を投げつけられることとなっていただろう。
 だが、今のティリスにおいては自殺も数多ある手段の一つでしかないとされている。神ですらそれを認めているのか、望む者には神自らの手で死を与えてくれるという。
 今のこの世界は、自ら命を絶った者も、病で命を落とした者も、天寿を全うした者も平等な死者として埋葬される世界だ。
 もちろん未だに自殺者を毛嫌いする者はいるが、名目上は自殺者も病死者も平等になったと言ってもいい。
 かつて、レントンは精神を病んだ妹を自殺で亡くしたと語っていた。
 また、彼女が自殺者であることもあってその葬儀はひどく手短であった、人々は表向きではわざとらしいほどに妹の死を悲しむ振りをしていたが、それが却って死者を蔑んでいるのを隠しているようで非常につらい気持ちにさせられたと彼から聞いた覚えもある。あの人の妹は埋葬の前に死化粧を施されることもなかったはずだ。
 今から二十年ほど前はまだ精神病者に対する偏見は根深いものであり、自殺者に対する偏見もまた相当に根深いものだったような気がする。もっとも、さすがに自殺者を街で晒し物にするなどという表立った迫害はなかったが。
 おそらく彼は自分の妹が死後もなお偏見や侮蔑の目に晒されるのを目の当たりにしていたのだろう。
 妹の死から年月が経ち、ティリスの倫理観が少しずつ変化していくにつれ精神病者や自殺者に対する偏見が和らいでいくのを見ていて彼は一体何を思っていたのだろうか。
 そして、あの人自身は「自殺」という行為に対してどんな思いを抱いていたのだろうか。自分自身が自殺によって愛する人を失ってひどく悲しい思いをしたというのに、彼はどうして自殺なんてしてしまったのか。
 それは今となっては分からない。
 ただ、レントンは最終的に入水という手段をもって自ら命を絶ってしまった。それだけが確かなことだ。
 
 
 それはレントンが埋葬されてから一月ほど経った頃のことだった。
 いつもの習慣としている街の掃除が終わった後、僕はレントンが死んでいた場所へと足が赴いていた。
 桜は全て散り、花弁は殆どがどこかへ消えてしまった。そこはもう死体が見つかった時の面影など残っていない。タイルの上にあの人が流した鼻血の跡がうっすらと残っているだけだ。
 僕はそのまま血の跡の傍に腰かけた。弱い風に揺られて擦れ合う木の葉の音を聞いているとますます憂鬱な気分にさせられるものだ。
 あの人はどうしてここを死に場所にしようと考えたのか。あの人は妹の後を追うつもりで水に身を投げたのだろうか。本当にどうにかしようはあったのではないか。
 もしかすると、あの人が僕に声をかけたのは別れの言葉を告げようと思っていたからなのかもしれない。もしそうだとすれば僕はどうしてそれに気付けなかったのだろうか。
 暫くその場でうなだれていると、不意に背後から人の気配を感じて僕は顔を上げた。
 振り返ると、そこには長い金髪を一つにまとめている男が立っていた。彼は一つの花束を手にしている。
「すみませんが、そこに花を手向けてもいいでしょうか。そこで知り合いが亡くなったのです……」
 男はおずおずと僕に尋ねた。
「全く構わないが……俺もここで知り合いを亡くしたんで、ちょうど立ち寄ったところなんだ」
 僕は頷きながら言った。
「では、少し失礼しますね」
 男は軽く頭を下げると、タイルの上に座り込みながら花束を水に浮かべた。
 この男は一体誰なのだろうか。丈の長い緑色のローブを身に纏っている辺り、その風貌は魔術士のようだ。ということは、彼も魔術士ギルドの人間なのだろうか。
「あなたもここで知り合いを亡くされたのですね。この都はこの時期になると水で亡くなる人が多くてとても悲しい場所です」
 男は悲しげに呟いた。
「ああ……俺の知り合いはここで溺れ死んでしまった。どうやら服のポケットに石を詰め込んで身を投げたみたいなんだ」
「そうなのですか……私の知り合いは魔術士ギルドで部下にあたる人間でした。彼も水に入って死んでしまったのです。一ヶ月前のことでした」
