資源ゴミ置き場
あまり健全ではない文章を置いていく場所だと思います。
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約束。
(前書きのような何か)
1.この文章はこの文章の続きになっています。例によってほぼ全てがねつ造です。
2.バルザックさんとレントンさんがぐだぐだと喋っているだけの文章です。ごく僅かに下品な表現を含むのでご注意ください。
3.文中のバルザックさんもレントンさんもまだ若いです。
1.この文章はこの文章の続きになっています。例によってほぼ全てがねつ造です。
2.バルザックさんとレントンさんがぐだぐだと喋っているだけの文章です。ごく僅かに下品な表現を含むのでご注意ください。
3.文中のバルザックさんもレントンさんもまだ若いです。
その日、僕はいつもの習慣である街の掃除を早めに切り上げて自宅に戻っていた。
窓の外を見ると、空には僅かに灰色がかった雲が広がっている。暫くすれば雨が降りそうだ。
やがて、僕が予想したとおりに雨が降り始めた。
やれやれ。今日は掃除を早めに切り上げていて良かった。もしいつもと同じように街を回っていたら雨に降られて大変だっただろう。
そんなことを考えながら窓を眺めていたその時、不意に誰かが玄関の扉を叩く音が響いた。
玄関の扉を開くと、そこには見覚えのある男が立っていた。
その男――レントンは茶色い紙袋を大事そうに抱えている。その黒髪は僅かに雨で濡れていた。
「おう、君か。こんな雨の中どうしたんだ?」
僕は尋ねた。
「五日前に借りたままだったタオルを返しに来たんだが。道に迷っている間に雨に降られて」
「ああ、そうだった。忘れていたよ。雨も降っているしとりあえず上がっていくか?」
僕は紙袋を受け取りながら、レントンが喋り終えるのを待たず言葉を続けていた。
「……そうだな、今日はギルドを黙って飛び出してきたわけでないから大丈夫だろう」
そう言いながら、レントンは僅かに頷いた。
茶を淹れながら窓の外を見ると、空は先程よりも暗い灰色の雲に覆われていた。雨音も先程よりずっと強くなっている。
レントンは椅子に座りながら窓の外をぼんやりと眺めている。
「こりゃひどい雨だな。それはそうと、お茶が入ったぞ」
僕の呼びかけに振り向いたレントンの表情はどこか夢想から覚めたかのようだ。
そして、彼は思い出したかのように口を開いた。
「ああ、そうだ。あなたに渡した紙袋だが……タオルと一緒にクッキーが入っているんだ。お礼にというのは何だが」
「おお、お茶を入れたところだから丁度いいな」
椅子の上に置いていた紙袋を開くと、小さな箱が入っていた。その中に入っていたのは甘い匂いがする七枚のクッキーだった。
「これは美味しそうなクッキーだ。お前さんが焼いたのか?」
僕が尋ねると、レントンは答えた。
「いや。最近ギルドマスターがクッキーを作るのにはまっていて、そのお裾分けに貰ったんだ」
「ほう、魔術士ギルドも面白いことをするんだな。ギルドのマスターとなると魔法の研究ばっかりしていると思っていたが」
魔術士ギルドのマスターといえば日がな魔術の研究と古書物の解読に没頭していそうだと思っていたが、意外だ。
「それがどうも、最近のギルドマスターはクッキーを増やす魔法の研究にはまっていたみたいなんだ。どうやら、思っていたよりもクッキーが増えすぎて彼一人では食べきれなくなったらしい……」
レントンの言葉に、思わず僕は吹き出した。
「お前さんのところのギルドマスターもお茶目な人なんだな」
「そうだな」
レントンは顔をほころばせた。
――この人もこんな風に笑うのか。
レントンの笑顔を前に、僕はそんなことを思っていた。
その時、僕は五日前にレントンが忘れていったスカーフのことを思い出した。昨日までは椅子にかけていたのだが、部屋の掃除をするのにどけていたのだ。
「そうだ、ちょっと待ってくれ」
僕は棚の上に畳んであるスカーフを取りに立ち上がった。
「このスカーフだが、前に忘れて帰っていたんじゃないか」
畳んだスカーフを差し出すと、レントンはそれを受け取りながら頭を小さく下げた。
「ああ、どうやら忘れていたみたいだ。ありがとう」
「そのスカーフ、いい色をしているな。スミレみたいだ。好きな色なのか?」
僕は何気なく尋ねた。
「ああ……私にこの色が似合うと言ってくれた人がいるんだ」
