資源ゴミ置き場
あまり健全ではない文章を置いていく場所だと思います。
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Reborn
(まえがきのような何か)
この文章は『仄暗い下水道の底から』の続きのような文章です。
散々書いている通り全てはねつ造なので留意ください。こちらの文章はレクサス視点。
バルザックとガードがレントンを魔術士ギルドまで運んできてから二日が経った。
私はベッドに横たわるレントンを見つめ、考え込んでいた。
目の前の男は未だ眠ったまま目を覚ます気配がない。その腕、足、首には包帯が巻かれている。包帯の下の無数の傷は一体何なのだろうか。
バルザックとガードの言うことによればこの男は下水道で見つかったという。
この男は何故下水道なんかで見つかったのか。まさかそこに身を投げたというのだろうか。
ふと、最後にこのギルドでこの男と顔を合わせた時のことが頭をよぎる。それは去年の夏から秋の頃だった。
その頃のレントンはどういうわけか体調を崩しがちになっていたらしい。私自身も頻繁に彼が苦しそうにうずくまる姿を目にしていた。
その姿は陸にいるのにもかかわらず水に溺れて呼吸ができなくなっているかのようだった。
私は彼へ癒し手の処置を受けるよう勧めたが、本人の言うことによれば何度も癒し手の処置を仰いだが全く効かないとのことだった。
やがて、彼は理由が分からない身体の不調に怯えるあまりその他のことが手につかなくなっていった。
そんなある日、痺れを切らした私はレントンを部屋に呼び出した。
その頃はギルドマスターが多忙で不在がちになっており、私は彼がいつもしていた雑用の仕事が回ってきたのもあって苛立っていた。
そんな中でレントンが小さな失敗を繰り返していたことが鼻についていたのだ。彼に対する私の呼び出しはただの八つ当たりでしかなかった。
だが、あの時のレントンは私に当たり散らされていることをつゆ知らず、愚直にも私の理不尽な糾弾に泣き出しそうな顔で頷くばかりだった。
私はそれもまた妙に気に食わず、さらに問い詰めたのだ。ただ頷くだけならかたつむりのような愚鈍な者でもできる、本当に話を聞いているのかと。
相手は曲がりなりにもギルドマスターが優秀だと認めていた魔術士であり、本人にもそれなりの自負があった。そんな人間にかたつむりなどと言うのは相手の鼻をへし折るも同然だ。
そうするうち、レントンは本当に泣き出した。それも、自分の意思に反して涙が溢れ出したとでもいうような泣き方だった。まるで失禁してしまったかのように。
そして、彼は私に何かを言おうにもひどい嗚咽のせいで物が言える状態ではなくなった。
本当はそこで彼に対する暴力をやめておくべきだったのだろう。だが、私はそうしなかった。
涙というものは時に人がもつ加虐心などといったものにますます火を点けるらしい。
私はレントンに対してさらに追い打ちとなる言葉をかけたのだ。
「魔術を操る者は心を強く持たねばならないはずだ。自身の心を満足に制御できないのでは魔術の制御もできないであろう」
と。
その時にレントンが見せた、まるで顔を拳で殴られたかのような表情が目に浮かんでくる。
私は分かっていた。相手がもはや涙を制御できる状態でないことを。それを無視して敢えて「心の制御」などという言葉を吐いたと言ってもいいだろう。
そこまで言われても何も言い返して来ないレントンを見るうちに私はやりきれなさと諦めが入り混じるような不愉快な気持ちになり、彼に対してもういい等と吐き捨てて部屋を出ていったのだ。
その一方で私の言葉にはレントンの尻を叩こうとする意図がなかったと言えば嘘になる。
私は彼の愚直な性格を分かっていたので厳しい言葉をかければ勝手に奮い立ってくれるだろうとどこかで勝手に信じていた面がある。
だが、私がとった一連の行動は思わぬ結果を招いてしまった。
その日以来、レントンはこのギルドに全く姿を見せなくなってしまったのだ。
それからの再開がまさかこんな形になろうとは思いもしなかった。
あの日に泣き崩れるレントンを置いて部屋を出て行った時、ドア越しに聞こえた彼の呻く声が耳の奥で残響する。
私は悲しみと後悔の念に力を奪われ、腑抜けになりそうであった。
そこで突然、背後からレヴラスが私に声をかけてきた。彼はこのギルドのマスターだ。
彼もまた今回の件については相当心を痛めているのだろう。その面持ちはやや沈痛に見えた。
レヴラスはレントンを一瞥しながら私へ尋ねた。レントンが姿を消した頃の彼は多忙だったが故にギルド内での出来事を把握できていなかったらしい。
「彼は行方をくらます前、体調を崩して塞ぎ込んでいたと聞きましたが。本当なのですか?」
「ああ。そうみたいだ」
そして、レヴラスは私に尋ねたのだ。
「あなたは彼の話を聞いてやったことがありましたか。そして、彼にはどんな言葉をかけたのですか」
――何故そんなに人前に出ることを恐れるのだ。何をそんなに塞ぎ込んでいるのだ。全ては気の持ちようだろう。
私はレントンを前にそう思っていたことは否定できない。
レントンが姿を消した後になって、私は彼が人前に出ることを極端に恐れるあまり頻繁にトイレで嘔吐していたこと、時には壁に何度も頭をぶつけていたなどということを聞いていた。
そういえば、小さな報告会の時に何故だかレントンは頭から血を流しながら壇上に立っていたことがあった。
確か私はレントンにその傷はどうしたのかと尋ねたのだが、彼はただ階段で転んだとしか答えてくれなかった。
あの時の彼は血まみれになるまで頭を壁にぶつけなければならないほどに人前に出ることを恐れていたのだろうか。
他のギルド員から聞いたことや自分のレントンとのやり取りのことを包み隠さず話すと、レヴラスは沈痛な面持ちで洩らした。
「人の心というものはいとも簡単に壊れてしまうものです。今回の件は私にも責任はあるのでしょう」
私は自分を責め始めるレヴラスを前に、ただ自分が情けなく思えて仕方なかった。
あの時に私があえて厳しい言葉をかけることはレントンをここまで追い詰めることだったというのだろうか。
それとも、他に何か彼を追い詰める事柄があったというのだろうか。
あの呼び出しをする前に、もう少し話を聞いてやっていればこんなことにはならなかったのだろうか。
次々に様々な問いが頭の中で渦巻くが、その答えは分からない。
考えたくもないことだが、もしものことがあれば答えはずっと分からないままとなるかもしれない。
そうすれば私は胸の内でどろどろと渦巻くこの苦々しい感情を死ぬまで抱え続けることとなってしまうだろう。
ここでふと、一年ほど前にこの街で自殺者が出たという話が頭をよぎった。
記憶は曖昧だが、この自殺者は年端もいかぬ若い女だったと聞いた。
自殺者の家族はそれをひた隠しにしようとしたそうだが、不思議とこの手の話は当事者が隠そうとすればするほど迷信や偏見に満ちた噂として知れわたる。
今では自殺者の亡霊がこの街の湖に現れては人を引きずり込もうとするなんてことを街の子供が噂しているそうだ。
また、残された家族はとうとうこの街を離れてしまったという話も耳にした記憶がある。
その自殺者がどれだけ苦悩していたのかは分からない。だが、残されたものの悲しみや苦悩もまたとても深いものだったのだろう。
目の前で眠り続けるこの男は、そんな風にして何も言わないまま私たちの心に爪跡を残して逝こうとするつもりなのか。
それを思うと、私はこの男に対して憤りを感じずにいられなかった。
「お願いだから死なないでくれ、戻ってきてくれ」
気が付くと、私は彼に向けて呟いていた。
レントンが意識を取り戻したのはそれから三日後のことだった。
だが、それを素直に喜ぶことができなかった。彼は完全に正気を失っている様子だったからだ。
意識を取り戻したはずのレントンはただガラスのような虚ろな目で空中を見つめるだけで何を呼びかけても全く反応しなかった。
どうやら、今自分がいる場所がどこなのかも私が誰なのかも理解できない様子だ。
レヴラスに対してもそれは同じで、彼がいくら根気よく話しかけてもそれに答えることはない。
日がな一日ただ焦点が合わない目で空中を見つめ続けるその姿は人事不省の白痴に限りなく近い状態だ。
それに加え、レントンは食事を全く受け付けず、何を口にしても吐いてしまった。
癒し手が病人用の食事を口に運んでやればされるがままにそれを口にするのだが、食べ終わったところで全て嘔吐してしまうのだ。
それがノースティリスで「拒食症」と呼ばれている病によることだとはすぐに分かった。それは何らかの形で嘔吐を繰り返した時に発病する病であり、それに罹った者は食事をするたびに嘔吐を繰り返しやがて衰弱死してしまう。
それ故にこの病に罹った者は神経と胃が調子を取り戻すまで飲み物でしか空腹を満たすことができない。
レントンが魔術士ギルドから姿を消し、それから下水道で見つかるまでの間の数ヶ月に一体何があったというのか。
本人がほぼ人事不省の状態で何も語ることができないのだから、今の私にそれを知る由はない。
乳清や水薬といったものしか受け付けないその身体は痩せさらばえて今にも壊れそうだが、本人はそれでも全く構わないような様子だ。