 男はどうやら魔術士ギルドの人間らしい。もしかすると、この人もレントンを知っているのだろうか。
「俺の知り合いが死んだのも一ヶ月前だが、彼も魔術士ギルドの人間だったんだ。『レントン』という名前の男なのだが、もしかしてお前さんの知り合いというのはまさか……」
 僕が尋ねると、男はやけに驚いたような顔を見せた。
 そして、明らかに動揺した様子で僕へ尋ねた。
「え。あの、あなたはレントンをご存じなのですか?」
「ああ。黒い髪に赤い目のいつも紫色のスカーフを着けていた男のことなら間違いない」
 男は驚きと悲しみが入り混じった面持ちで話し始めた。
「ああ……そんな。本当に間違いなさそうです。レントンは私のところのギルド員でした。私がまだ若い頃は同期の関係だったのです。その頃の彼は本当に優秀で、妹思いの心優しい人でした。それが……」
「俺も、あいつの妹さんの件は本人から聞いたことがあるよ。彼が変わってしまったのはその頃だったのか」
「……そうですね。ちょうど私がギルドマスターとして着任した頃でしょうか。妹が公に話すことを憚られる亡くなり方をしたようで、レントンが変わってしまったのはその頃でした。その頃は私も多忙だったので詳しいことは分からないのですが。一時期、精神のバランスを大きく崩してしまった彼への対応に骨を折られることもありました」
 その時、男が自身を「ギルドマスター」と言ったことを聞き逃さなかった。まさか、この人が魔術士ギルドの長だというのだろうか。
「おい。ちょっと待ってくれ。さっきお前さんは『ギルドマスター』と言ったが、まさかお前さ、いや。あなたは……」
 僕が尋ねると、男ははっとするような顔を見せながら再び頭を下げた。
「ああ、すみません。名乗り忘れていましたね。私は『レヴラス』といいます。一応、魔術士ギルドのマスターです。あ、呼び方については気にしなくても結構ですよ」
 かつてレントンから魔術士ギルドのマスターについて話を聞いたことはいくらかあったが、ギルドマスター本人に会うのは初めてだ。仮にもギルドをまとめる人間なら大層プライドも高そうなものだが、本人は謙虚そうな印象だ。
「いや、ギルドマスターたる人を相手にお前呼ばわりはあまりに失礼すぎだ。すまない」
「いいえ、いいのです。そういえば、あなたのお名前を聞いていませんでした」
「ああ、俺も名乗り忘れていたな。すまない。俺は『バルザック』という」
 僕もまたレヴラスへ頭を下げた。
 暫く湖をぼんやり眺めていると、不意にレヴラスが口を開いた。
「そういえば、あなたがレントンと知り合ったのはどういった経緯でしょうか。詮索するわけじゃないのですが、少し気になるのです」
「あいつと初めて知り合ったのは確か……ああ。そうだ。街の掃除をしている時に偶然体調を崩したあいつが路地でゴミ箱の影に座り込んでいるのを見かけて声をかけたんだ。あいつと関わるようになったのはそれからだったな」
「そんなことがあったのですか。彼は時折行き先も告げずフラフラとどこかに行って私や番人を困らせることがありました。私も私で不甲斐ないところはあったのですが、どうやらレントンはだいぶあなたのお世話になっていたみたいですね。もし迷惑をかけたことがあったなら本当にごめんなさい」
「いやいや、迷惑だなんてことはなかった。お前さん……失礼。あなたも相当の苦労をしていたんだな。レントンは何だかんだ言って面白い奴だったと思うよ。近年はどういうわけかあいつの方から距離を置かれるようになって疎遠になってしまっていたが……最初は俺の方が何か嫌われることをしたのかと思っていたんだがそれだけでは説明できないような嫌な感じがしていたんだ」
 レヴラスは僕の話に耳を傾けながら頷いた。
「……確かに私も近年の彼からは冷淡な態度を取られ続けていました。あなたに対しても同じような状態だったのですね。皆に冷たい態度を取る理由を聞いてみてもそれに対してどこか見当違いなことを言われるばかりで会話が成立しなかったのです」