レントンはそう答えながら、何故だか少し悲しそうな表情をした。
――もしかすると、この人は過去にとても悲しい目に遭ったのかもしれない。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
五日前は彼をとても面倒くさい人だと思っていたが、元々はそんな人ではなかったのかもしれない。
僕の考えはそんな風に変わろうとしていた。
窓の外からは雨音が聞こえる。雨はまだ止まなさそうだ。
茶を片手にレントンが持ってきたクッキーを口に運ぶ。どうやらクッキーの中には甘くてほろ苦い何かが入っているらしい。香料だろうか。
「さすが魔法といったところだな。美味いよ」
「そうか、それなら良かったよ。そのクッキーは『カカオ』というノースティリスでは珍しい甘味が入っているそうだ」
「カカオ……か。聞いたことがないな」
「その辺りは私もあまり分からないんだが。珍しい甘味が入っている菓子を増やそうとしたのだろう……」
レントンは茶を一口飲むと、再び顔をほころばせた。その笑顔はとても優しげだ。
その笑顔を見るうち、僕は胸の内に滲む黒い染みのような何かが自分を苛んでいることに気付いた。
――そんなに生きるのが嫌なら、俺は君を止めはしない。
五日前、僕はこの人に対してこんなことを言ってしまったのだ。
その時のレントンは確かに取り乱していて穏便なやり取りをするのは難しい状態だった。そうだとしても僕が言ったことはあんまりだ。
思えば、レントンに会ったのは今回が初めてではない。
最初に彼と会ったのは雨上がりの下水道で、あの時の僕は彼に生きてほしいと思っていたのではないか。
「すまない、どうかしただろうか……?」
その声に顔を上げると、レントンはいささかきょとんとしたような顔で僕を見ていた。
「あ、いや。その、五日前なんだが……」
――ひどいことを言ってすまない。
そう言いたかった。それなのに、言葉が続かない。
「ああ……五日前は本当にすまない」
暫く沈黙が続いた後、僕が言葉を続けるより先にレントンが口を開いた。
「いや、そうじゃなくてな。それはいいんだ。そうじゃなくて……」
「もしかして、手のことだろうか……?」
レントンはいささか不安そうな顔で尋ねた。
そういえば五日前の彼は左手を怪我していたのだ。それも、僕が見る限りでは相当に深い傷だった。
「ああ、そうだそうだ。レントン、あれから手の具合はどうだ? それで……体調の方も大丈夫か? この間は今にも倒れそうだったからな」
「今日の体調はまあまあかな。手は、あの後に癒し手の処置を受けたよ。やはり怒られてしまったが……」
「傷は処置が遅れたら後が厄介だからな。菌が入れば膿んでしまう。それから、エーテルが入り込めば傷から目玉が生えてしまうぞ」
僕は左腕の袖をまくると、右手で毛むくじゃらな自分の左腕を指差した。
この世界には冒険者と言われる人間がたくさんいるが、エーテルによる病のせいで身体中が目玉だらけになった女冒険者を見たことがある。
元々は中々の美人だったのだろうが腕から足、それから首や顔までもが目で覆われているのだ。そのせいで彼女を見る人たちの目は嫌悪感に満ちていた。
本人はというと、まるで身体中の目を見せつけるかのように袖が短いブラウスに裾が短いスカートを穿いていた。
普通の人ならそんな姿になれば人前に出るのも嫌になりそうなものだが、彼女はそんなことなど気に留めていない様子だった。
「いつだったか、この街でエーテルの病で全身が目だらけになっている女冒険者を見たことがあった。俺もついびっくりしてしまってだな」
「目か……全身ということは顔や手足も全部目だらけだったのか?」
「ああ。元々その目は多分刃物での傷か何かだったのだろう。その女はまるで目だらけの身体を美術作品かのように人目に晒していたんだな」
「もしかすると、彼女は見られるためじゃなくて『見る』ために身体を晒していたのかもしれないね。あるいは『泣く』ためか……」
レントンはそう言いながらローブの襟元を指でいじった。
「泣くためというのは一体……?」
僕が話が理解できず、尋ねた。
「人は目がなければ泣くことができない。もし、二つだけの目では足りないほどに泣かなくてはならない理由があったとすれば……」
レントンは黒いローブの袖で隠したままの左腕に視線を落とした。袖の隙間からは、腕に巻かれた白い包帯が覗いている。
そして、更に話を続けた。