その姿は生きることを諦め、緩慢に死へと向かっていくように見えた。あるいは、自分が死に向かいつつあることすら理解していないかのようだ。
このギルドに所属し立てだった頃の彼はまだ十五ほどの少年だったがその学習意欲は人一倍で、その才能も目を見張るものだった。それ故に私たちは彼の活躍を大いに期待していたのだ。
そんな優秀な人物がかくも悲惨な状況に陥ってしまったことはこのギルドにとっても大きな痛手になる。
今のレントンの姿を見て、彼がかつて魔術士としての将来が約束されていた男だったと誰が想像できよう。
人というものはかくも変わってしまうものなのか。私には目の前の優秀な魔術士と言われていた男の変貌を信じることができなかった。
果たして彼は元の彼に戻ることができるのだろうか。それも分からないままだった。
それから、一月が過ぎさらに二月が過ぎようとしていた。
だが、レントンは嘔吐する頻度こそ減ったものの相変わらず正気に戻る気配はなく、これまで長く続いた沈黙は狂乱へと形を変えた。
この時のレントンは時折ものを言うようになっていたのだが、その時に口にするのは死を乞い願う言葉ばかりだった。
――何故わたしを生かし続けるのだ。このまま生きていても暗闇の中で苦しくて仕方ない。
――私は生きていてはいけない罪深い人間だ。お願いだから死なせてくれ。
狂乱に陥った彼はそんな言葉をまくし立てながら癒し手や私といった目にするあらゆる者の腕にしがみ付いた。
時には「人を殺してしまった」などこちらからは到底理解できないことを口走ることもあった。
さらに、彼は自分を罰するかのように目にするありとあらゆるもので自傷を試みるようになった。
紐を見ればそれで自分の首を絞め、薬瓶を見ればそれを叩き割ってはその破片で肌を深く切るというような具合であることから部屋には紐や割れ物といったものを置けなくなった。
やがて、私はこうした状況にどうしようもない疲労感を覚え始めた。
そして、それはレントンが下水道で見つかってから四ヶ月が過ぎようとしていた夏の日のことだった。
この日の彼は両腕に包帯を巻かれたままベッドの縁に座ってうなだれていた。白い包帯には血が滲み、ひどくやつれた顔は死人のようだ。
狂乱が治まっている時のレントンはいつもそのような調子だったのだが、その時もまた生きていたくないと呟くばかりだった。
狂乱に陥る中では激しい焦燥に駆られて死を渇望し、狂乱が治まっていてもなお死を求める。いずれにしても彼は死を乞い願うばかりだ。
今になって改めてレントンの顔を見ると、私はやけにげんなりとした気分にさせられた。
私たちは一体何のためにこの男の世話をしているのだろうか。
自ら命を断とうと下水に身を投げたこの男は、私たちが手を差し伸べてもそれに応えず死に向かおうとしていく。
そうだ。この男は下水に身を投げた時からもう既に生きることを諦めていたのだ。このまま手を差し伸べ続けることに何の意味があるだろう。
いっそ望み通りに死なせてやった方が彼にとっても幸せなのではないか。
その時、私は何気なくまさぐった自分の懐に細い紐が入っていることに気付いた。書物を束ねていた紐だろうか。
そうだ。この紐でその首を絞めてしまおうか。そうすればこの男は苦痛から解放されるだろう。
そんな考えが頭をよぎる中で紐を片手にレントンの背後に回ると、彼は消え入るような声で呟いた。
「レクサス……?」
突然レントンが私の名を呼んだことに私は驚いた。
そして、彼は私に背を向けたまま尋ねた。
「包帯を代える時間だろうか?」
「いや、包帯を代えるのはまだだよ。それで、具合はどうなんだ……?」
「今日も最低だよ。わたしがわたしでないみたいだ」
私の問いに、レントンは呟いた。相変わらず彼は私に背を向けたままで振り向こうともしない。
そして、震える声で呟いたのだ。
「後ろに立たれると怖い」
と。
私は片手に握る紐に目をやってはっとした。
私は紐を懐にしまい、レントンの横に座った。
「横なら大丈夫か?」
「ああ……」
レントンは小さく頷くと、床に視線を落とした。彼が瞬きをするたびに上下する長い睫毛は苦悩にやつれた横顔をより強調するかのように見える。
彼が口を開いたのは暫く沈黙が続いてからのことだった。
だが、それを聞き取ることができなかった私はどうしたのかと尋ねた。
レントンは再び懇願するように口を開いた。
「私を縛ってほしいんだ。動けないようにしてくれ。殺したくはないのに本当に自分をこの手で殺してしまいそうで怖いんだ……」
その時、私はすぐ傍の男が抱える根深い苦痛の片鱗に触れたような気がした。
私は思うままに事態が進まない状態に一方的な苛立ちを覚えていた。だが、この男自身も私が想像するよりずっと深く苦しんでいたのだろう。
私はそんなレントンを殺そうとしていた。彼に「死なないでくれ」と言ったはずだったのに。
私は今の自分がしようとしていたことを見つめ、愕然とした。
「そうか。レントン、本当にすまない……」
私はただ謝ることしかできなかった。
それから五日経った日のことだった。
私が部屋に入ると、レントンは両手を頑丈な布の包帯で縛られたままベッドに横たわっていた。彼は、食事と排泄以外の時は拘束されているらしい。
だが、四六時中身体を拘束しているのでは身体を傷めてしまう。だから食事や排泄の時に拘束を解くとはいえ、それ以外の時もたまに拘束を解いてやる必要はあった。
「そろそろ痛いだろう。包帯を解くから暴れないでおくれ」
私が呼びかけると、彼は黙ったまま気だるげに頷いた。その様子は「言われなくても暴れない」と言いたげだ。
レントンのの身体を起こして腕を拘束している頑丈な布の包帯を解くと、その下に巻かれた傷を覆う包帯は開いた傷からの出血で血だらけになっていた。時間が経って変色した血はとても不衛生な色になるものだ。
「この包帯はもう替えねばならないな」
赤茶色に染まり硬くなった包帯を解いていくと、傷跡だらけの腕が露わになった。深い傷はどうしても傷跡として残ってしまうらしい。
その傷跡の上には新しい傷が重なっている。いくつかの傷は深すぎることから糸で縫うという処置が施されていた。それは肌の上を這う赤黒いムカデのようでとてもグロテスクだ。
「改めて見ると、ひどい傷だな」
新しい包帯を巻きながら、私は思わず漏らした。
レントンは俯いたまま自分の両手に包帯が巻かれていくのを見ている。長く伸びた髪のせいでその顔はよく見えないが、その姿は物思いに耽っているような様子だ。
「一体何があなたをそうさせるのか。どうか教えてほしい」
包帯を巻き終えると、私は尋ねてみた。どうにかしてレントンのことを理解したい。私はそう思うようになっていたのだ。
ところが、彼は口を固く閉じたまま何も言おうとしない。
やはり、まだ何も話してくれないのだろうか。そう思った時、彼は両手を見つめたまま呟いた。
「こうして……他人に見られたうえ手当てをされた傷は痛むものなんだな」
その口ぶりはあたかも今初めて痛みというものを知ったかのようで、とても奇妙だ。
「こんなひどい傷だというのに、痛いはずだろう」
「確かに身体は『痛い』と感じているはずだよ。痛いはずだ。だが……」
「まさか、痛みを感じていないと言いたいのか……?」
私は不穏な気持ちの中で尋ねた。傍から見ていて目を背けたくなるような傷だというのに痛みを感じないなんてことがあるというのか。
「何かに取り憑かれたように何度確かめても同じだ。人に言われなければ何も感じないんだ」
レントンは嘆き悲しむように俯きながら頭を横に振った。
もしかすると、彼は痛みを感じないのではなく、本当は痛みを麻痺させなければならないほどに痛がっているのではないか。
一体何が彼をここまで追いやるに至ったのだろうか。
「あなたは確かに痛がっていると思う。限界を超えるほどに痛いから何も感じなくなったようになっているだけで……」
「そうだろうか……」
暫く沈黙が続いたその時、レントンは突然に頭を抱えながら苦しみ出した。
「一体どうしたんだ。頭が痛いのか」
呼びかけても、彼は呻きながら顔を苦痛で歪めるだけだ。
「本当にどうしたんだ」
「私から離れてくれ……!」
叫ぶレントンが思い切り私を突き飛ばすと同時に轟音が響き、視界が弾け飛んだ。
気が付くと、私は見知らぬ部屋にいた。いや、私が部屋にいるというよりは幻灯機に映し出された風景を見ているような感覚に近い。
ここは絵描きの部屋だろうか。机の上には絵具や筆といった画材が散乱している。
そこには、黒い髪の幼い少女と同じ髪色の少年の姿があった。
私はこの少年を知っている。というより、毎日顔を合わせていたのだから見間違えるはずがない。彼はレントンだ。
私が見ているものは現か幻か。レントンと少女は私がいることに気付かないようだ。
二つ結びにされた黒い髪。深い赤色の目。この少女はどこかレントンと似ている。この二人は兄妹なのか。
少女は満面の笑みで画用紙に描いた絵をレントンに見せている。そして、その絵を見るレントンも幸せそうに笑っていた。あの男にもこんな風に笑っていた頃があったのか。
やがて、目の前の景色は水に映る影のように揺らぎ消えた。
再び、私の意識は水の底に沈む。それは私には抗えない。
そして、私の前でいくつもの幻灯が明滅を繰り返した。
画材が散らかり荒れ果てた部屋。割れたガラス窓と床に散らばるガラス片。泣きじゃくる少女。