 かつてのレントンは陰気な印象こそあったが喋ってみれば面白いことを言ったり面白いことに笑ったりしていた。だが、近年の彼からは傍にいてもどこかよそよそしいような嫌な感じがしていた。
 まるで人間の姿をしたまま非人間的な存在に変わってしまったか、あるいは自分たちとは違うどこか遠い場所へ行ってしまったかのような異様な雰囲気を放っていたと言ってもいいだろう。
「レントンには失礼だが、まるで俺たちと同じ人間の姿をしたまま非人間的な存在、例えば幽鬼とか、そんなものに変わってしまったかのようだったな。最後にレントンと会った時、あいつは湖を眺めながら暗い調子の歌を歌っていたよ。それを見た時、これまた失礼だが水に棲む妖怪かと思ってしまった」
「まるでニュンペーみたいですね。もし男の姿をしたニュンペーがいるならですが。最後には水の中へ還ってしまう辺り、ニュンペーそのものです」
「結局、レントンは水では生きられなかったみたいだがな……あいつが死ぬ一週間前、珍しくあいつの方から声をかけられたんでいくらか他愛のない話をしたんだ。今思えば、俺に声をかけてきたのはその時点で入水を決めていたからだろうか……」
「そういえば、レントンの遺体がここで見つかる二日前にギルドで突然私の部屋に彼が来たのです。彼は私と暫く他愛のない思い出話をして帰っていったのですが、部屋を出る時にやけに丁寧な挨拶をしながら私へ手紙が入った一枚の封筒を手渡しました。『これは別にあなたに宛てたものではない。そのまま捨ててしまっても構わないが、もし封を切るなら一ヶ月後にしてほしい』と言いながら。どうして一ヶ月後なのか、どうして私宛てではないものを私に渡すのかと聞いてみても理由は教えてくれませんでした」
 思えば、僕が最後にレントンと言葉を交わした時もあの人は僕へ何だか妙にかしこまった挨拶の言葉を口にしていた気がする。
 最後にあの人が僕へ見せた笑顔は吉兆などではなく、凶兆でしかなかったのではないか。
 レヴラスは沈痛な面持ちで呟いた。
「それから、部屋を出る時にレントンは何故だか少し泣いていました。これまた理由は教えてくれず、私はそのまま彼を帰してしまったのですが。その翌日にレントンがギルドへ顔を出すことはありませんでした。おそらく、彼が私の元を訪れたその日が彼の自殺を止める最後のチャンスだったのでしょう……もし別れの時がそこにあると分かっていたなら、結果は違ったのでしょうか」
 あの人は、死の前日に思い出話のためギルドマスターの元を訪れて別れの言葉を告げる時に一体何を思っていたのだろうか。その時、あの人の心には自殺を躊躇おうという意思が芽生えることはなかったのだろうか。
 この街を吹き抜ける風は木の葉を揺らし、湖面に細かい波を作っていく。見上げる空は雲ひとつない。
 この世界でも水の中でも生きられなかったレントンは今どこにいるのだろうか。
 この街にはいくつも風の女神の像が立っている。死して身体からも引力からも解放された者は風と共にどこへでも行けるのだろうか。
「レヴラス。一つ聞きたいことがあるんだが……」
 僕は尋ねた。
「ええ。構いませんが……」
「さっき、レントンがあなたへ封筒を渡していったと言ったがその中身は……」
「実は、封筒の中身はまだ見ていないのです。レントンが亡くなった後、私はその封筒の中身が遺書だと気付きました。既に封筒を渡されてから一ヶ月経っていますが、彼が最後に残した言葉と一人で向き合うのが恐ろしく思えて封筒を開くのを躊躇ったままになっているのです」
 レヴラスはそう答えると、首を横に振った。
 死者が残していった言葉は生きた人間のそれよりもずっと重い。それは、死者の言葉が死者自身の全てになるからだ。一人の人間が死者の全てを背負うなど到底無理だ。