「開いた切り傷は目に似ている。違いといえば眼球があるかないかということと、流すものが血か涙かということくらいだろう」
なるほど。確かに目とは皮膚の裂け目から眼球が覗いている器官だ。そして、傷も皮膚が裂けてできるものだ。
あの女も手足の目から血とも涙ともつかない液体を流していたような覚えがある。そのせいで彼女が歩いたところには点々と水の跡が残っていた。
「そういえば、その女の目からは血とも涙ともつかない液体が流れ続けていたな。ただでさえ女は血や涙で汚れるものなのに」
「男なのに血や涙で身体を汚すのはおかしいことなのだろうか」
レントンはそう言いながら悲しそうな顔をした。
「あ。いや、男も女も関係なく生きている限りは汚れ続けるものだろうよ。男だけが流すものもあるしな、下品な話だが」
「……考えてみれば、そうだな」
レントンは隠すように口元へ右手をやりながら笑った。
そして、ぽつりと呟いた。
「例え偽物でも目を増やせば、二つだけの目で泣くよりずっと早く涙を流し切れるんじゃないかと考えてしまうんだ。そうすればいつまでも悲しみ続けることをやめられると……」
「だから自分から傷を作るというのか……? 」
「……そうなのかもしれない」
僕の問いに、レントンは悲しそうな顔で答えた。
「ところでレントン、一つ聞きたいことがあるんだがいいか」
僕はそう切り出した。
「あ、ああ。別にいいが、何だろうか」
レントンは不意を突かれたような顔をしながら尋ねた。
「五日前のことを蒸し返してすまない。俺に『話しておきたいことがある』と言っていたのは覚えているか? どうもそれが気になってだな」
僕は五日前の彼が言っていたことをぼんやりと思い出していた。
――この街は多くの人やものが人知れず失われていく場所なのか。
確か、レントンは泣きながらこんなことを言っていた覚えがある。僕が例の暴言を吐いてしまったのもこの時だったのだが。
「ああ。それなんだが、話してしまってもいいのだろうか」
「お前さんが話せるのならいいんだ。それと、俺が孤独死した絵描きの話をした時にとても辛そうにしていたのが気になったんだが、まさか……」
「それは……妹が絵描きを志していたんだ。歳は離れていたが、仲は決して悪くはなかったと思う。先程話した、『紫が似合う』と私に言ってくれたのも妹だったんだ」
レントンは躊躇いがちにそう語った。彼には妹がいたのか。
レントンの話を聞いていると、僕は彼の話すことが全て過去形であることに気付いた。そして、話すのを躊躇っていた様子からはそれが意味することの予想はついた。
「妹は絵描きとして常人離れしたと言っていいほどの情熱を注いでいたよ。人に認められたい、憧れの絵本作家みたいになりたいと。でも……」
そこまで語ったところでレントンは言葉を詰まらせて顔を伏せた。
言葉が続かなくても、その様子からは彼が言おうとしたことの察しはついた。
「そうか。妹さんがいたのか」
僕はまるでおうむ返しをするかのように呟いていた。
「妹は美しいものを愛していた。それから、とても生真面目で努力家だったよ。妹がもし今も生きていたらまだ絵を描き続けていられただろうか」
そう語るレントンは確かに「兄」の顔をしていた。とても悲しい兄の顔だ。
「歳が離れていたということは、妹さんはまだ若かったんだな……」
「そうだな、妹はまだ十四歳だった」
レントンは悲しそうな顔を隠すように俯いた。
あの孤独死した絵描きもまだ若い青年だった。そして、レントンの妹もまた夭逝した絵描きだった。
絵描きの青年の家の掃除に赴いた時、僕は彼が遺した絵の中で損傷が少ないものを一枚だけ引き取っていた。
どうしてそうしようと思ったかは分からない。彼の生きていた証を自分の元に留めておこうという意図でもあったのだろうか。
僕は美術作品に対して疎いが、街の掃除に力を入れる理由にはこの街の美しい景観を守りたいという思いもある。
こんな僕は芸術家たちとは違う形で美しいものを愛していると言ってもいいのだろうか。
「いつか、妹さんの絵を俺にも見せてくれないか。見てみたいんだ」
僕は言った。この時、僕はレントンの妹が遺したもの、生きていた証をこの目に留めておきたいと思っていた。
だが、レントンは首を横に振った。
そして、言ったのだ。
「それはできない。妹の絵はもう処分されてしまって私の手元には一枚も残っていないんだ」
と。