大きな湖が見えるサナトリウム。雪が積もる花壇。小さく白い花。花壇の前に座る少女。
降り積もる雪。灰色の湖。雪を被りながら水に浮かび眠る少女。
空を舞う風花。丘の上にある墓所へと向かう葬列。運ばれていく白い棺。
花束と共に埋められる白い棺。それをただ見つめる一人の喪服の男。
男は仮面が貼り付いたような無表情のままだ。その目は何も映さない。
現れては消えていくこの幻灯は一体誰のものなのだろうか。
暫く続いた明滅が止むと目の前の景色は一変していた。
だが、そこが先程見た絵描きの少女がいた部屋だということはすぐに分かった。
部屋の隅に置かれた机、空の本棚とクローゼット。何も敷かれていないベッド。それ以外は何もない。
割れたままのガラス窓からは風がひゅうひゅうと音を立てて流れてくる。
かつてこの部屋の主がいたことを示すのは、壁に僅かに残る絵の具の染みだけだ。
この何もない部屋を見つめるうち、私は胸を深く刺されるような悲しみに襲われた。
この痛みと悲しみは一体何なのだろうか。まるで自分にとってかけがえのない何かを失ったようだ。
一体何故この部屋にいるとこんなにも悲しい気持ちにさせられるのだろうか。
そこでふと、私は目の前で黒いローブの男がうずくまっていることに気付いた。
この男は先程の明滅の中で見た喪服の男だ。この男はレントンだ。
彼は泣いている。ただ一人悲痛な叫び声を上げて泣いている。
彼にとってかけがえのない存在だったあの少女はここにはいない。
彼女はもうこの世界に存在しないのだ。
――それは、湖に身を投げて死んでしまったからだ。
その時、ガラスが砕け散るような音が響き、目の前の景色が壊れ出した。
全てが音を立てて崩れていく。
そして、私はなすすべもなくどこかへ落ちていく。
再び目を開くと、そこは魔術士ギルドの廊下だった。ここは「私」の部屋の扉の前だ。
だが、今の私が「私」だというにしては何かがおかしい。まるで自分が「私」ではない他人に変身したかのようだ。
私はどうやら「私」に用事があってこの部屋の前に立っているらしい。私は呼び出しを受けたのだ。
重い扉を開くと、私の目の前に「私」その人が立っていた。
長く伸ばされた明るい青緑色の髪。黒いローブに赤いスカーフ。その顔からは苛立ちと落胆が滲んでいる。
そんな「私」は私を一方的になじり始める。だが、「私」が呼ぶのは私の名前ではなかった。「私」は私のことを「レントン」と呼んでいる。
そうだ。今の私はレントンに変身しているのだ。そして、私は彼の意識を介して彼の記憶を見ている。
私がギルドでの務めに支障をきたし始めたレントンに痺れを切らし、彼を呼び出した日の記憶。
他人の意識を介して見る自分の顔とはなんとグロテスクなものなのか。鏡で自分の顔を見るのとはわけが違う。
気味が悪く、そしてとても恐ろしい。
鏡よ鏡。私は幼い頃に読んだ異国の童話に出てくる魔女のように心の中で問いかける。
あの日の私は、レントンの目にはかくも恐ろしく映ったのだろうか。
目の前で喋り続ける「私」の言葉は私から言葉を奪った。
全てが歪み、揺らぐ。「私」の顔が。魔法書が並ぶ本棚が。壁と天井が。
胸が張り裂けるように痛み、呼吸が詰まる。先程から噛み締めていた歯は鈍く痛み始めている。
――ただ頷くだけなら子供やかたつむりでもできる。本当に話を聞いているのか。
眉間にしわを寄せる「私」は私を睨んだ。
一体この人は何を言っているのだろう。私はあなたの話を聞いているからこそ反論せずに頷いているのだ。
あなたの話は聞いている。聞いているからこそ頷いている。
私は心の中で反論を叫ぶ。だが、それは声にも態度にもならない。
この時の「私」は仮にレントンが反論を声や態度で表してきたとしてもそれが気に入らず攻撃し続けていただろう。
息を吸おうと歯を緩めたその時、目頭から零れる水が鼻の横を滑り落ちた。声を出そうとしても、それは嗚咽にしかならなかった。
――何故泣くんだ。子供じゃあるまいし、言いたいことがあるならはっきり言え。
「私」は私がレントンに浴びせた言葉をそっくりそのまま私に浴びせ続ける。
言いたいことは何もない。まず、言おうとしても言葉を声にすることができない。
泣くという行為はかくも苦しいものだったのか。そんな中でまともに喋るなんてとても困難だ。そして、相手の言葉に耳を傾けるのもまた難しい。
それを私は分かっていなかったのではないか。そして、あろうことか相手からますます多く涙を搾り出すような言葉を浴びせたのだ。
――魔術を操る者は心を強く持たねばならないはずだ。自身の心を満足に制御できないのでは魔術の制御もできないであろう。
人の話に耳を傾けるのが困難な中でも「私」の言葉は私の耳にしっかりと届き、胸に突き刺さった。
あの日のレントンは相当耐えていたのだろう。そして、八つ当たりでしかない私の話に耳を傾けすぎたのだ。
――これ以上言っても無駄みたいだな。もういい。
そう吐き捨てた「私」は部屋を出ていった。
扉が閉まる音が部屋に響いて消えた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
嗚咽は止まる気配がなく、涙は何度拭っても拭っても零れ続ける。
もはや、私の目はただ塩水を吐き続けるばかりで物を見るという機能を果たしていなかった。今の私の目はまるで血を噴く傷のようだ。
そうだ。言葉による暴力は身体には見える傷を残さないが、その代わり心を引き裂くものだ。
今血を噴いているのは紛れもなく心というものなのだろう。
どれだけの間泣き続けていたのか。床に目をやると、ほぼ水溜まり同然になった床の染みが鏡のように私を映し出している。そこに映るのは「レクサス」の顔だった。
今の私にとって「レクサス」の顔は最も見たくないものだった。この男の顔を見ると再び胸が縦に裂けそうになる。
私は全てから目を背けるように目を閉じた。
そして気が付くと、私は暗闇が広がる空間にいた。
今の私はレクサスなのだろうか。それともレントンなのだろうか。
次第に、周りからひっきりなしに誰かの声が聞こえ始めた。それは全て呪いの言葉、罵りの言葉だ。
――お前は何もできない。お前は生きる価値なんてない。
――妹殺しのくせに、お前はどの面下げて生きているというのだ。
――分かっているのだろう。お前は身体も心も醜い。人ですらない。
――お前は人として生きることができない怪物だ。
やめてくれ。私はただ耳を塞ぎ、声から逃げようと闇の中を這いずった。
そうするうちに、一つの扉の前に辿り着いた。
助けてくれ。誰か助けてくれ。
私は何度もその扉を拳で叩き続けた。だが、それに誰かが答えることはなかった。
ほどなくして、扉の向こうから先ほどとは別の声が聞こえてくることに私は気付いた。数人の男と女の声だ。
「もう『あれ』はあいつみたいに然るべき場所に送るべきだ」
「いや、どこも『あれ』を受け入れるのは無理だろう。まずどうやってここから連れ出すというんだ」
「まるであいつが取りついたみたいでおぞましい。これほどの不名誉がどこにある」
「『あれ』はもう人の形をした怪物同然だ。いっそ死体さえ残さずに死んでくれないか」
扉の向こうから聞こえる心ない言葉が次々に私へ突き刺さる。誰も彼も保身ばかりで私を助けてくれない。
いや、それは当然のことだ。私は日に日に狂い、誰にも手に負えない存在へと変わっていく。それはもう私自身にも歯止めが利かない。
「もうこの家ごと『あれ』を捨てるしかない」
そうだ。私は誰からも見捨てられて当然の存在だ。こんな自分を私一人で持て余すなんて到底耐えられない。
それなら、この命を捨ててしまおう。そうすることが私にできるただ一つのことだ。
深い絶望の中、顔を上げると首吊り台が目に留まった。いつの間にこんなものがここに置かれていたのだろうか。
私はふらふらとした足取りで踏み台に上り、ぶら下がるロープを首にかけた。
自殺とは、一人の人間が死刑執行人と刑死者という二人の役を同時に演じる行為だ。それはとても悲劇的であると同時にとても喜劇的でないか。
私は全てが滑稽に思え、笑みを浮かべた。
足場が落ちる。私の身体が落ちる。そして、私の意識も落ちる。
落ちていく先は深く暗い闇の中だ。
私はなすすべもなく、暗闇に飲み込まれていった。
重い瞼を開くと、私は魔術士ギルドの一室でベッドの上に寝かされていた。
「レクサス、気が付きましたか」
その声で、私は正気に戻った。ベッドの傍には声の主――レヴラスが立っている。
今まで見ていたものは夢だったのか。あまりの疲労感で身体が鉛を乗せられたかのように重く、頭が痛い。
「マスター、私はレントンの部屋にいたはずだ。何故私はここに……」
「レクサス、落ち付きなさい。あなたはレントンとともに気を失って倒れていたのです」
これは一体どういうことなのだろうか。そこで、私が意識を失う前にレントンが突然苦しみ出したことを思い出した。
「レントンは……?」
「彼のことなら大丈夫ですよ。彼は別の部屋で眠っています」
レヴラスの言葉に、私はひとまず安堵した。
「そうか。それなら良かった」
私がことの顛末を話すと、レヴラスは呟いた。
「あの部屋は念のために一切の魔法が使えないよう封印をかけていたのですが、それが破れていたのですね。封印が機能しているかチェックをし忘れていたのです。ごめんなさい」