「その封筒の中身なんだが、俺も読ませてもらって構わないだろうか。レントンがどんな言葉を最後に残したのか知りたいんだ。それに、こんなことを言うのはおこがましいが、一人で死者の言葉に向き合うのはやはり危ないと思う。一人で背負い込むには重すぎる」
「確かにあなたの言うとおりですね……情けない話ですが、正直に言えばこの一ヶ月のうちに私も精神が参ってきているのです。もちろんレントンを止められなかったことへの後悔はあります。それから、私は今までギルドで魔術実験と銘打って多くの命を奪ってきた身ですが、身近な人に死なれたことで『死』というものが自分のすぐ隣にあるのだと気付かされて恐ろしくて仕方ないのです。次は自分だろうか……と」
 レヴラスは再び顔を伏せると、頭を抱え込んだ。
 僕の横で魔術士ギルドを統治しているという男が震えている。
 翌日に湖へ身を投げるつもりでいるあの人からそれと知らず遺書を渡されたというこの男はこの一ヶ月の間にどれだけ苦悩していたのだろうか。それは分からない。
 僕はそれ以上の言葉が見つからずそのまま黙り込んだ。
「すみません。喋りすぎましたね。そろそろ失礼することにします。それから、あなたのお家はどちらでしょうか。ギルド内部にはあなたを入れることができないので明日そちらへ伺いたいのですが……」
「俺の家はギルドから少し北へ歩いたところにある。朝と昼は掃除に出ているかもしれないが、夜なら居るよ」
「分かりました。ありがとうございます。では、明日はよろしくお願いします」
 レヴラスは立ち上がると、僕に向けて深く頭を下げた。
「ああ、こちらこそ」
 僕もまたレヴラスへ頭を下げる。
 そして、レヴラスは魔術士ギルドへと戻っていった。
 
 
 
 レヴラスが僕の家を訪れたのは翌日の夜だった。
 僕が玄関から居間へと招き入れると、レヴラスは頭を下げた。
 居間にはかつてレントンを招き入れた時に彼と共に言葉を交わしたテーブルと椅子がある。
「とりあえず、適当に座っておくれ」
「では、失礼しますね」
 レヴラスは再び頭を下げながら椅子に座ると、懐から一枚の白い封筒を取り出した。
 手渡された封筒を手に取る。封筒はしっかりと糊付けがされ、その隅に小さくレントンのサインが書かれていた。
「しっかりと封がされているな。少し切ってもいいだろうか」
「ええ。どうぞ、このはさみを使ってください」
「おお。すまないな」
 レヴラスに手渡されたはさみでその封筒の端を慎重に切っていく。紙の切れる音がやけに大きく部屋に響いた。
 開いた封筒を逆さまにし、その中身を手に取る。
「これが……」
 この便箋こそがあの人の「遺書」なのだろう。
 僕もまたレヴラスと同様に死者の最後に残した言葉と向かい合うことへの恐怖はあった。
 だが、それから目を背けてはいけない。
 便箋の上には、封筒の隅に書かれたサインと同じ黒いインクで書かれた文字が並んでいた。
 
 
 まず、この手紙は特定の誰かに宛てたものではないと読み手のあなたへ伝えておかなければならない。
 この手紙を読んでいるのは誰だか分からないし別に誰でも構わない。誰にも読まれず捨てられたとすればそれもまた幸いなことだ。
 いずれにせよ、あなたがこれを読んでいる時にはもう私はこの世にはいないだろう。
 だが、私が死んだのは別に私の他のあらゆる者の責任でないことだけは保証しておく。だから、あなたが私の死に対して責任を負う必要はない。敢えて私の死を何かのせいにするとすれば「運命」などという曖昧なもののせいにするのが最も適当なのかもしれない。
 運命といえば、この世には幸運の女神というものがあるというが、彼女を恨むのもお門違いなことだろう。それでも人というものは理不尽なことを何かのせいにしなければ生きていけないのだから非常に大儀な生きものでしかない。
 近年までの私もまたそうして理不尽なことを全て何かのせいにしようと足掻きながら生きていた人間なのだが。思えば、それを意識するようになったのは絵描きを目指す妹を亡くしたことが大きなきっかけだっただろう。