その時、僕は胸の辺りを手で掴まれるような衝撃を覚えた。
「処分してしまったって、それは一体どうして……」
僕は震える声でレントンへ尋ねる。
それに対し、彼は躊躇いがちに話し始めた。その声は感情が抜け落ちてしまったかのようだ。
「妹は精神を病んでいた。何がきっかけになったのかは分からない。自分の才能の限界に気付いてしまったのだろうか」
「……」
「妹は厄介払いにと両親によって遠くの療養所へ連れていかれた。療養先で妹が死んだという知らせを聞いたのは冬の日だった。湖への身投げだった……」
レントンは感情がこもらない声で喋り続ける。まるで無表情の仮面が貼りついたかのような顔だ。
僕は彼の表情を見るうち、どうしようもない胸の苦しさを覚え始めた。
「妹が死んだ後、この街にやってきた芸術家が天才だと持てはやされて成功しているという噂を耳にしたんだ。それから私は無気力になってしまったせいで何かを決断することもできなくなっていた。その間に妹の絵は処分されてしまった」
亡き人の遺品や墓石はその人が生きていた証だ。そして、遺された人にとって縋るべきものという意味でも墓石に近い役割を持つ。
墓石の不在が人に寄る辺なさをもたらすのと同じく遺品の不在もまた人に寄る辺なさをもたらす。その寄る辺なさはそれこそ独りで水の上を漂うようなものだろう。
「妹を埋葬する時、身体は涙を流そうとしてくれなかった。本当は弔いの時に涙を流し切って、そこで別れを告げなければいけなかったはずなのに」
僕はレントンの話に耳を傾けながら、どういうわけか幼い頃に見に行った演劇のことを思い出していた。
その演劇にも妹を水辺で亡くした兄が出てきた覚えがある。
――可哀相に。水はもうたくさんだろう。
確か、その兄は劇中で妹を前にそう言っていた。涙を流しながら。
「私は妹の後を追えないまま生きているが、今となってはもう水はたくさんだよ。溺れてしまいそうだ」
レントンは頻りに瞬きをしながら苦しげに呟いた。既にその目は涙に溺れ始めている。
この男は水から引き上げられてもなお水に呪縛され続けているのだろう。
そんな彼を水のない場所へ連れて行っても無駄だ。水はその身体からも出てくるものなのだから。
この人に一体どんな言葉をかけたらいいのだろう。
目の前の壁が、窓が、レントンの顔が水に揺らぐ。
「バルザック?」
レントンは顔を上げ、驚いたような表情で僕を見た。
「レントン、駄目だ。お前は水に飲み込まれちゃ駄目だ。また溺れてしまったらお前を水から引き上げた意味がないだろう」
気付けば、こんな言葉が漏れていた。その声はひどく震えている。
泣き出しそうな僕を前に、レントンは狼狽した表情を見せた。
「すまない、こんなひどい話をしてしまって本当にすまない」
「いや、謝らなくていい。すまん。つい感情が昂ってしまってだな。俺が泣いても仕方ない」
ポケットから取り出したハンカチーフで口と鼻を押さえ、僕は咳き込んだ。
そして、暫く沈黙が続いた。外からは静かに雨音が響いてくる。
二年前に下水道で藻まみれになって倒れていたレントンは妹の後を追おうとしていたのか。
「……ところで、私からも一つ聞いていいだろうか」
不意に、レントンが口を開いた。
「ああ、構わないが」
それに対し、僕は答える。
「先程あなたは私を『水から引き上げた』と言ったが、それは一体……?」
レントンの問いに、僕は言葉が続かず口をつぐんだ。
僕は本当のことを言うべきなのだろうか。本当のことを言ってもそれは相手にとっては恩の押し売りでしかないのではないか。
「……ああ、それはだな。ある種の例えだ。水は悲しみだとか憂鬱だとかいうものの元素だとか言うが、それはつまり…………」
「まさか、あなたが私を引き上げようとするとでも言いたいのか……?」
レントンはやや訝しげな顔で尋ねた。
「いや、そうだな。だが、俺一人だけではお前を引き上げてやるのは無理だ。他にもお前を引き上げようとしてくれる人はいるだろうよ」
僕は咄嗟に答えていた。咄嗟に出てくる言葉はあまりにも陳腐だ。
「なるほど。でも、水はとても深くて冷たい、悲しい元素だ。水に侵された者はゆっくり体温を奪われてやがては無力感に深く沈んでいく。そして、いっそう押し寄せる水に神経を蝕まれるせいで幻しか見えなくなるんだ。私がそうだった。妹と同じ運命を辿ろうと水に身を投げたこともある。されるがままになってしまえばいいと自棄になって自分を殺すだけの水を受け入れるような人間なんだよ、私は。そんな痴れ者を引き上げようなんて思えるのか?」