「では、レントンが起こした魔力の暴走のせいで私は気を失ったというのか」
「おそらくそうでしょう」
私は改めてレントンという男が持つ魔力を知らしめられた。
だが、高い魔力を持つ一方で精神が不安定になり魔力を制御する力を失った人間ほど恐ろしいものはない。
「あれほどの魔力の暴走に巻き込まれたのに大怪我せずに済んだのは幸運としか言えません。それにしても、随分うなされていましたね。突然あなたの悲鳴が聞こえてきたのでこの部屋に来たのですが」
レヴラスは私を心配するような目で見た。
私は眠りながら叫んでいたのか。そういえば、両手の袖がいやに湿っている。まさか、私は眠りながら涙を流していたというのか。
「まさか私は、眠りながら泣き叫んでいたのか……」
私は両手に目をやりながら呟いた。
「ええ。私がいくら呼びかけてもあなたは泣くばかりでどうしようもありませんでしたよ。一体どうしたのですか」
「とても奇妙な夢を見たんだ。レントンの記憶が頭に直接流れ込んでくるような……」
私の答えにレヴラスは暫く考えこんだ後、目を伏せながら呟いた。
「……それもおそらくは魔力の暴走が引き起こしたことでしょう。あなたの様子からして、見た夢は相当ひどいものだったのでしょうね」
確かに、私が見た夢はとても恐ろしいものだった。しかし、現実の私までもが眠りながら泣き叫んでいたとは驚き呆れる。
「……そうだな。夢の中で最初のうちは私がレントンを見ていたのだが、そのうち意識が……」
夢の内容を話そうとしたその時、先程から続く頭が割れるような頭痛にくわえ、喉元に胃液が込み上げて私はむせ返った。
レントンの目を介して見た自分のグロテスクな顔、レントンに変身した私を罵る声が脳裏に焼き付いて離れない。
そして、まるで本当に首を吊ったばかりかのように首がズキズキと痛む。
気が付くと、私は胸を押さえながらぜえぜえと息を荒げていた。
「レクサス、無理に話さなくてもいいのです。嫌なものを思い出させてごめんなさい。無理は禁物ですから、あなたはゆっくりお休みなさい」
「すみません。マスター」
「では、私はレントンの様子を見てきますね」
レヴラスは小さく頭を下げると、部屋を出ていった。
五日後、身体の調子を取り戻した私はレントンの様子を窺いに部屋に入った。
あれ以来の彼は殆ど暴れなくなったようで、両手の拘束は解かれていた。
彼はベッドの脇に腰をかけたまま壁を見つめている。その顔はひどく悲しそうだ。
私の姿を認めると、レントンはまるで親に殴られる前の子供のような怯えた表情を見せた。
私を見る彼は今にも泣き出しそうな目をしている。そして、まるで身を守るかのように柔らかい枕を両手で抱きかかえている。
そんな彼の姿はいささか幼児退行でもしてしまったかのようだ。
「私はあなたに何もしないよ。だからそんなに怯えなくても大丈夫だ」
私は呼びかけた。
だが、レントンは枕の端を手で強く握ったまま何も言おうとしない。
「まさか、五日前のことを気に病んでいるのか?」
「本当にすまない。あなたをあんな目に遭わせて……」
レントンは声を絞り出すように呟いた。
五日前にあの事故が起きたのはレヴラスの不注意があったからだ。だからレントンが責任を全て背負う必要はない。
「……あれは魔法の封印が破れていたそうなんだ。だから事故みたいなものだ」
――あなたが責任を全て背負うことではない。私のこの言葉はレントンの耳に届かなかった。
彼は喋り始めると同時に泣き出した。
「ずっと前にあなたが言った通りだ。今やわたしには自分の心の制御も魔力の制御も満足にできない」
レントンのこの言葉に、私は改めて自分の言葉がどれだけ彼に深く突き刺さっていたかを知ることとなった。
もしかすると、彼が起こした魔力の暴走が悪夢という形で私を襲ったのは私が彼に働いた暴力のしっぺ返しなのかもしれない。
「こんなわたしは魔術士であってはいけないし、ここにいるべき人間でない。わたしは自分自身にとっても手に負えない人間なのだから、他人に見捨てられて当然だ」
レントンは涙をぼろぼろと零しながらまくし立て続けた。
「私はこの通り無事だったんだ、そんなに自分を責めなくていい。泣かないでくれ」
いくらなだめようとしても彼は落ち着きを取り戻そうとせず、ますます激しく泣く始末だ。
どうしてあなたは自分を責め続けるのか。そんな風に私が暴力を働いた時と同じように泣かれるとまるで私が責められているようだ。
あなたの涙を見ているとそれが重苦しい感情に変わってひたひたと私に押し寄せてくる気がする。
その時、私はその重苦しい感情が罪悪感であることに気付いた。
私が言葉でレントンを立ち上がれないほどに打ちのめしたのもまた罪悪感の裏返しでしかなかったのだろう。私は逃げたかっただけだ。
今の私はもう罪悪感から逃げるなどという臆病な真似をすることはできない。
再びレントンに目をやると、彼は顔を隠したがるような様子を見せている。
そこで、私は部屋の端に置かれた小さな台に下ろし立てのタオルが置いてあることに気付いた。
そのタオルを手に取ると、私は再びレントンの傍へ歩み寄った。
「レントン、これを使えばいい」
タオルを手渡すと、レントンは躊躇いがちに受け取ったそれへと顔を埋めた。
暫くして彼に人の話を聞くだけの余裕が出てきたのを見計らうと私は静かに切り出した。
「レントン。あの時に私を突き飛ばしたのは、私が巻き込まれないようにするためだったのだろう?」
彼はタオルで目から下を隠したまま小さく頷いた。
「もしあなたがそうしてくれなかったとしたら私は大怪我していたはずだ。尻もちはついてしまったが」
事実、悪夢の件はともかくとして身体の方はレントンに突き飛ばされて倒れ込んだ時に尻もちをついた程度で済んでいた。
もし突き飛ばされることがなければ至近距離で魔力の暴走を受けることとなり、どうなっていたか分からない。
「本当にすまない……」
レントンはむせ返りながら俯いた。
「私はあなたを見捨てない。あなたはこのギルドにいるべき人間だ」
私はきっぱりと言った。その言葉には何一つ偽りはないだろう。
その時、不意に背後の扉をノックする音が響いた。
扉が開く音に振り返ると、そこにはレヴラスが立っていた。
「マスター?」
「何だか騒がしいので様子を見に来たのですが、あなたはまたレントンをいじめたのですか」
レヴラスのその口ぶりは半分冗談めいていたが私にはただの冗談だとは思えなかった。
事の顛末を説明すると、レヴラスは黙って頷いた。
一方のレントンはタオルで目から下を覆ったまますっかり縮こまっている。
そんな彼へレヴラスは身をかがめながら語りかけ始めた。
「あなたは確かに魔術に関して相当な才能を持っていますが、まだ未熟なところはあります。ここで学ぶべきことがたくさんあるのです。それから、今の状態ではあなたを独りにしておくことはできません。だから、あなたはここにいなくてはなりません」
「わたしは……」
レントンはレヴラスへ何かを言おうとしたが、言葉が続かず再び涙に沈んだ。
レヴラスはそんな彼を優しく諭すかのように言葉を続けた。
「……何ヶ月もいなくなって心配しましたよ、もう勝手に姿をくらませるなんてことはしないでください。あなたは私にとって必要な人間です」
私は二人をただ見ていることしかできなかった。
「レクサス、あとは私に任せておいてください。あなたは仕事に戻っても大丈夫ですよ」
「はい、失礼します。マスター」
私はレヴラスに従い、部屋を後にした。
その時、私は一つのことを理解した。
レヴラスも私も同じ時間だけレントンの身辺の世話をしてきたが、レヴラスは私よりもずっとレントンにとって支えになっているだろう。
それはひとえにレヴラスがいつでもぶれることがない人間だからなのだ。
彼は優しさと同時に揺るがない強さをもっている。それ故に、どんなに絶望的だと思える状況の中でも最良の選択を見出そうとすることができるのだ。
ここで私は改めて、レヴラスという人物を魔術士ギルドの長たらしめている強さを痛感させられることとなった。
その一方で、私は自分という人間の矮小さを痛感させられることにもなった。
あまりに自分が情けなくなった私はトイレの個室に入ると、壁に額を押し当てるようにうなだれた。
ぼんやりと数ヶ月前の自分がレントンに言った言葉を思い出す。
実に「心の制御」という言葉は都合がいい。あの時の私はただレントンが感情を剥き出しにする姿を直視したくなかっただけなのだろう。
そもそも「心の制御」とはただ感情を表出させないよう抑え込むこととはまた違う。
そんなことを続けていたら心というものはやがて破裂してしまう。それこそ、魔力を充填しすぎた杖や魔法書のように。
思えば、苛立ちに任せてレントンを攻撃していた私こそ心の制御というものができていなかったのではないか。
自分のことを棚に上げて相手に対してだけ心の制御を強いることはとてもずるい。
気が付くと、私は冷たい壁に額を押し当てたまま嗚咽していた。
*おしまい*
(あとがきのような何か)
レクサスさんの立場回復。相手が生きていたらやり直せることも死んでしまったら無理になってしまうのだと思います。レントンにはもうできないこと。
そういえば"suffer"という単語には「耐える」という意味があるそうですね。その他は苦しむ、患う、傷付く、など。