 私は妹の入水自殺という理不尽な出来事を何かのせいにしようとしていた。妹が精神を病んだのは才能の限界に気付いたからだ、才能がないばかりに努力が報われなかったからだ、妹が湖へ身を投げなければいけなかったのは誰も理解者がいなかったからだ……と。
 一時期はそんな自分に嫌気が差して「私がこの手で妹を殺した」という現実離れした妄想に逃げ込んだこともあるが、それは傍から見れば狂気としか言いようがないことだったはずだ。そのせいで多くのものを失ったし、迷惑をかけた多くの人には詫びなければいけない。もしかするとあなたもその時に私が迷惑をかけた人の一人かもしれない。もしそうだとすれば、あなたにはいくら詫びても詫びきれない。
 
 今まで私は「自分自身さえ変わればかつてと同じように自分が生きる価値を認めることができるようになる」と信じた上で何度も変わりたいと望んできた。そのために魔術へ頼ったこともある。だが、生まれ変わりを望むことは今の自分をとことん否定して破壊する行為でしかなかったのだ。あなたには自分自身を再構築して新たな自分を確立する力のない人間が自己の変容を望むことはとても危険だということを分かってもらいたい。
 そのうち、私の心に棲みついた「自己の変容を望むもう一人の私」は何かにつけ私へ残酷な言葉を吹き込むようになっていった。
 もし、あなたの傍にあなたへ残酷な言葉を囁き続ける人間がいたとすれば、ましてやその人間が自分自身の心に棲みついて出ていってくれないとすれば、あなたはどれだけ耐えられるだろうか。
 私はそんな残酷な自分の声を相手にし続けることに疲れ切ってしまったのだ。
 また、もう一人の私は時に私以外の誰か――例えばギルドで顔を合わせる人間や妹といった人間の声を借りることさえあったのでそれもまた耐えられなかった。近年の私があなたたちとの関わりを避けるようになったのはそれと無関係ではないはずだ。かつて関わりのあった人と疎遠になっていくのはとても寂しいことだったが他人の声を借りた私に惑わされて人間嫌いをひどくするよりはずっと良かったのだ。
 
 それから、私が数ある方法の中でも入水を選んだのもまた悲しいかなある種の「宿命」としか言いようがないだろう。
 あなたたちに黙っていたことを一つ打ち明けると、近年の私はどうしたことか別に喉が渇いているわけでもないのに毎日大量の水を飲み続けてしまうことに悩まされていた。水など欲しくないと思っていても強迫的に飲み続けて制御が利かないのである。
 どうも、エーテルの病の中には欲しくもない水薬を飲み続けてしまうものがあるという。そして、神経の病の中にも進行するうちに大量の水を飲み続けるという症状が現れる病があるらしい。私がどちらなのかは分からない。
 エーテルの病は一度発病すれば多彩な症状を呈しながら進行する一方で二度と治らない。私の多飲がエーテルの病によるものなのだとすれば、私の身体が使い物にならなくなる日はもうすぐそこにあるのだ。
 私は今でさえ神経を病んで他人を煩わせる人間だというのに、それに加えて進行していく病によってますます他人を煩わせる存在になることはもう勘弁だった。他人がどう言おうと私自身が嫌なのだ。
 そして、私は妹を水で失ったことを期に、水という元素の恐ろしさに気付いた。大部分の生きものは体内に水を孕む存在であり、ありとあらゆる体液は水という元素がなければ作り出せない。私もまた水を体内に取り込んでは吐き出すのを繰り返しながら生きている存在である。
 その一方、水は人をいとも簡単に殺してしまえる元素である。生きものは水を失いすぎても飲み込みすぎても死んでしまう。
 妹を失って以来、私は頻繁に涙を流すようになったが、それもまた苦痛だった。私はもう泣きたくないのに涙は流れ続ける。
 涙から遠ざかるために身体を傷付けてみてもそこから出てくるのは赤い色をしただけの水だ。自身を慰めてみても出てくるものは子種を含んだ水でしかない。とことん私は水に縛り付けられている。生きている限り水からは逃げることができない。