レントンは僅かに笑った。その笑顔と言葉からはあくまで人を拒絶しようという意思が垣間見える。
彼の言うことはあまりに寂しい。僕は納得できなかった。
「そんな寂しいことを言ってくれるなよ、何なら俺一人でもお前をまた引き上げてやる」
「そうか。だが……一つだけ私から言っておくよ。水に溺れる者は藁だろうと何だろうと半狂乱で掴もうとする。そのままでは相手を道連れにしてしまうと分かっていても、それでは自分も相手も助からないと分かっていてもだ。私はあなたの足を掴んで水に引きずり込むかもしれない。それでもいいなんて言うのは許せないよ」
レントンはまるで妹か弟を諭す兄のような厳しい顔をした。
彼は這い上がりたいという願いを完全には捨てていないと仄めかしている。だが、そのために他人を犠牲にすることまではしたくないとも言いたいらしい。
「そうか、分かった。それなら、俺の手足はお前に貸さない。その代わりに紐で繋いだ浮き輪を貸してやる。それならいいか?」
「なるほど、面白くていいね。あくまで私を水に沈めたままにはしてくれないのか」
レントンは再び不器用に笑った。その笑顔は「仕方ないな」とでも言いたげだ。
そして、ぽつりと呟いた。
――ありがとう、と。
ふと窓の外を見ると、雨は既に上がっていて雲の切れ目から紫色の空が見えた。
「雨、上がったな」
僕は窓を眺めながら呟いた。
「そうだな、そろそろお暇させてもらおう。長々と喋りすぎてしまったな。すまない」
「いや、全く構わんよ。今日は忘れ物がないようにな」
「ああ」
レントンは椅子から立ち上がったところで椅子にかけたままのスカーフに気付き、それを手に取りながら小さく頭を下げた。
彼を見送ろうとしたその時、僕は自分の中で何かが引っ掛かっているような違和感に気付いた。
僕は彼に何かを伝え忘れているんじゃないだろうか。
そうだ。それは――――――。
「ああ、そうだ。レントン、ちょっと待ってくれ」
僕は、玄関の扉を開いて出ていこうとするレントンを引き止めた。
「バルザック? 何か忘れ物があっただろうか」
「いや、一つ言い忘れていたことがあったんだ。その、お前の妹さんのことについてだな」
「妹のことというのは何だろう……?」
レントンはやや不安が入り混じる顔で僕を見た。
「ああ。ええと、妹さんのことなんだが、墓とかはどこにあるんだ? 妹さんの墓に花を手向けに行きたいんだが」
「妹の墓は、この街を出て東の墓所にある。だが、あなたが一人で行くには遠いかもしれない」
「そうか。迷惑でなければだが、妹さんの墓に行くことがあれば俺も連れて行ってくれないか。どうしても行きたいんだ」
「迷惑だなんてことはないよ。私の他に妹の墓を訪れる人は殆どいなかった。あなたが来てくれるならあいつも喜んでくれるだろうか……」
「喜んでくれたらいいが。妹さんが好きだった花を持っていこう。だから、それまでは生きていてくれよ」
「分かった、生きるよ」
レントンはそう言うと、再び笑った。その笑顔は夕日に照らされ、とても眩しく見える。
そして、僕は今度こそレントンを見送った。
扉ががちゃりと音を立てて閉まった後、この家は再び静寂に包まれた。
――まるで今までの時間が夢か幻のようだ。
僕は玄関の前でそんなことをぼんやりと考える。
静かになった部屋に戻ると、テーブルの上には二人分の茶を入れていた空のコップとクッキーを入れていた空の皿が残されていた。
レントンは確かに先程までここにいた。これは夢でも幻でもない。
何故だかテーブルの上を暫くそのままにしておきたいと思ったが、そうするわけにはいかない。
僕は何だか寂しいと感じながら二つのコップと皿を盆に乗せ、台所へと運んだ。
*おしまい*
(あとがきのようなもの)
水=憂鬱の元素の下りはガストン・バシュラールの『水と夢』から。
演劇で妹の死を嘆く兄の元ネタはシェイクスピアの『ハムレット』から。レアティーズさん。
エーテル病で増えた目はやはり涙を流すんですかね。
人と喋ったり人のところに行ったりして、その後にその人と別れて一人になるとそれまでの時間が夢か幻想の世界での出来事のように感じることはよくあることだと思います。
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