この文章は『仄暗い下水道の底から』の続きのような文章です。
散々書いている通り全てはねつ造なので留意ください。こちらの文章はレクサス視点。
バルザックとガードがレントンを魔術士ギルドまで運んできてから二日が経った。
私はベッドに横たわるレントンを見つめ、考え込んでいた。
目の前の男は未だ眠ったまま目を覚ます気配がない。その腕、足、首には包帯が巻かれている。包帯の下の無数の傷は一体何なのだろうか。
バルザックとガードの言うことによればこの男は下水道で見つかったという。
この男は何故下水道なんかで見つかったのか。まさかそこに身を投げたというのだろうか。
ふと、最後にこのギルドでこの男と顔を合わせた時のことが頭をよぎる。それは去年の夏から秋の頃だった。
その頃のレントンはどういうわけか体調を崩しがちになっていたらしい。私自身も頻繁に彼が苦しそうにうずくまる姿を目にしていた。
その姿は陸にいるのにもかかわらず水に溺れて呼吸ができなくなっているかのようだった。
私は彼へ癒し手の処置を受けるよう勧めたが、本人の言うことによれば何度も癒し手の処置を仰いだが全く効かないとのことだった。
やがて、彼は理由が分からない身体の不調に怯えるあまりその他のことが手につかなくなっていった。
そんなある日、痺れを切らした私はレントンを部屋に呼び出した。
その頃はギルドマスターが多忙で不在がちになっており、私は彼がいつもしていた雑用の仕事が回ってきたのもあって苛立っていた。
そんな中でレントンが小さな失敗を繰り返していたことが鼻についていたのだ。彼に対する私の呼び出しはただの八つ当たりでしかなかった。
だが、あの時のレントンは私に当たり散らされていることをつゆ知らず、愚直にも私の理不尽な糾弾に泣き出しそうな顔で頷くばかりだった。
私はそれもまた妙に気に食わず、さらに問い詰めたのだ。ただ頷くだけならかたつむりのような愚鈍な者でもできる、本当に話を聞いているのかと。
相手は曲がりなりにもギルドマスターが優秀だと認めていた魔術士であり、本人にもそれなりの自負があった。そんな人間にかたつむりなどと言うのは相手の鼻をへし折るも同然だ。
そうするうち、レントンは本当に泣き出した。それも、自分の意思に反して涙が溢れ出したとでもいうような泣き方だった。まるで失禁してしまったかのように。
そして、彼は私に何かを言おうにもひどい嗚咽のせいで物が言える状態ではなくなった。
本当はそこで彼に対する暴力をやめておくべきだったのだろう。だが、私はそうしなかった。
涙というものは時に人がもつ加虐心などといったものにますます火を点けるらしい。
私はレントンに対してさらに追い打ちとなる言葉をかけたのだ。
「魔術を操る者は心を強く持たねばならないはずだ。自身の心を満足に制御できないのでは魔術の制御もできないであろう」
と。
その時にレントンが見せた、まるで顔を拳で殴られたかのような表情が目に浮かんでくる。
私は分かっていた。相手がもはや涙を制御できる状態でないことを。それを無視して敢えて「心の制御」などという言葉を吐いたと言ってもいいだろう。
そこまで言われても何も言い返して来ないレントンを見るうちに私はやりきれなさと諦めが入り混じるような不愉快な気持ちになり、彼に対してもういい等と吐き捨てて部屋を出ていったのだ。
その一方で私の言葉にはレントンの尻を叩こうとする意図がなかったと言えば嘘になる。
私は彼の愚直な性格を分かっていたので厳しい言葉をかければ勝手に奮い立ってくれるだろうとどこかで勝手に信じていた面がある。
だが、私がとった一連の行動は思わぬ結果を招いてしまった。
その日以来、レントンはこのギルドに全く姿を見せなくなってしまったのだ。
それからの再開がまさかこんな形になろうとは思いもしなかった。
あの日に泣き崩れるレントンを置いて部屋を出て行った時、ドア越しに聞こえた彼の呻く声が耳の奥で残響する。
私は悲しみと後悔の念に力を奪われ、腑抜けになりそうであった。
そこで突然、背後からレヴラスが私に声をかけてきた。彼はこのギルドのマスターだ。
彼もまた今回の件については相当心を痛めているのだろう。その面持ちはやや沈痛に見えた。
レヴラスはレントンを一瞥しながら私へ尋ねた。レントンが姿を消した頃の彼は多忙だったが故にギルド内での出来事を把握できていなかったらしい。
「彼は行方をくらます前、体調を崩して塞ぎ込んでいたと聞きましたが。本当なのですか?」
「ああ。そうみたいだ」
そして、レヴラスは私に尋ねたのだ。
「あなたは彼の話を聞いてやったことがありましたか。そして、彼にはどんな言葉をかけたのですか」
――何故そんなに人前に出ることを恐れるのだ。何をそんなに塞ぎ込んでいるのだ。全ては気の持ちようだろう。
私はレントンを前にそう思っていたことは否定できない。
レントンが姿を消した後になって、私は彼が人前に出ることを極端に恐れるあまり頻繁にトイレで嘔吐していたこと、時には壁に何度も頭をぶつけていたなどということを聞いていた。
そういえば、小さな報告会の時に何故だかレントンは頭から血を流しながら壇上に立っていたことがあった。
確か私はレントンにその傷はどうしたのかと尋ねたのだが、彼はただ階段で転んだとしか答えてくれなかった。
あの時の彼は血まみれになるまで頭を壁にぶつけなければならないほどに人前に出ることを恐れていたのだろうか。
他のギルド員から聞いたことや自分のレントンとのやり取りのことを包み隠さず話すと、レヴラスは沈痛な面持ちで洩らした。
「人の心というものはいとも簡単に壊れてしまうものです。今回の件は私にも責任はあるのでしょう」
私は自分を責め始めるレヴラスを前に、ただ自分が情けなく思えて仕方なかった。
あの時に私があえて厳しい言葉をかけることはレントンをここまで追い詰めることだったというのだろうか。
それとも、他に何か彼を追い詰める事柄があったというのだろうか。
あの呼び出しをする前に、もう少し話を聞いてやっていればこんなことにはならなかったのだろうか。
次々に様々な問いが頭の中で渦巻くが、その答えは分からない。
考えたくもないことだが、もしものことがあれば答えはずっと分からないままとなるかもしれない。
そうすれば私は胸の内でどろどろと渦巻くこの苦々しい感情を死ぬまで抱え続けることとなってしまうだろう。
ここでふと、一年ほど前にこの街で自殺者が出たという話が頭をよぎった。
記憶は曖昧だが、この自殺者は年端もいかぬ若い女だったと聞いた。
自殺者の家族はそれをひた隠しにしようとしたそうだが、不思議とこの手の話は当事者が隠そうとすればするほど迷信や偏見に満ちた噂として知れわたる。
今では自殺者の亡霊がこの街の湖に現れては人を引きずり込もうとするなんてことを街の子供が噂しているそうだ。
また、残された家族はとうとうこの街を離れてしまったという話も耳にした記憶がある。
その自殺者がどれだけ苦悩していたのかは分からない。だが、残されたものの悲しみや苦悩もまたとても深いものだったのだろう。
目の前で眠り続けるこの男は、そんな風にして何も言わないまま私たちの心に爪跡を残して逝こうとするつもりなのか。
それを思うと、私はこの男に対して憤りを感じずにいられなかった。
「お願いだから死なないでくれ、戻ってきてくれ」
気が付くと、私は彼に向けて呟いていた。
レントンが意識を取り戻したのはそれから三日後のことだった。
だが、それを素直に喜ぶことができなかった。彼は完全に正気を失っている様子だったからだ。
意識を取り戻したはずのレントンはただガラスのような虚ろな目で空中を見つめるだけで何を呼びかけても全く反応しなかった。
どうやら、今自分がいる場所がどこなのかも私が誰なのかも理解できない様子だ。
レヴラスに対してもそれは同じで、彼がいくら根気よく話しかけてもそれに答えることはない。
日がな一日ただ焦点が合わない目で空中を見つめ続けるその姿は人事不省の白痴に限りなく近い状態だ。
それに加え、レントンは食事を全く受け付けず、何を口にしても吐いてしまった。
癒し手が病人用の食事を口に運んでやればされるがままにそれを口にするのだが、食べ終わったところで全て嘔吐してしまうのだ。
それがノースティリスで「拒食症」と呼ばれている病によることだとはすぐに分かった。それは何らかの形で嘔吐を繰り返した時に発病する病であり、それに罹った者は食事をするたびに嘔吐を繰り返しやがて衰弱死してしまう。
それ故にこの病に罹った者は神経と胃が調子を取り戻すまで飲み物でしか空腹を満たすことができない。
レントンが魔術士ギルドから姿を消し、それから下水道で見つかるまでの間の数ヶ月に一体何があったというのか。
本人がほぼ人事不省の状態で何も語ることができないのだから、今の私にそれを知る由はない。
乳清や水薬といったものしか受け付けないその身体は痩せさらばえて今にも壊れそうだが、本人はそれでも全く構わないような様子だ。
その姿は生きることを諦め、緩慢に死へと向かっていくように見えた。あるいは、自分が死に向かいつつあることすら理解していないかのようだ。