 生きるということは所詮、水を取り入れて吐き出して……の繰り返しだ。人は言うだろう。それ以上の意味はあるはずだと。だが、今や私にはそれ以上の意味を見出せないのだ。
 そんな私が妹との思い出にすがるのをやめられず、水に囲まれたこの街で暮らし続けていたというのも皮肉な話なのだが。
 
 最初、私は水を失いすぎる方法で死のうと考えていた。具体的にいえば自刃によって動脈の血液を捨てて死のうと思った。だが、それではこの街の清掃員たちをあまりに煩わせてしまう。
 どうやら私にとっては水を失いすぎて死ぬのより過剰な水で死ぬ方が簡単らしい。そこで考えた方法というのがこの街の湖に身体を沈めるというものだった。しかし、あまり深いところに沈んではそれまた清掃員を煩わせることになるのでこれまた望ましくない。
 ――――。
 私は大量の石をポ  トに詰め 重くなった衣服を着て眠  を飲み、この街の湖の浅い 所へ身を沈める。
 死ぬ方法なら他にあるではないかとあ  は思うかもしれないが、私はどうしても水との決着をつけたかったのである。そこだけ 譲れなかった。そこは勘弁願いたい。
 ――――――――――――。
 この手紙を書いている今、運の巡  わせが少し違えば私はあと少しだけ長く生き れ のではないかという考 がふと頭をよぎった。結局、私は自ら命を絶つことを決  くせにその選択もまた幸 の女神のせいにしたいらしい。
 ――――――――――――――――。
 ――――視界が滲んでまともな字を書くことも難しくなってきた。そろそろこの手紙も終わりにしなければならない。
 あなたには、このようなくだらない内容の手紙に最後まで付き合って れて本当に感謝する。そして、それと同時に詫びなければ  ない。
 わたしは、あなたには自殺などというかつて最も非倫理的だとされた方法では命を終えてほしくない。
 どうかあなたの   生が安らかでありますよ に。
 さようなら――――。
 
 
 そこで手紙は終わっていた。文字がギチギチに詰まって余白がなくなったせいなのか、署名はない。
 あの人は結局水から逃げられない運命だったのだろうか。彼が水から逃げるには生命を捨てるしか手段がなかったのだろうか。
 もう一度手紙に目をやる。すると、ところどころが水の滴を落としたようになって文字が潰れていることに気付いた。そして、インクで塗り潰されて読めない行もいくつかある。
「この手紙、最後の辺りが滲んでところどころ読めなくなっている……」
 僕は便箋をレヴラスへ手渡した。
 レヴラスは便箋に目をやりながら呟く。
「レントンはこれを書きながら泣いていたんでしょうか……」
「あいつ、最後まで迷っていたんだろうか。結局、突っ走ってしまったみたいだが……」
 あの人は最後に自分が流した涙が何を意味するかということに考えを巡らせることはなかったのか。
 それとも、その意味を理解した上でそれを無視して死へ突っ走ることにしたのだろうか。
「あの人は本当に愚かなことをしました。泣くくらいならそのまま踏み止まれば良かったんじゃないですか。そんなに死に急ぐ必要があったのですか」
 レヴラスは悔しげに呟いた。
「むしろ、もう泣くのが嫌だからこそ決行してしまったんだろうか……」
 僕は呟いた。
「それはどういうことでしょう……?」
 レヴラスは掠れた声で尋ねた。
「手紙に書いているように、レントンはずっと水に苛まれ続けていたんだろう……自分の身体から出る水も妹が身を投げた水も違いはあるまいと。あいつが死んだ日、俺は死体を前にしてもあいつがもう死んでいることを認められなかった。だから、ギルドの癒し手のところへ駆け込んであいつを蘇生してくれと頼んだんだ。その時に癒し手には言われたよ。死んでしまった本人が生きるのを拒む以上手の施しようはない、死を受け入れることだけがあいつのためにできることだって。俺は今もまだあいつが死んだことを受け入れられないよ。できれば生きていてほしかった。でも、少しずつでも受け入れなくちゃいけないのだろう……」
「ああ……ギルドの癒し手から、レントンの遺体を蘇生するよう頼み込んできた人間がいたと聞きましたが、あなただったのですね。彼はこちらへ戻ってきませんでしたが。それがあくまで彼の意思なら、私も少しずつ彼の死を受け入れなくてはいけないんでしょうね…………すみません。少し失礼します」
 レヴラスは僕から顔を背け、懐から取り出したタオルに顔を埋めた。
 僕はその背中をただ見つめることしかできなかった。
 この人は今、悲しんでいる。悲しんでいる人間を前に悲しむのをやめるよう言うことに何も意味はない。僕もまた、悲しい。
 暫くして、レヴラスは呟いた。
「私は、生きなければいけません。私はまだこの世界でやり残していることがたくさんあるのです。ですが、生きるためには今悲しむ必要があるのでしょう……」
「そうだな……」
「私たちがあちらへ行く頃、レントンはどうしているでしょう。迎えに来てくれるでしょうか」
「妹と仲良くやっていればいいがな。もしかしたら、あいつのことだから猫にでも生まれ変わっているかもしれん」
「猫になればあの人もギルドのノルマに縛られず自由にどこかへ旅立っていそうですね。もしかしたら、魚欲しさにこの街に留まっているかもしれませんが……でも、こんなことを勝手に話していたらあの人は怒りそうです」
 レヴラスは涙を拭いながら少しだけ笑った。
 そして僕に向けて言った。
「バルザック。私からこんなことを言う必要はないと思いますが、生きてください。どうか」
「ああ、生きるよ」
 僕は答えた。
 
 
 それから、年月だけが過ぎた。
 僕がその墓所へ足を踏み入れたその時、空には鉛色の雲が広がっていた。
 ルミエストからここまでの途中の道のりはとても険しい。
 ――あの人は妹の墓を訪れる時、いつもこの道を一人で歩いて来ていたのか。あの人と一緒に歩いていた時は道の険しさになど気付かなかった。
 そんなことを考えながら、僕はかつてレントンと共に花を手向けた彼の妹の墓を探した。
 あの人と共にここへ来る時はいつも軽く言葉を交わしていた。言葉を交わす人間がいない今、そこにあるのは沈黙だけだ。歩くたび、石畳がこつこつと無機質な音を立てる。それがこの墓所の静寂に後を押しているような気がした。
 ほどなくして、その墓は見つかった。あの人の妹が眠る墓の隣にあるまだ新しい墓であの人は眠っている。
 僕は手にしていた二つの花束を二つの墓の前に一つずつ手向けると、祈るように手を合わせた。
 もしあの世というものがあるなら、彼は今どうしているだろうか。妹と再会を果たすことはできただろうか。
 いつの間にか、僕はあの人と同じくらいの年齢になっていた。だが、生きていた頃の彼が抱えていた苦悩は未だに理解できそうにない。
 これからも、僕はあの人の年齢を追い越して歳を重ねていく。その中で彼の苦悩を理解する日は来るのだろうか。いや、むしろ理解してはいけないのだろう。
 そんな風に考えを巡らせていると、涙が頬を伝っていた。
 歳を重ねたせいか、僕もひどく涙もろくなったものだ。人とはかくも涙もろくなるものなのか。
「レントン。もう水なんて要らないよな。それなのに泣いてしまって本当にすまない」
 僕は墓を前に一人呟いた。
 そして、そっと目を閉じながら祈りの言葉を呟く。
 ――どうか、お前がもう苦しむことなくいられるように。せめて、水から自由であってほしい。
 空を見上げると、白い雪がちらつき始めていた。
 多分、これがこの冬に降る最後の雪だろう。
 もうすぐルミエストにも春がやってくる。
 あの人がいない春がまた――――。
 
 *おしまい*
 

 
 あとがき
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