このギルドに所属し立てだった頃の彼はまだ十五ほどの少年だったがその学習意欲は人一倍で、その才能も目を見張るものだった。それ故に私たちは彼の活躍を大いに期待していたのだ。
そんな優秀な人物がかくも悲惨な状況に陥ってしまったことはこのギルドにとっても大きな痛手になる。
今のレントンの姿を見て、彼がかつて魔術士としての将来が約束されていた男だったと誰が想像できよう。
人というものはかくも変わってしまうものなのか。私には目の前の優秀な魔術士と言われていた男の変貌を信じることができなかった。
果たして彼は元の彼に戻ることができるのだろうか。それも分からないままだった。
それから、一月が過ぎさらに二月が過ぎようとしていた。
だが、レントンは嘔吐する頻度こそ減ったものの相変わらず正気に戻る気配はなく、これまで長く続いた沈黙は狂乱へと形を変えた。
この時のレントンは時折ものを言うようになっていたのだが、その時に口にするのは死を乞い願う言葉ばかりだった。
――何故わたしを生かし続けるのだ。このまま生きていても暗闇の中で苦しくて仕方ない。
――私は生きていてはいけない罪深い人間だ。お願いだから死なせてくれ。
狂乱に陥った彼はそんな言葉をまくし立てながら癒し手や私といった目にするあらゆる者の腕にしがみ付いた。
時には「人を殺してしまった」などこちらからは到底理解できないことを口走ることもあった。
さらに、彼は自分を罰するかのように目にするありとあらゆるもので自傷を試みるようになった。
紐を見ればそれで自分の首を絞め、薬瓶を見ればそれを叩き割ってはその破片で肌を深く切るというような具合であることから部屋には紐や割れ物といったものを置けなくなった。
やがて、私はこうした状況にどうしようもない疲労感を覚え始めた。
そして、それはレントンが下水道で見つかってから四ヶ月が過ぎようとしていた夏の日のことだった。
この日の彼は両腕に包帯を巻かれたままベッドの縁に座ってうなだれていた。白い包帯には血が滲み、ひどくやつれた顔は死人のようだ。
狂乱が治まっている時のレントンはいつもそのような調子だったのだが、その時もまた生きていたくないと呟くばかりだった。
狂乱に陥る中では激しい焦燥に駆られて死を渇望し、狂乱が治まっていてもなお死を求める。いずれにしても彼は死を乞い願うばかりだ。
今になって改めてレントンの顔を見ると、私はやけにげんなりとした気分にさせられた。
私たちは一体何のためにこの男の世話をしているのだろうか。
自ら命を断とうと下水に身を投げたこの男は、私たちが手を差し伸べてもそれに応えず死に向かおうとしていく。
そうだ。この男は下水に身を投げた時からもう既に生きることを諦めていたのだ。このまま手を差し伸べ続けることに何の意味があるだろう。
いっそ望み通りに死なせてやった方が彼にとっても幸せなのではないか。
その時、私は何気なくまさぐった自分の懐に細い紐が入っていることに気付いた。書物を束ねていた紐だろうか。
そうだ。この紐でその首を絞めてしまおうか。そうすればこの男は苦痛から解放されるだろう。
そんな考えが頭をよぎる中で紐を片手にレントンの背後に回ると、彼は消え入るような声で呟いた。
「レクサス……?」
突然レントンが私の名を呼んだことに私は驚いた。
そして、彼は私に背を向けたまま尋ねた。
「包帯を代える時間だろうか?」
「いや、包帯を代えるのはまだだよ。それで、具合はどうなんだ……?」
「今日も最低だよ。わたしがわたしでないみたいだ」
私の問いに、レントンは呟いた。相変わらず彼は私に背を向けたままで振り向こうともしない。
そして、震える声で呟いたのだ。
「後ろに立たれると怖い」
と。
私は片手に握る紐に目をやってはっとした。
私は紐を懐にしまい、レントンの横に座った。
「横なら大丈夫か?」
「ああ……」
レントンは小さく頷くと、床に視線を落とした。彼が瞬きをするたびに上下する長い睫毛は苦悩にやつれた横顔をより強調するかのように見える。
彼が口を開いたのは暫く沈黙が続いてからのことだった。
だが、それを聞き取ることができなかった私はどうしたのかと尋ねた。
レントンは再び懇願するように口を開いた。
「私を縛ってほしいんだ。動けないようにしてくれ。殺したくはないのに本当に自分をこの手で殺してしまいそうで怖いんだ……」
その時、私はすぐ傍の男が抱える根深い苦痛の片鱗に触れたような気がした。
私は思うままに事態が進まない状態に一方的な苛立ちを覚えていた。だが、この男自身も私が想像するよりずっと深く苦しんでいたのだろう。
私はそんなレントンを殺そうとしていた。彼に「死なないでくれ」と言ったはずだったのに。
私は今の自分がしようとしていたことを見つめ、愕然とした。
「そうか。レントン、本当にすまない……」
私はただ謝ることしかできなかった。
それから五日経った日のことだった。
私が部屋に入ると、レントンは両手を頑丈な布の包帯で縛られたままベッドに横たわっていた。彼は、食事と排泄以外の時は拘束されているらしい。
だが、四六時中身体を拘束しているのでは身体を傷めてしまう。だから食事や排泄の時に拘束を解くとはいえ、それ以外の時もたまに拘束を解いてやる必要はあった。
「そろそろ痛いだろう。包帯を解くから暴れないでおくれ」
私が呼びかけると、彼は黙ったまま気だるげに頷いた。その様子は「言われなくても暴れない」と言いたげだ。
レントンのの身体を起こして腕を拘束している頑丈な布の包帯を解くと、その下に巻かれた傷を覆う包帯は開いた傷からの出血で血だらけになっていた。時間が経って変色した血はとても不衛生な色になるものだ。
「この包帯はもう替えねばならないな」
赤茶色に染まり硬くなった包帯を解いていくと、傷跡だらけの腕が露わになった。深い傷はどうしても傷跡として残ってしまうらしい。
その傷跡の上には新しい傷が重なっている。いくつかの傷は深すぎることから糸で縫うという処置が施されていた。それは肌の上を這う赤黒いムカデのようでとてもグロテスクだ。
「改めて見ると、ひどい傷だな」
新しい包帯を巻きながら、私は思わず漏らした。
レントンは俯いたまま自分の両手に包帯が巻かれていくのを見ている。長く伸びた髪のせいでその顔はよく見えないが、その姿は物思いに耽っているような様子だ。
「一体何があなたをそうさせるのか。どうか教えてほしい」
包帯を巻き終えると、私は尋ねてみた。どうにかしてレントンのことを理解したい。私はそう思うようになっていたのだ。
ところが、彼は口を固く閉じたまま何も言おうとしない。
やはり、まだ何も話してくれないのだろうか。そう思った時、彼は両手を見つめたまま呟いた。
「こうして……他人に見られたうえ手当てをされた傷は痛むものなんだな」
その口ぶりはあたかも今初めて痛みというものを知ったかのようで、とても奇妙だ。
「こんなひどい傷だというのに、痛いはずだろう」
「確かに身体は『痛い』と感じているはずだよ。痛いはずだ。だが……」
「まさか、痛みを感じていないと言いたいのか……?」
私は不穏な気持ちの中で尋ねた。傍から見ていて目を背けたくなるような傷だというのに痛みを感じないなんてことがあるというのか。
「何かに取り憑かれたように何度確かめても同じだ。人に言われなければ何も感じないんだ」
レントンは嘆き悲しむように俯きながら頭を横に振った。
もしかすると、彼は痛みを感じないのではなく、本当は痛みを麻痺させなければならないほどに痛がっているのではないか。
一体何が彼をここまで追いやるに至ったのだろうか。
「あなたは確かに痛がっていると思う。限界を超えるほどに痛いから何も感じなくなったようになっているだけで……」
「そうだろうか……」
暫く沈黙が続いたその時、レントンは突然に頭を抱えながら苦しみ出した。
「一体どうしたんだ。頭が痛いのか」
呼びかけても、彼は呻きながら顔を苦痛で歪めるだけだ。
「本当にどうしたんだ」
「私から離れてくれ……!」
叫ぶレントンが思い切り私を突き飛ばすと同時に轟音が響き、視界が弾け飛んだ。
気が付くと、私は見知らぬ部屋にいた。いや、私が部屋にいるというよりは幻灯機に映し出された風景を見ているような感覚に近い。
ここは絵描きの部屋だろうか。机の上には絵具や筆といった画材が散乱している。
そこには、黒い髪の幼い少女と同じ髪色の少年の姿があった。
私はこの少年を知っている。というより、毎日顔を合わせていたのだから見間違えるはずがない。彼はレントンだ。
私が見ているものは現か幻か。レントンと少女は私がいることに気付かないようだ。
二つ結びにされた黒い髪。深い赤色の目。この少女はどこかレントンと似ている。この二人は兄妹なのか。
少女は満面の笑みで画用紙に描いた絵をレントンに見せている。そして、その絵を見るレントンも幸せそうに笑っていた。あの男にもこんな風に笑っていた頃があったのか。
やがて、目の前の景色は水に映る影のように揺らぎ消えた。
再び、私の意識は水の底に沈む。それは私には抗えない。
そして、私の前でいくつもの幻灯が明滅を繰り返した。
画材が散らかり荒れ果てた部屋。割れたガラス窓と床に散らばるガラス片。泣きじゃくる少女。
大きな湖が見えるサナトリウム。雪が積もる花壇。小さく白い花。花壇の前に座る少女。
降り積もる雪。灰色の湖。雪を被りながら水に浮かび眠る少女。
空を舞う風花。丘の上にある墓所へと向かう葬列。運ばれていく白い棺。
花束と共に埋められる白い棺。それをただ見つめる一人の喪服の男。
男は仮面が貼り付いたような無表情のままだ。その目は何も映さない。
現れては消えていくこの幻灯は一体誰のものなのだろうか。
暫く続いた明滅が止むと目の前の景色は一変していた。
だが、そこが先程見た絵描きの少女がいた部屋だということはすぐに分かった。
部屋の隅に置かれた机、空の本棚とクローゼット。何も敷かれていないベッド。それ以外は何もない。
割れたままのガラス窓からは風がひゅうひゅうと音を立てて流れてくる。
かつてこの部屋の主がいたことを示すのは、壁に僅かに残る絵の具の染みだけだ。
この何もない部屋を見つめるうち、私は胸を深く刺されるような悲しみに襲われた。
この痛みと悲しみは一体何なのだろうか。まるで自分にとってかけがえのない何かを失ったようだ。
一体何故この部屋にいるとこんなにも悲しい気持ちにさせられるのだろうか。
そこでふと、私は目の前で黒いローブの男がうずくまっていることに気付いた。
この男は先程の明滅の中で見た喪服の男だ。この男はレントンだ。
彼は泣いている。ただ一人悲痛な叫び声を上げて泣いている。
彼にとってかけがえのない存在だったあの少女はここにはいない。
彼女はもうこの世界に存在しないのだ。
――それは、湖に身を投げて死んでしまったからだ。
その時、ガラスが砕け散るような音が響き、目の前の景色が壊れ出した。
全てが音を立てて崩れていく。
そして、私はなすすべもなくどこかへ落ちていく。
再び目を開くと、そこは魔術士ギルドの廊下だった。ここは「私」の部屋の扉の前だ。
だが、今の私が「私」だというにしては何かがおかしい。まるで自分が「私」ではない他人に変身したかのようだ。
私はどうやら「私」に用事があってこの部屋の前に立っているらしい。私は呼び出しを受けたのだ。
重い扉を開くと、私の目の前に「私」その人が立っていた。
長く伸ばされた明るい青緑色の髪。黒いローブに赤いスカーフ。その顔からは苛立ちと落胆が滲んでいる。
そんな「私」は私を一方的になじり始める。だが、「私」が呼ぶのは私の名前ではなかった。「私」は私のことを「レントン」と呼んでいる。
そうだ。今の私はレントンに変身しているのだ。そして、私は彼の意識を介して彼の記憶を見ている。
私がギルドでの務めに支障をきたし始めたレントンに痺れを切らし、彼を呼び出した日の記憶。
他人の意識を介して見る自分の顔とはなんとグロテスクなものなのか。鏡で自分の顔を見るのとはわけが違う。
気味が悪く、そしてとても恐ろしい。
鏡よ鏡。私は幼い頃に読んだ異国の童話に出てくる魔女のように心の中で問いかける。
あの日の私は、レントンの目にはかくも恐ろしく映ったのだろうか。
目の前で喋り続ける「私」の言葉は私から言葉を奪った。
全てが歪み、揺らぐ。「私」の顔が。魔法書が並ぶ本棚が。壁と天井が。
胸が張り裂けるように痛み、呼吸が詰まる。先程から噛み締めていた歯は鈍く痛み始めている。
――ただ頷くだけなら子供やかたつむりでもできる。本当に話を聞いているのか。
眉間にしわを寄せる「私」は私を睨んだ。
一体この人は何を言っているのだろう。私はあなたの話を聞いているからこそ反論せずに頷いているのだ。
あなたの話は聞いている。聞いているからこそ頷いている。
私は心の中で反論を叫ぶ。だが、それは声にも態度にもならない。
この時の「私」は仮にレントンが反論を声や態度で表してきたとしてもそれが気に入らず攻撃し続けていただろう。
息を吸おうと歯を緩めたその時、目頭から零れる水が鼻の横を滑り落ちた。声を出そうとしても、それは嗚咽にしかならなかった。
――何故泣くんだ。子供じゃあるまいし、言いたいことがあるならはっきり言え。
「私」は私がレントンに浴びせた言葉をそっくりそのまま私に浴びせ続ける。
言いたいことは何もない。まず、言おうとしても言葉を声にすることができない。
泣くという行為はかくも苦しいものだったのか。そんな中でまともに喋るなんてとても困難だ。そして、相手の言葉に耳を傾けるのもまた難しい。
それを私は分かっていなかったのではないか。そして、あろうことか相手からますます多く涙を搾り出すような言葉を浴びせたのだ。
――魔術を操る者は心を強く持たねばならないはずだ。自身の心を満足に制御できないのでは魔術の制御もできないであろう。
人の話に耳を傾けるのが困難な中でも「私」の言葉は私の耳にしっかりと届き、胸に突き刺さった。
あの日のレントンは相当耐えていたのだろう。そして、八つ当たりでしかない私の話に耳を傾けすぎたのだ。
――これ以上言っても無駄みたいだな。もういい。
そう吐き捨てた「私」は部屋を出ていった。
扉が閉まる音が部屋に響いて消えた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
嗚咽は止まる気配がなく、涙は何度拭っても拭っても零れ続ける。
もはや、私の目はただ塩水を吐き続けるばかりで物を見るという機能を果たしていなかった。今の私の目はまるで血を噴く傷のようだ。
そうだ。言葉による暴力は身体には見える傷を残さないが、その代わり心を引き裂くものだ。
今血を噴いているのは紛れもなく心というものなのだろう。
どれだけの間泣き続けていたのか。床に目をやると、ほぼ水溜まり同然になった床の染みが鏡のように私を映し出している。そこに映るのは「レクサス」の顔だった。
今の私にとって「レクサス」の顔は最も見たくないものだった。この男の顔を見ると再び胸が縦に裂けそうになる。
私は全てから目を背けるように目を閉じた。
そして気が付くと、私は暗闇が広がる空間にいた。
今の私はレクサスなのだろうか。それともレントンなのだろうか。
次第に、周りからひっきりなしに誰かの声が聞こえ始めた。それは全て呪いの言葉、罵りの言葉だ。
――お前は何もできない。お前は生きる価値なんてない。
――妹殺しのくせに、お前はどの面下げて生きているというのだ。
――分かっているのだろう。お前は身体も心も醜い。人ですらない。
――お前は人として生きることができない怪物だ。
やめてくれ。私はただ耳を塞ぎ、声から逃げようと闇の中を這いずった。
そうするうちに、一つの扉の前に辿り着いた。
助けてくれ。誰か助けてくれ。
私は何度もその扉を拳で叩き続けた。だが、それに誰かが答えることはなかった。
ほどなくして、扉の向こうから先ほどとは別の声が聞こえてくることに私は気付いた。数人の男と女の声だ。
「もう『あれ』はあいつみたいに然るべき場所に送るべきだ」
「いや、どこも『あれ』を受け入れるのは無理だろう。まずどうやってここから連れ出すというんだ」
「まるであいつが取りついたみたいでおぞましい。これほどの不名誉がどこにある」
「『あれ』はもう人の形をした怪物同然だ。いっそ死体さえ残さずに死んでくれないか」
扉の向こうから聞こえる心ない言葉が次々に私へ突き刺さる。誰も彼も保身ばかりで私を助けてくれない。
いや、それは当然のことだ。私は日に日に狂い、誰にも手に負えない存在へと変わっていく。それはもう私自身にも歯止めが利かない。
「もうこの家ごと『あれ』を捨てるしかない」
そうだ。私は誰からも見捨てられて当然の存在だ。こんな自分を私一人で持て余すなんて到底耐えられない。
それなら、この命を捨ててしまおう。そうすることが私にできるただ一つのことだ。
深い絶望の中、顔を上げると首吊り台が目に留まった。いつの間にこんなものがここに置かれていたのだろうか。
私はふらふらとした足取りで踏み台に上り、ぶら下がるロープを首にかけた。
自殺とは、一人の人間が死刑執行人と刑死者という二人の役を同時に演じる行為だ。それはとても悲劇的であると同時にとても喜劇的でないか。
私は全てが滑稽に思え、笑みを浮かべた。
足場が落ちる。私の身体が落ちる。そして、私の意識も落ちる。
落ちていく先は深く暗い闇の中だ。
私はなすすべもなく、暗闇に飲み込まれていった。
重い瞼を開くと、私は魔術士ギルドの一室でベッドの上に寝かされていた。
「レクサス、気が付きましたか」
その声で、私は正気に戻った。ベッドの傍には声の主――レヴラスが立っている。
今まで見ていたものは夢だったのか。あまりの疲労感で身体が鉛を乗せられたかのように重く、頭が痛い。
「マスター、私はレントンの部屋にいたはずだ。何故私はここに……」
「レクサス、落ち付きなさい。あなたはレントンとともに気を失って倒れていたのです」
これは一体どういうことなのだろうか。そこで、私が意識を失う前にレントンが突然苦しみ出したことを思い出した。
「レントンは……?」
「彼のことなら大丈夫ですよ。彼は別の部屋で眠っています」
レヴラスの言葉に、私はひとまず安堵した。
「そうか。それなら良かった」
私がことの顛末を話すと、レヴラスは呟いた。
「あの部屋は念のために一切の魔法が使えないよう封印をかけていたのですが、それが破れていたのですね。封印が機能しているかチェックをし忘れていたのです。ごめんなさい」
「では、レントンが起こした魔力の暴走のせいで私は気を失ったというのか」
「おそらくそうでしょう」
私は改めてレントンという男が持つ魔力を知らしめられた。
だが、高い魔力を持つ一方で精神が不安定になり魔力を制御する力を失った人間ほど恐ろしいものはない。
「あれほどの魔力の暴走に巻き込まれたのに大怪我せずに済んだのは幸運としか言えません。それにしても、随分うなされていましたね。突然あなたの悲鳴が聞こえてきたのでこの部屋に来たのですが」
レヴラスは私を心配するような目で見た。
私は眠りながら叫んでいたのか。そういえば、両手の袖がいやに湿っている。まさか、私は眠りながら涙を流していたというのか。
「まさか私は、眠りながら泣き叫んでいたのか……」
私は両手に目をやりながら呟いた。
「ええ。私がいくら呼びかけてもあなたは泣くばかりでどうしようもありませんでしたよ。一体どうしたのですか」
「とても奇妙な夢を見たんだ。レントンの記憶が頭に直接流れ込んでくるような……」
私の答えにレヴラスは暫く考えこんだ後、目を伏せながら呟いた。
「……それもおそらくは魔力の暴走が引き起こしたことでしょう。あなたの様子からして、見た夢は相当ひどいものだったのでしょうね」
確かに、私が見た夢はとても恐ろしいものだった。しかし、現実の私までもが眠りながら泣き叫んでいたとは驚き呆れる。
「……そうだな。夢の中で最初のうちは私がレントンを見ていたのだが、そのうち意識が……」
夢の内容を話そうとしたその時、先程から続く頭が割れるような頭痛にくわえ、喉元に胃液が込み上げて私はむせ返った。
レントンの目を介して見た自分のグロテスクな顔、レントンに変身した私を罵る声が脳裏に焼き付いて離れない。
そして、まるで本当に首を吊ったばかりかのように首がズキズキと痛む。
気が付くと、私は胸を押さえながらぜえぜえと息を荒げていた。
「レクサス、無理に話さなくてもいいのです。嫌なものを思い出させてごめんなさい。無理は禁物ですから、あなたはゆっくりお休みなさい」
「すみません。マスター」
「では、私はレントンの様子を見てきますね」
レヴラスは小さく頭を下げると、部屋を出ていった。
五日後、身体の調子を取り戻した私はレントンの様子を窺いに部屋に入った。
あれ以来の彼は殆ど暴れなくなったようで、両手の拘束は解かれていた。
彼はベッドの脇に腰をかけたまま壁を見つめている。その顔はひどく悲しそうだ。
私の姿を認めると、レントンはまるで親に殴られる前の子供のような怯えた表情を見せた。
私を見る彼は今にも泣き出しそうな目をしている。そして、まるで身を守るかのように柔らかい枕を両手で抱きかかえている。
そんな彼の姿はいささか幼児退行でもしてしまったかのようだ。
「私はあなたに何もしないよ。だからそんなに怯えなくても大丈夫だ」
私は呼びかけた。
だが、レントンは枕の端を手で強く握ったまま何も言おうとしない。
「まさか、五日前のことを気に病んでいるのか?」
「本当にすまない。あなたをあんな目に遭わせて……」
レントンは声を絞り出すように呟いた。
五日前にあの事故が起きたのはレヴラスの不注意があったからだ。だからレントンが責任を全て背負う必要はない。
「……あれは魔法の封印が破れていたそうなんだ。だから事故みたいなものだ」
――あなたが責任を全て背負うことではない。私のこの言葉はレントンの耳に届かなかった。
彼は喋り始めると同時に泣き出した。
「ずっと前にあなたが言った通りだ。今やわたしには自分の心の制御も魔力の制御も満足にできない」
レントンのこの言葉に、私は改めて自分の言葉がどれだけ彼に深く突き刺さっていたかを知ることとなった。
もしかすると、彼が起こした魔力の暴走が悪夢という形で私を襲ったのは私が彼に働いた暴力のしっぺ返しなのかもしれない。
「こんなわたしは魔術士であってはいけないし、ここにいるべき人間でない。わたしは自分自身にとっても手に負えない人間なのだから、他人に見捨てられて当然だ」
レントンは涙をぼろぼろと零しながらまくし立て続けた。
「私はこの通り無事だったんだ、そんなに自分を責めなくていい。泣かないでくれ」
いくらなだめようとしても彼は落ち着きを取り戻そうとせず、ますます激しく泣く始末だ。
どうしてあなたは自分を責め続けるのか。そんな風に私が暴力を働いた時と同じように泣かれるとまるで私が責められているようだ。
あなたの涙を見ているとそれが重苦しい感情に変わってひたひたと私に押し寄せてくる気がする。
その時、私はその重苦しい感情が罪悪感であることに気付いた。
私が言葉でレントンを立ち上がれないほどに打ちのめしたのもまた罪悪感の裏返しでしかなかったのだろう。私は逃げたかっただけだ。
今の私はもう罪悪感から逃げるなどという臆病な真似をすることはできない。
再びレントンに目をやると、彼は顔を隠したがるような様子を見せている。
そこで、私は部屋の端に置かれた小さな台に下ろし立てのタオルが置いてあることに気付いた。
そのタオルを手に取ると、私は再びレントンの傍へ歩み寄った。
「レントン、これを使えばいい」
タオルを手渡すと、レントンは躊躇いがちに受け取ったそれへと顔を埋めた。
暫くして彼に人の話を聞くだけの余裕が出てきたのを見計らうと私は静かに切り出した。
「レントン。あの時に私を突き飛ばしたのは、私が巻き込まれないようにするためだったのだろう?」
彼はタオルで目から下を隠したまま小さく頷いた。
「もしあなたがそうしてくれなかったとしたら私は大怪我していたはずだ。尻もちはついてしまったが」
事実、悪夢の件はともかくとして身体の方はレントンに突き飛ばされて倒れ込んだ時に尻もちをついた程度で済んでいた。
もし突き飛ばされることがなければ至近距離で魔力の暴走を受けることとなり、どうなっていたか分からない。
「本当にすまない……」
レントンはむせ返りながら俯いた。
「私はあなたを見捨てない。あなたはこのギルドにいるべき人間だ」
私はきっぱりと言った。その言葉には何一つ偽りはないだろう。
その時、不意に背後の扉をノックする音が響いた。
扉が開く音に振り返ると、そこにはレヴラスが立っていた。
「マスター?」
「何だか騒がしいので様子を見に来たのですが、あなたはまたレントンをいじめたのですか」
レヴラスのその口ぶりは半分冗談めいていたが私にはただの冗談だとは思えなかった。
事の顛末を説明すると、レヴラスは黙って頷いた。
一方のレントンはタオルで目から下を覆ったまますっかり縮こまっている。
そんな彼へレヴラスは身をかがめながら語りかけ始めた。
「あなたは確かに魔術に関して相当な才能を持っていますが、まだ未熟なところはあります。ここで学ぶべきことがたくさんあるのです。それから、今の状態ではあなたを独りにしておくことはできません。だから、あなたはここにいなくてはなりません」
「わたしは……」
レントンはレヴラスへ何かを言おうとしたが、言葉が続かず再び涙に沈んだ。
レヴラスはそんな彼を優しく諭すかのように言葉を続けた。
「……何ヶ月もいなくなって心配しましたよ、もう勝手に姿をくらませるなんてことはしないでください。あなたは私にとって必要な人間です」
私は二人をただ見ていることしかできなかった。
「レクサス、あとは私に任せておいてください。あなたは仕事に戻っても大丈夫ですよ」
「はい、失礼します。マスター」
私はレヴラスに従い、部屋を後にした。
その時、私は一つのことを理解した。
レヴラスも私も同じ時間だけレントンの身辺の世話をしてきたが、レヴラスは私よりもずっとレントンにとって支えになっているだろう。
それはひとえにレヴラスがいつでもぶれることがない人間だからなのだ。
彼は優しさと同時に揺るがない強さをもっている。それ故に、どんなに絶望的だと思える状況の中でも最良の選択を見出そうとすることができるのだ。
ここで私は改めて、レヴラスという人物を魔術士ギルドの長たらしめている強さを痛感させられることとなった。
その一方で、私は自分という人間の矮小さを痛感させられることにもなった。
あまりに自分が情けなくなった私はトイレの個室に入ると、壁に額を押し当てるようにうなだれた。
ぼんやりと数ヶ月前の自分がレントンに言った言葉を思い出す。
実に「心の制御」という言葉は都合がいい。あの時の私はただレントンが感情を剥き出しにする姿を直視したくなかっただけなのだろう。
そもそも「心の制御」とはただ感情を表出させないよう抑え込むこととはまた違う。
そんなことを続けていたら心というものはやがて破裂してしまう。それこそ、魔力を充填しすぎた杖や魔法書のように。
思えば、苛立ちに任せてレントンを攻撃していた私こそ心の制御というものができていなかったのではないか。
自分のことを棚に上げて相手に対してだけ心の制御を強いることはとてもずるい。
気が付くと、私は冷たい壁に額を押し当てたまま嗚咽していた。
*おしまい*
(あとがきのような何か)
レクサスさんの立場回復。相手が生きていたらやり直せることも死んでしまったら無理になってしまうのだと思います。レントンにはもうできないこと。
そういえば"suffer"という単語には「耐える」という意味があるそうですね。その他は苦しむ、患う、傷付く、など。
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